○ Make Up Mind
地下二階、ベラはケイトを連れて赤白会議室に入った。冷蔵庫を可愛いと褒めたケイトは、冷蔵庫の中身を見てぽかんとし、笑った。去年はじめて会った時から、ベラが未成年にもかかわらずビールを飲んでいることを、彼女は知っている。
ケイトの相談というのは、ブラック・スターでのことだった。オープン時から時々、人手が足りない時には主にホールを手伝ってくれているのだが、他の多くのスタッフと同じように、ちゃんと履歴書を渡して仕事をしたいと思っているらしい。けれどさりげなくディックに言っても、うまくはぐらかされてしまっている。
店としての現状はどうかと言うと、客の数は減る気配がないが、両替機は届いたし、オープン時に比べればスタッフも増えているので、夕食注文のピーク時にホールや厨房で少々人手が足りなくなること以外、特に困ってはいない。
「ヤンカには相談したの?」ベラは訊いた。
彼女がうなずく。
「なんとなくだけどね。先週、ちょっと言ってみたわ。でも彼女は、ディックは自分の恋人にそこまでさせたくないんだろうって。変な意味じゃなくて、自分の恋人を雇う立場になるのがイヤなんじゃないかって」
一理ある正当な理由だとベラは思った。だがディックのことだ。もっとくだらない理由のような気もする。
ありえそうな理由を、頭の中で素早く考えた。
今でこそ四ヶ月も続いているが、元はなんとなくで口説いた相手だ。くわえてあの性格。店のこと。ケイトは何度も控え室に入っているし、“当面スタッフ同士の恋愛禁止”と書かれた貼り紙も見ている。でも、それはベラを守るためのものだということも知っている。他の人間に対する立場などは関係がないし、彼がそんなことを気にするはずもない。
おそらくある程度のことはヤンカも想像している。言わなかったのは、単にケイトに気を遣ったからだ。
「もしかしたら、なにか聞いてないかなと思って」ケイトが言い添えた。
ディックが考えそうで、だけど言わないだろう理由なら、なんとなく思いつく。
「残念ながらなにも聞いてないけど」と、ベラは切りだした。「でもスタッフになったら、今と少し状況が変わるかもしれない。もし別れることがあるとして、今のままの“ボスと客”なら、ディックがフロアに出なければ、あなたはこの店に来られる。スタッフの目はあるだろうけど、今のスタッフたちはボスの女ってことで一線を引いてるから、話すのはほとんど、幹部と一部のスタッフだけでしょ。でも正式にスタッフになったら、他のスタッフとも今以上に打ち解けることになるかもしれない。そしたら、もし別れちゃったらだけど、あなたは客として、この店に来づらくなると思う。別れたら、あなたは確実に店を辞めることになるわけだし。それを止めはしないだろうけど──それに、プライベートでの関係が変わっちゃう可能性もある。些細なことに思えても、大きな変化のきっかけにはなるから」
ベラにしては少しスローな口調で話される可能性の話を、ケイトは真剣な表情で聞いていた。意味を理解し、ゆっくりと溜め息をつく。
「そうね。別れたくはないけど──もしかしたら、なにかが変わっちゃうかもしれないわよね──」
それ以上続けず、彼女は黙った。諦めたほうがいいのかを考えている。
ベラもさらに考えた。はっきりと聞いたわけではないが、おそらくの可能性が、まだある。自分が言っていいことではないが、本人から言われるよりもダメージは少ないような気がする。けっきょく、ベラは言うことにした。
「それから、これはほんとに、ただの私の勘。保障はない。もしかしたらってだけ」
ケイトは身構えた。「なに?」
「たぶん今のディックは、結婚願望がない。もしかしたら一緒に住むことはあるかもしれないけど、結婚願望はまったくと言っていいほどないと思う。ついでだから言っておくけど、結婚をほのめかした時点で、関係が終わる可能性がある。結婚を信用してないとか、あなたとのつきあいがただの遊びだとか、そういう問題じゃない。あなたのことは大切にしてる。でもディックにとって、この店がなによりいちばんなのよ。週末だけの営業を、いつかは週一の店休だけにする。時間はかけるけどね。落ち着く暇なんてないと思う。それにもしスタッフになったとしても、ヒルデとヤンカみたいな、無線を使ってみんなの前で平気で痴話喧嘩するような仲にはなれない。スタッフになったら、もしかしたら、店では一線を引くことになる」
彼女の表情は少し不安げなものになっていた。一線を引くというのは、どの程度のものなのだろうと考えている。それに結婚願望。つきあって四ヶ月、結婚を考えるにはまだ早いだろうが、結婚願望はある。子供っぽさと年上の大人の魅力を兼ね備えた、話し上手で聞き上手な彼。音楽に対する情熱。いろいろな分野において、自分の知識以上のことを知っていて、会えば会うほど、話せば話すほど、新しい発見がある。言うまでもなくディックに夢中だ。そんなことを考えるべきではないとわかっていても、将来結婚するなら彼がいいと思っている。
けれどその望みがないということが、将来、自分に本格的な結婚願望が生まれた時、自分に、自分たちにどう影響するのか、今はまだ想像がつかない。
なぜだろう──あくまで可能性の話なのに、ベラが言うと、本当にディックがそんな考えを持っている気がする。確かに彼は、店の将来像を語ることはあっても、恋愛面での未来像や自分がどうしたいかなどは、語ったことがない。
なにも言わないケイトに背を向けるよう、ベラはエグゼクティブチェアを左に少し回転させた。
「──それに」と言葉を継ぐ。「恋愛関係にある以上、いつかは別れる可能性があるわけだから、なにをどこまで教えるかっていうのも、悩むことになる。教えないことで信用されてないなんて思われるのは、ディックにとっては心外。店の鍵もそう。でも彼は、変なところで白黒はっきりさせたがるっていうか、細かい部分がある。先のことを計算することもある。色々考えてのことだと思う──。スタッフになったら、少なくとも店では、他のスタッフと同じように扱われる。細かいことを知ってるのは幹部だけ。
いい例があれよ、厨房チーフ。彼女のことは幹部みんなが昔から知ってるけど、ディックにとってはなにもかもを話すほど深いつきあいってわけじゃない。だから立場は上のほうだけど、幹部じゃないし、ぜんぶを知ってるわけじゃないの。店の鍵も一部しか持ってない。これから変わる可能性はあるけどね。それと同じ」
話しながら、なぜ自分がそれほど信用されているのか、ベラは不思議に思っていた。店のことに関しては、ディックの予想以上に精神を捧げている。ただ境遇が似ていたというだけなのか、それともなにかやらかせるような年齢ではないと思っているのか──年齢はおそらく、理由ではないが。実年齢以上にしっかりしている、いざとなれば恐ろしいほど行動力のある人間だということを、彼は知っている。
それに店の鍵をもらったのは、ベラがブラック・スターでうたうと決めてからほんの数ヶ月後、初オープン前のことだった。裏切る気など一切ないというのを、音楽をとおして知ったのか。だとすれば、音楽というのは、どれほどの力を持っているというのだろう。もしかすると、人間性を信じているというよりもただ、音楽に対する情熱を信じているだけかもしれないが。
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可能性として考えられることはすべて言ったつもりだった。ベラも今度は、ケイトの言葉を待った。どのくらい続いたかわからない沈黙のあと、彼女は静かに切りだした。
「──もう、なにも言わないほうがいいのかしら。負担になんてなりたくないもの──もし別れちゃったら、この店には来られなくなるんだろうなっていうのは、わかるわ。私はただ、この店が好きで、力になれたらって思うだけなの。彼との時間に不満はない。ディックは夜がほとんどダメなぶん、平日のランチに誘ってくれるから。もちろん、もっと一緒にいられればいいけど──店のことはちゃんとしてほしいし、困らせたくはないから、我慢してるわけじゃなくて、今のままでじゅうぶんよ。これ以上のことを求めてるんじゃないの。社内恋愛の実例はいくつか見てるから、一線を引く必要があるってのもわかってる。そういう意味では、スタッフと同じ扱いになっても構わないんだけど──」
言葉を切ると、ケイトはゆっくりと溜め息をついた。テーブルに肘をつき、両手で額を覆う。
「覚悟が足りなかったわね。私がスタッフとして仕事したいって言った時から、彼の覚悟は決まってる。それに比べれば、私は軽い気持ちだった。そこまで深く考えてなかったわ──困らせたくないのに、また困らせちゃった。言うべきじゃなかったわ」
肩越しに彼女の言葉を聞いたベラは、小さく吐息をついた。チェアをくるっと回転させて再び彼女のほうを向き、テーブルに両腕を寝かせる。
「今言ったことは、ディックが考えてるってことで意味ではただの勘でしかないけど、いろんな可能性の話。その可能性をありえる話だって仮定して、すべてを覚悟したうえで、それでもここでスタッフとして働きたいっていうなら、私がディックを説得してもいい」
顔を上げたケイトは困惑した表情で彼女を見ている。ベラは続けた。
「先に言っておくけど、三重、四重の顔がある生活っていうのは、普通ならわりと疲れるわよ。会社での自分、ここでの自分──と、ディックとの関係。それから、彼とのプライベートな面。私の場合、地元連中に向ける顔、高校での顔、この店でのディックたちに向ける顔、客に向ける顔ってのが、基本的には同じに見えて、ちょっと違う。慣れてるからなんてことはないんだけど、高校ではいちばん、自分の本性をコントロールしてる。問題起こさないように、面倒にならないように。
あなたの場合、それをこの店でやらなきゃいけなくなる。最初はどうってことないように思えるの。でも人間はストレスが溜まる。欲が出る。わがままになる──でも続けようと思ったら、それをセーブし続けなきゃいけない。疲れてくる。私たちがここで音楽をやることでストレスを発散させてるように、二重、三重の生活を逆手にとって楽しめれば、それがいちばんいいんだけど。でもあなたはうたうわけじゃないから、音楽を間近で聴いて口ずさむことでしかそれができない。もちろんここで働くなら、あなたの意見を入れた曲を作って私たちがうたって、ストレス発散の手伝いをすることもできるけど。まあ、覚悟って言ってもこれに関しては、がんばるって言うくらいしかできないだろうけど──そのつもりがあるなら、私がディックを説得する」
さっきと違ってとんとん拍子に話されるその言葉の意味を、ケイトはこれ以上ないくらいに頭をフル回転させて考えた。
ベラの言うとおり、二重どころか、三重、四重の生活になるかもしれない。最初はなにも変わらないように思えて、続ければだんだんそれがわかってくる。就職した時がそうだった。予想を遥かに上回る意味で、大学と同じではいられなかった。その他にも、その時はそういう考えをしたことはなかったが──今思えばそういう状況だったのだと思えることはあった。
それでもディックの力になれるのなら、そんな心の負担に耐える覚悟が、自分なりにはできるつもりだ。それほど彼に夢中になっている。
「でも」と、ケイトは続けた。「ディックが困るんじゃないかしら? 負担にはなりたくないのよ」
「だから、それを説得する。ここで話したことを彼に喋ることにはなるけど、ディックだって、あなたが私に話したってことについて、あなたにとやかく言うことはなしないはずよ。オープンの時のことを考えれば、あなたと私が話すことに関しては、彼はそれができる立場にないもの。私からすれば、ディックが曖昧にはぐらかすのが悪いんだし。
アレの考えを予想できるはずのヤンカですら、気を遣って言わなかった言葉を聞く覚悟があって、私のとこに来たわけでしょ。さっき言ったいろんな可能性に関して、あなたがそれなりの覚悟を決めたうえで、ここでセカンド・ワークしたいって言うなら、それ以上、ディックがこれを拒否する理由はないと思う。あなたに話を持ちかけられた時から、そうなった場合の覚悟はしてるはずだから」
ディックだけでなくヤンカも、自分に気を遣ったからこそはっきりと言わなかったのだろうとわかり、もしかしたらなにか聞いているかもと少しの望みをかけてベラのところに来た。ケイトにはそれが図星だった。
ベラは遠慮しない。普通なら言わないだろうことを、彼女はいつも言う。単に子供だからだとか、口が悪いとか、思慮に欠けるとか、そういうことではない。大人なら気を遣って言わないことを、彼女は相手が聞きたい言葉を伝えるためだけに、ちゃんと考えたうえで、自分の考えをはっきりと口にする。相手を傷つけるためではない。相手が知りたがっているからだ──ディックや他の幹部スタッフによれば、言わなくていいことまで言う癖もあるし、実際には口も悪いようだが──年齢のわりに聞き上手で、子供なのに変に落ち着いていて、そっけない部分もあるものの、話の内容しだいでは、真剣であればあるほど、ほとんどは黙って話を聞いてくれる。
キュカやエルバも少し言っていたが、ただの愚痴なら、時々とんでもないことを口にして笑わせてくれる。口も堅い。詮索嫌いらしく、自分の素性はあまり語らないうえ、たいていのことには無関心だが、そのぶん自分がどう思われるかは関係なく、考えをはっきりと言ってくれるので、なにでどんな反応を見せるのかが気になり、ある程度のことなら話してしまうという。
ケイトは改めて、みんなの言っていたことがわかった気がした。ベラに相談すればと思いついた時、今年二十四歳になる自分が、まだ十六にもなっていない少女になにを求めるつもりなのだとも思った。しかしその結果、自分が望んだ答えを、望んだ以上の答えを、彼女はくれた。
これだけはっきりと言ってくれたのだ。自分なりに覚悟ができる。むしろここで引くのは彼女に悪い気がする。確かに軽い気持ちで言いだしたことだが、生半可な気持ちだったつもりはない。ベラは彼の結婚願望の無さを口にはしたけれど、自分の受け取りかたが間違っていなければ、結婚願望を捨てることは、今はまだしなくていいのだろうし。ディックを困らせたくないという気持ちは、きっといつまでも変わらないだろう。
覚悟を決めたケイトは背筋を伸ばし、真剣な表情をベラに向けた。
「なら、お願いできる? それでもダメっていうなら、これ以上はもうなにも言わない。でもいいって言ってくれるなら、ちゃんとするわ。どこまでできるか、はっきりとはわからないけど、一線を引く覚悟もする。店ではただの店長とスタッフ。それで構わない。特別扱いなんてしてくれなくて構わない。そう彼に伝えてくれる?」
ベラは彼女に微笑みを返した。「わかった」




