○ Sober / I Drove All Night
スタンドマイクに両手をかけてうつむいたベラは、うたい終わってもその顔を上げようとしなかった。客たちの拍手も気にせず、すぐに次の音楽が流れる。
なにも言わずとも彼女の全身が、“静かに”と伝えていた。その空気を察して、拍手もすぐにおさまった。
そして彼女が、結果的に本音を曝けだすことになった“Sober”をうたう。
わからないの
あなたを待っているのかどうか
わかるのは
二度とあなたに会うべきじゃないということ
あなたの隣でまた泣くことになるのがわかるから
あなたはこれからも約束を守ったりはしないから
一ヶ月経った頃は
すべての現実を否定してた
そして願っていた
あなたのもとへ行きたいと
だけど知ってるの
あなたは二度と戻ってこない
今でもわからない
あなたを愛しているのかどうか
そしてこの感情がどこへ向かうのか
だって 息をしていることが不思議なの
だって 私はあなたなしじゃ生きられないと思ってた
三ヶ月経った頃
あなたを憎もうとした
だけど寂しさは募るばかり
それに、知っていたの
この気持ちを置き去りにすることなどできないと
だって私は
六ヶ月が経って
やっと少し笑えるようになった
八ヶ月が経った頃
あなたの電話番号を消した
九ヶ月経つと
あなたのことが恋しくてしかたなかった
十ヶ月が経って
あなたのことをもっと知りたくなった
十一ヶ月が経ち
あなたを求めた
十二ヶ月… そう、一年よ
一年が経って
私のすべてがあなたを必要としてる
一年が経ったけど
後悔は消えない
やっと、一年が過ぎた
一年経って
私は冷静にあなたを待ってる
そして願ってる
あなたのそばにいたいと
予想以上に感情が高ぶり、起きたことに対する哀しみや苦しみ、後悔と、今やっとこれをうたいあげたのだという満足感が、ベラの心の中で葛藤していた。それでも拍手をくれる客たちに微笑みを返すことはできたので、少なくとも、負けはしなかったのだろう。
「──さて。次もロックバラードだけど、ちょっと雰囲気変わります」彼女はマイクをはずし、スタンドを脇へ移動させた。「詞の三行めにある“Cage”の話をね、ボスとしてたの。単身赴任かもって話になった。単身赴任で男が別のプレフェクチュールへ。女は会いたい一心で車を走らせる。でも会えてないんだな、この曲は。なんでか? 途中でお金がないことに気づいてね、彼女はフェリーに乗れなかったのよ」
客やスタッフたちはどっと笑った。ベラも苦笑う。
「やっぱだめね。こうやって小話したら、ほんとに台無しになるわ、曲が。っていうか私、車の免許そのものを乗ってないんだけど。しかも季節はずれだけど。なのにうたうわけだけど。気にしないで、私は気まぐれに、誰かの代弁者としても存在するわけだから」くすくすと笑う客たちに向かって曲名を紹介する。「んじゃいきます。“I Drove All Night”」
音楽が流れる。これは本当にあったことを、少しだけ設定を入れて書いた詞だ。
実際に運転してくれたのはマルコだった。彼の車で去年、アゼルがいるはずのアマウント・ウィズダムというプレフェクチュールに、アゼルがいるはずの更生施設を見に行った。十二月二十三日の夜にベネフィット・アイランドを出発し、高速道路に乗って約二時間の距離を、日付が変わって二十四日のクリスマスイブになるよう合わせて、本当に、そこまで行った。その眼で施設を見たのだ。
“メリークリスマス”と書いた紙飛行機をいくつも届けた。だがそれは真夜中で、会えるはずなどなかった。身内でもなんでもない彼女が会えるはずなどなかったが、それでも行った。この詞は、施設を見る直前に書いたものだ。
今夜の私の行動を想像なんてできないでしょうね
会えないことはわかってる
だってあなたは檻の中
今日はずっと落ち着かなかったの
朝からずっとよ
眠りたくて 眠れなくて
だけどあなたがくれたジャケットを着たら 眠れたの
一晩中車を走らせたわ
ただあなたを感じるためだけに
あなたはとても遠くにいる
一晩中車を走らせたわ
知らない土地へ
ただ少しでも
そばにいたくて
気づいてくれた?
一晩中車を走らせたのよ
この頃は毎日少し忙しくしているの
あなたのことなんて
考える暇もないくらい
でもあなたはときどき
突然夢に現れる
追い払いたくて 追い払えなくて
あなたの腕の中に落ちるの 夢から覚めるまでと
一晩中車を走らせたわ
ただあなたを感じるためだけに
あなたはとても遠くにいる
一晩中車を走らせたわ
知らない土地へ
ただ少しでも そばにいたくて
気づいてくれた?
一晩中車を走らせたのよ
ちょうど一年前のことを覚えてる?
去年の今日も、こんなふうに雪が降っていた
一晩中車を走らせたわ
ただあなたを感じるためだけに
あなたはとても遠くにいる
一晩中車を走らせたわ
知らない土地へ
ただ少しでも
そばにいたかったから
一晩中車を走らせたわ
今夜はどんな夢をみたい?
この一年、あなたは何度私の夢をみたの?
一晩中車を走らせた…
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閉店時間をいくらか過ぎた頃、ベラは赤白会議室で辞書片手にひとり、ノートと睨み合いをしていた。幹部メンバーを待っているのだ。メインフロアで働くスタッフのほとんどは帰ったものの、幹部は残ったシンガーやバンドたちと一緒に、控え室で来週の打ち合わせをしている。
ちなみに営業が週三回になれば、店のオープニング曲である“Black Star”は、金曜だけにうたうことになる。金曜、土曜、日曜を週末のひとまとめにしようと考えたからだ。できるならと、いくつかのバンドは“ブラック・スター”をテーマに別のオープニングを曲を考えるつもりでいる。これから先営業曜日が増えたとして、そこからオープニング曲をどう扱っていくかはまだわからない。
最近聞いた数少ない恋愛の話を思い出しながら、ベラはあれこれ考えていた。しかしテーマも流れも物語りも、まったくといっていいほど見えてこない。無理にひねり出してもどうせボツになるだけだからと、早くも諦めにかかる。
辞書をテーブルに放り置くと、そばにあった白い紙が少し動いた。唇を尖らせてそれを手に取る──紙には誰のものかわからない携帯電話番号がメモされていた。
数時間前、客に営業曜日追加の知らせを入れてからあの三曲をうたったあと、少ししてから地下二階に戻ろうとしたところで、入り口に立っていたバイトの男に呼び止められ、これを渡された。客から預かったものだという。
預かったのはそれなりに忙しい時間帯で、店に入れたからには十七歳以上なのだろうものの、サングラスをかけたライトブロンドの短髪の男だということ以外、よく覚えていないらしい。ベラがステージを終えた頃、ただ“イザベラに渡せ”とだけ言い添えて、その男は帰った。
自分の、愛称ではなくちゃんとしたファーストネームを知っている十七歳以上の人間というのは、いったいどれだけいるのだろう。アドニスたちは知っている──マルコも知っているが、そもそも知っている人間なら、こんなまわりくどいことはしないはずだ。地元の人間という可能性もあるけれど、こんなことをされる覚えはない。というか地元の、ひとつふたつ上の人間なら、自分には関わらないほうがいいというのを、それなりに承知しているだろう。
誰にせよ──ここでうたっていることを、自分の知っている人間に言いふらされては困る。だが電話をかける価値はあるのか? 店の幹部たちからファーストネームを聞いただけの、ただの客かもしれない。電話番号が欲しいだけでこれほど面倒な計画を実行する人間と話をするというのも、おかしな話だ。
そんな考えを頭の中に巡らせながらひととおり悩んだあと、ベラはメモに従って、自分の携帯電話にその番号を入力した。当然の非通知設定で電話をかける。
──通じた。呼び出し音が鳴る──それが途切れた。相手が電話に出たのだ。
彼女は喋らなかった。耳を澄ませた。相手もなにも言わない。
電話が切れた。
ベラは苛立った。
短気なのだ。そんななので、彼女はもう一度電話をかけた。今度は番号を通知して──また、呼び出し音が鳴った。しかし待たされた。
何度目かのやっと呼び出し音がやっと途切れる。
「誰?」彼女は不機嫌な声で訊いた。
相手はすぐには答えなかった。彼女の苛立ちを煽るよう少し沈黙したあと、やっと口を開いた。
「──ナイフ」
目を見開き、ベラは自分の耳を疑った。
「──返せ」
ありえなかった。いや、ありえないことはないのかもしれないが──彼女は声を聞いただけで、それが知っている相手の聞き慣れた声なら、誰の声かがわかる。数少ない彼女の長所だった。
そして聞き覚えのあるその声は、その声からベラが連想した人物は、もう二度と会うことがないと思っていた相手だ。
忘れることなどできるはずがないその声に、ベラの手が震えた。泣きそうになった。震える唇を噛みしめ、身構えた。他の人間だと思うことも可能だったかもしれないのに、直感で彼だと感じた。そもそもナイフのことを知っているのは極少数の人間で、自分と彼以外にそれを知る人間は、今日この店に来て彼女と電話で話をするなど、できる状況にないはずだ。それどころか、それを返せと言うのは、彼以外にありえなかった。
彼女がどうにか口を開く。「──アゼル?」
数秒待っても、相手は答えなかった。
「今──どこ?」
その質問には答えがあった。
電話が切られる。周りを片づけ、ベラは会議室を、スタッフフロアを、ブラック・スターを飛び出した。




