* Boss
先ほどまで彼女が滞在していた赤白会議室の隣に、内装を白と黒でまとめた会議室がある。赤白会議室には鍵がついているのに対し、この部屋はいつでもオープンだ。
そのドアを軽く二度ノックすると、ベラは返事も待たずにそれを開けた。
途端、信じられない光景が目に飛び込んできたので、彼女は思わず天を仰いだ。
オープン記念を祝う花束がひとつ置かれたテーブルの上、チェアとチェアのあいだに腰かけたディックの首に、黒髪の女が手をまわしていたのだ。その女には見覚えがあった。この店の内装、インテリアを担当した業者の女だ。ベラは話したことはないが、何度か見かけたことがある。
「あら」と、女はディックから手を離した。「お客様かしら」
「ケイト、なんでここに──」
彼女たちに見せている表情以上に驚いたらしいこの男こそ、ブラック・スターの店長、ボスであるディックだ。今年──というか、来年の一月に三十歳になる。最も得意とする楽器はギターだが、ボスだけあってか、他の楽器もまんべんなく扱える。
ディックとケイトが出会ったのは去年十二月、クリスマスイヴのことだった。ベラは彼に連れられ、ウェル・サヴァランという、今はこの店でオープンを待っているバンドのライブを観るために、同じセンター街のナイト・タウンにあるライブハウスに行った。そこでサヴァランの情報を教えようと声をかけてきたのがケイトだった。おそらく彼女にはそんな気はなかったと思われるが、ディックはすぐに口説きモードに入り、その日のうちに彼女の心を掴んでしまった。
だが十五歳と二十九歳という、一見不自然すぎる年齢の説明に困ったのか、ディックはとっさに、ベラのことを義兄の連れ子だと嘘をついた。彼はひとりっ子で、兄弟の類はいないのに。しかもその時から一年前には脱サラしていて、彼女と知り合った時はブラック・スターを開店させるための準備をしている状態だったのに、信用の問題だとかいう理由で、サラリーマンだと嘘をついた。以前の仕事を今も続けているように話すのだから、リアリティも増したのだろう。
翌日のクリスマス当日、二十五日には家に連れ込んだようだが、それもそのうち引っ越すからという理由からだった。ところが本人の予想以上に交際は長続きし、二月に引っ越した先の新居もけっきょく教え、嘘とうわべと女の扱いに手馴れたディックでさえ、どうしていいのかわからない状況になっていた。
唖然とするケイトに向かって、ベラが簡単に説明する。
「ディックがこの店のボスなのよ。サラリーマンじゃないの。ついでに言っておく、私は彼の義兄の連れ子とかじゃない。ディックに兄弟はいないから。ここのボスとスタッフっていう、それだけよ」
彼女はゆっくりと、ベラのほうを向いた。
「──ボス?」
「そう、ボス。店長。オーナー? ちょっと違うか。ビルのオーナーは別にいるから。とりあえず、私やウェル・サヴァランを雇ってるのが、ディックなの。あなたの恋人」
突然、黒髪の女がディックに訊く。「あなた、恋人がいるって本当だったの?」
彼は呆れた顔を返す。「だからそう言っただろ。確かに去年はいなかったよ、十二月のクリスマスまでは。けど今は」ケイトを示した。「彼女とつきあってる」
「なんで早く言わないのよ?」
「言っただろ。君が信じなかっただけだ」
女は反論した。「言ったのは今日、今さっきじゃない。それまでずっと、店の準備で忙しい忙しいって言ってるだけだったでしょ。そんな男に女ができてるなんて思う? だいいちあなた、あたしが食事に誘っても断らなかったじゃない。やっと落ち着いたからって連絡くれて、先月デートしたわよね? 今だってそうよ、首に手まわしても、拒否しなかったじゃない!」
「食事はただの礼だろ? 二月、そこにいる小娘が言いだした無茶ぶりなインテリアの相談に乗ってくれたからだ。彼女がいるって言ったのを信じなかったのは君。確かに拒否はしなかったけど、そういう性分なんだよ。それ以上なにかしてくるようなら、ちゃんと止めてたさ」
「はあ? 性分って──」
「うっせーよ!」
ベラは二人に向かって怒鳴った。その瞬間、驚きでケイトの身体がすくみ上がったものの、気にせず戸口にもたれて腕を組んだ。
「ガキじゃないんだから、くだらないことでモメるの、やめてくれます? っていうか、モメるなら店が終わってからにしてくれます? それから、オープンの前にボスを独占するってのもやめてもらえます? 勝手やって、あとから怒られるのはこっちなんで」
女は怒り任せに天を仰いだ。
「ああ、もういいわ。アホらしい。帰る」
そう言うと、彼女は挑戦的にベラとケイトのあいだを割って通り、何事だと集まってきていた野次馬たちのあいだをつかつかと進んで、廊下の奥へと消えた。
「ケイト、おいで」
ディックが彼女を呼び、ベラは依然状況がよくわかっていないらしいケイトの背中を促した。
「ベラ、ドア閉めろ。五分で出る。それまでは誰も入れるな。緊急だってのも無視。見張っとけ」
渋々ボスの命令を了承した。閉めたドアにもたれて廊下に座りこみ、野次馬たちの声を聞くまいと耳を塞いだ。
そこに、デトレフがやってきた。今年二十七歳、マトヴェイの同級生で悪友、パッシをからかうのが好きな男だ。担当楽器はドラム。面倒事が嫌いで女癖が悪く、二度の離婚暦がある。それでも、マトヴェイと一緒にまだ遊ぶ気でいる。今さら結婚願望などあるはずもないが、女好きな点は昔と変わりないので、この店の幹部いちばんの危険人物だ。客を口説きすぎるなと、ディックを含む年上の幹部たちに散々言われている。
他のバンドマンたちが一緒になって探ろうとするのも気にせず、あくまでディックの嘘を知るデトレフだけに話しているという建て前で、ある程度の事情を説明した。デトレフは大笑いした。嘘のことを知らないバンドマンたちの中で、ディックに対する評価が上がった。
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赤白会議室。
「ごめんね、気を遣わせちゃって」チェアに腰かけたケイトが申し訳なさそうに切りだした。「最初はこんなことになると思ってなかったって。私の顔を見てたら、どんどん言いだせなくなったって」
ベラは質問を返した。「私はいいんだけど、あなたはいいの?」
「驚きはしたけど──彼女とはなにもないって言ってるし、嘘のことも、状況を考えればしかたないもの。三ヶ月つきあって、疑いを持たなかった私もおかしいのよ。夜は零時を超えるくらいじゃなきゃ会えないとか──最近は本当に、デートの回数も減ってたし。嫌われてるんじゃないかって不安になってたけど、むしろ事情がわかって納得したわ」
ケイトに対しては子供っぽいというイメージしかなかったが、意外とそうでもないらしい、とベラは思った。てっきり泣きわめくものだと思っていた。まぁさっきのあの状況では、泣きわめくことなどするべきではなかったが。
彼女は今日の夜、ちゃんと詳しいことを話してくれると約束してもらったとつけたした。「っていうかあなた、十五歳なんですってね?」
「そう。来月十六になるけど」と、ベラ。
「ああ、そうなの? それもさっき聞いたの。びっくりしたわ、去年会った時でもう、十六か十七歳くらいだと思ってたから。すごくおとなっぽいんだもの」
老けてるって言いたいの? というセリフが脳裏に浮かんだが、無視した。散々言われてきた言葉だ。今さら誰に言われたところで気にはならない。それと同じで、あなたは子供っぽいわよね、などという嫌味も、あえて返さない。
「あなたはうたわないの?」ベラは彼女に訊いた。「聞いたかわからないけど、この店、女シンガーを募集してるのよ」
ケイトはすごい勢いで首を横に振った。
「だめよ、絶対だめ! 酷い音痴なの、本当に。それはディックも知ってるわ」
これももしかしたら、ディックが彼女にこの店のことを言いだせなかった原因のひとつかもしれない。「そうなの、残念」
そう答えたものの、よく考えてみると、スタッフの誰かと交際する客をシンガーに迎えるのはどうなのだ、という疑問が出てきた。
一ヶ月前、ベラは友達だと思っていた男に告白され、それを断り、“友達”という関係を失った。もうひとり、友達といえるほど良好な関係でもなかった男に、やはり告白めいたことをされ、それも断った。鈍感すぎてなにも気づかなかった自分に嫌気がさした。
その愚痴を聞いて心境を察してくれたディックが、当面スタッフ同士の恋愛は禁止というルールを作ってはくれたものの、それは女シンガーがベラひとりしかいないという今の段階でのルールでしかなく、おそらくいつかはなくなるものだ。
もともとこの店は、音楽を通して知り合う新しい出会いの場というのを趣旨にしている。客同士だけでなく、当然スタッフやバンドマンたちも出会う気でいる。それを全面的に禁止することなど、おそらくできるはずがない。
ディックから、人前で歌をうたえる女シンガーを見つけ出して引き入れるという任務を任されている。ということは、気をつけていなければ、恋愛関係のもつれでスタッフやバンド連中が辞めることになるとか、そうはならなくても、客が減ってしまう可能性もある。責任すべてがまわってくることはないだろうものの、客同士の恋愛感情のもつれは仕方ないとしても、スタッフやバンドのせいで客が遠ざかることもある程度は承知の上なものの、スタッフやバンドが辞めるという事態は避けたいところだ。もちろんスタッフ同士で勝手に恋愛をはじめ、別れて気まずいからどちらかが店を辞めるなどという話を、ディックが簡単に許すはずないが。
ノックされ、再びドアを開けると、幹部のひとりであるヤンカが立っていた。
「ベラ、みんなで一度、上に集合よ。ペーパーカップにドリンクを用意したわ。バイトの子たちも全員到着したから、みんなで乾杯してから店をオープンしましょ」
彼女はディックの同級生で、今年三十歳になる。ピアノ、すなわちキーボードが得意なものの、基本的に演奏はせず、フロアの一角にあるドリンクバーを受け持つ。そしてもうひとりの幹部、フロアチーフを務める男の妻でもある。
わかったと答え、ベラはケイトを紹介した。挨拶がてら、ヤンカは彼女にハグをした。
「あなたがケイトね、話は聞いてるわ。ごめんなさいね。ディックのあの逃げ腰、昔からなのよ。私やベラが何度言っても、なかなか聞かなくて。なにせ周りが、彼の肩を持ってばかりだから」
ケイトは苦笑を返した。
「いえ、いいの。私にも悪いところはあったもの。これからまた彼を知ることができるんだから、すごく楽しみよ」
「あら、すごくいい娘ね。ディックにはもったいないわ」
「ほんとにね」と同意して、ベラはケイトに言った。「あなたも来て、バンド連中やスタッフのことはほとんど知らないんだけど、幹部のことは紹介する」