○ Trick Of The Imagination
誰かとつきあったとしても、家族と一緒に住んでいると嘘をつくか、ナイトホテルを使うかだ。なので中学二年生の時からジョエルと二人暮らしだということは、本当に一部の人間しか知らない。自分たちにとってあの家はスタジオでありバンドの住処そのもので、そうじゃない人間に居座られては困るからだ。とはいえ、ジョエルと長くつきあっているヒラリーは自宅にくるし、ふつうに泊まりもしているが。
ホテルの一室に入ると、キュカはすぐに買いすぎた酒を備え付けの冷蔵庫に詰めた。謎のレポート用紙とペン二本、お菓子をテーブルに置くと、暖房のスイッチを入れてから、袋に入ったままの下着だけを持ち、シャワーを浴びてくると言ってバスルームへ向かった。
部屋は狭い。ダブルベッドの横には小さなチェストがあり、さらにその横のコーナーにはダークブラウンのアンティークソファが二つと小ぶりなテーブルがある。壁は一部が白黒のボーダーになっていて、まるで誰かの自室のようだ。
ジョエルに、“帰れんぽい”とだけメールを送ると、携帯電話の電源を落とした。ベッド横のチェストの引き出しに充電器を見つけ、とりあえず充電をしておく。シャワーは数時間前、店から帰った時に浴びた。なので自分は浴びなくてもいいのだが、とりあえず、どうすればいいのか。
ベッドに寝転ぶと寝てしまいそうなので、上着を脱いでソファに腰をおろし、レポート用紙とボールペンを手にとった。とりあえず詩を書くことにする。さすがにこの状況を素直に言葉にすることはできないので、深く考えないことにして。
けっきょくメルヴィナとは完全に終わった。メルヴィナが店にくることもなくなったし、フィービーとタバサも来ていない。ディックの誕生日のあとの、謎の女子会営業には来ていたらしいが──マーヴィンはフィービーとまだつきあっているものの、フィービーも同じく店にこないわけなので、会う時間は減っている。それは自分とメルヴィナのせいかと思ったが、マーヴィンは“しかたない”と笑っていた。どっちも、お互いのツレのがだいじだからと。
メルヴィナがなにに怒っていたのか、それは今になってもわからない。時々考えるものの、さっぱりわからない。最初の頃はうまくいっていたはずが、だんだんいろんな部分が気になるようになり、よけいなこと──煙草のことまで言ってしまったりして、喧嘩が増えた。
最初は、同じタイプだと思った。ひとりがキライで、面倒なことがキライで、弱い奴がキライで。
でも、違う部分があった。それが大きかったのかもしれない。
自分は、居場所を自分で作るでタイプだ。性格なのか運なのかはわからないが、ジョエルの横(前?)が自分の居場所で、今のバンドが自分の居場所だ。ジョエルの横というのは授かりものだが、それ以外は自分で作ってきたし、そこにいられるように努力してきたつもりだ。
でもメルヴィナは、他人の中に自分の居場所を求める女だった。流されやすいわけではないだろうし、意見もはっきり言うが、自分が選ばれなければ気が済まないタイプだった。ひとりでいるくらいなら、キライな相手と一緒にいるほうを選ぶ女だった。
最初は強い女だと思ったが、そうではなかったらしい。
弱い女は嫌いだ。つけこまれたり、流されたりする女は嫌いだ。そのあたりはジョエルと好みが違うらしく、ジョエルは守ってやりたくなるタイプを好きになりがちだが、自分は違う。母親のように、流されて、つけこまれて、あげく捨てられるような──実際のところ父親は、家系というか、家柄のデカさに腰が引けて逃げ出したらしいが──そんな女は好きじゃない。守りたくないとか守れないとか、そういう物理的な問題ではなく、どちらかというと、強い女のほうがいい。自分のような男に振り回される女は好きではない。
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ふと、手になにかが当たった気がして、いつのまにか閉じていたらしい目を開けた。傍らにしゃがんでいるキュカが、自分が持っていたはずのレポート用紙を持っている。
そこには詞を書いた。「勝手に読むなよ」と、ベンジーは言ってみた。
「んー」
意識がはっきりしてきて、ベンジーはまたぎょっとした。「っていうかお前、なんでバスローブなんだよ。服着ろよ」
彼女は「気にすんな」と答えた。シャワーを浴びたらしいが、髪はアップにまとめていて、濡れてはいなさそうだ。すっぴんというわけでもないらしく、メイクをなおしたか、一度落としてまた濃すぎないメイクをしたようだった。「あんたって、たまに意外と純情そうな詞書くよね」口元をゆるめて言うと、テーブルに置かれている瓶ビールを差し出した。「飲め」
なんの命令? とは思っても受け取る。「ほっとけ」もう寝たい。マキシキャップを開ける。ビールは中途半端にぬるくなっている。すぐに酔いそうだ。もともと飲み慣れているわけではないので強くもないし。
「あたしも書かなきゃいけないんだけど」キュカは左隣のソファに腰をおろした。「どうも苦手なんだよね、文章って」立てた脚にレポート用紙を抱えたままビールを飲んだ。
「そんな深く抱えなきゃいいだろ。文章っていうほど長くもない。“ヒトコト”の詰め合わせだし」
「でもまとめてるじゃん? ジョエルもだけど、うまいぐあいにさ」
“ぐあい”とは。「まとめてるっつーか、まとまらん時もある。けどどっかで選んで削ってってしねーと、収拾つかなくなるだろ。だからたまにメロディふざけてごまかしたりするし。勢いみたいなヤケみたいな」本当に深く考えているわけではないので、どう言えばいいかわからない。「ベラみたいに物語的なのは作れねーし」
「あれは天才。どこからあんなに言葉が出てくるのかがわかんない」
「けどお前だってうるさいくらい喋るんだから、書けねぇことはないと思うぞ。とりあえず書けばいいんだよ。キモチでもなんでも。オレだって文章が得意なわけじゃない。メロディに乗せちまえば、わりとどうとでもなる」──ような、ならないような。
「それが難しいって言ってんのに」拗ねたような顔をすると、キュカはまたビールを飲んだ。
ベンジーは酔わないよう、気分が悪くならないように気をつけながら飲むことにした。「オレは最近また、詞書くのも曲作るのも楽しくなってきた。今まで、気が向いたらなんか考えて、できたらできたでいいや、くらいの感じだったんだけど。今はそうじゃなくて、なにがなんでも捻りだそうとしてる。店の営業日、ぜんぶに出れるくらい。まぁ一ヶ月、毎回違う曲うたうってのは無理だけど。そもそもステージに立てない時だってあるし。作りたいしプレイもしたい。そのうちベラみたいに、ただの口出しじゃなくて、自分たち以外にも曲作れるようになりたい気もする。やっと大学にも慣れてきたし」
「あんたも音楽バカだよね」キュカは立てた脚をおろしてレポート用紙の上でビール瓶を両手で持ち、うつむいた。「浮気、したことある?」
「ないし。硬派だし」
「それは意外」
「そんな暇はない」
「暇があったらすんのかよ」
「なんだ。されたのか、ジョンに」
彼女はゆっくりと首を横に振った。
「んじゃお前が浮気相手?」訊いてみたが、今度は動きがない。「え、自分が浮気してヘコんでんの? そんで自己嫌悪?」
「してないし」
「じゃあなんだよ」
「──わかんない」
キュカはまた立てた脚を抱えて顔を伏せようとしたが、ビール瓶のことなど考えていないらしく、ビールが少々床にこぼれた。ベンジーは慌てて立ち上がりそれを取った。
「だからなんなんだよ」呆れながら言った。まだ中身の残るビール瓶二本を床の邪魔にならない位置に置き、お菓子をよけてテーブルの端、足でこぼれたビールを踏まないよう、キュカの正面に腰かけた。「なにをそんなに病んでんだよ。エルバと喧嘩したからか?」
キュカはまた、伏せたままの首を横に振った。
「──彼──けっこん、してるかもしれなくて──」そしておそらく、泣きだした。
まさかの言葉に、ベンジーはかたまった。けっこん。結婚。血痕。ケッコン?
店は火曜と金曜、土曜と日曜の営業。ベラいわく、火曜と金曜にしか店にこない。キュカは週末がやすみ。でもジョンは忙しいらしい。火曜と金曜にしか店にこない。キュカは土日は店にいる。デートもしていない。
結婚。浮気。いや、不倫。不倫? キュカが? ジョンが? ジョンが結婚していて、でもキュカとつきあってて。やることはやってる。ヤッてる。ヤッてるってことは、結婚してるってことは。
キュカも過去に浮気をされたことはあるらしい。でもそれに対しては、そういう男なんだとわかった瞬間冷めると言っていた。入れ込んでいるわけじゃないし、と。
なのに今現在、キュカは泣いている。泣きわめくわけではなものの、泣いている。怒っているというより、絶望している。キュカは二十四歳で、結婚を考えてもいい年齢だ。ここ最近は幸せそうだった。幸せなはずだった。
キュカは、“してるかもしれない”と言った。確定ではない。でも、それを疑ってる。
それ以上踏み込めなかった。当然だ。なにが言える? 確かめろとか気のせいだとか、そんなことを言える立場ではない。そもそも相手はこのあいだちょっと会っただけの男だ。なにも知らない。なにも言えるはずがない。
どうするべきかがわからず、頭を撫でる、というより、手を添えるしかなかった。
自分は、知る限りは浮気をされたことがない。浮気相手になったことはある。相手がつきあっている男に対して怒っていたり、流れだったりはあるものの、軽い気持ちでそうなったことはある。そんな関係が続くはずもなくすぐに終わったり、逆に別れるからつきあおうと言われたとしても、そんな感じで浮気をする女とつきあう気になんてなるはずもないので、そこから進展したことなどないが。
キュカの気持ちなどわからない。わかるはずがない。そうなった時の想像上の感情は、ただ無関心になるだけだ。別れるだけだ。そんな相手にすがりたくはないし、追いかけようとも振り向かせようとも思わない。
傷ついた人間を慰めるなんてこともできない。どんな言葉をかければいいかもわからない。ただのカレカノならともかく、キュカはきっと、結婚を考えていた。ジョンとの将来を考えていた。五歳も年上の、そんな恋愛で傷ついた女の慰めかたなど、大学一年をやっと終えようとしている自分が、知っているはずもない。
自分は、彼女に対して特別な感情などない。弱ってるからといって、泣いているからといって、抱きしめる、なんてことはできない。そんなことを軽はずみにしていいのかがわからない。
そもそもそんな関係だったか。ツレだとか知り合いだとかトモダチだとか、そんなものではなかったはずだ。自分たちはどちらかというと、ブラック・スターを通じての“戦友”で“仲間”だ。今まで二人で会ったことすらなかった。この状況がもうイレギュラーだ。こういう状況に、関係がどうだとかそんな理由が必要なのかすらも知らないが。
頭ではわかっている。そんなことをするべきではないとわかっている。なのに、キュカの髪に触れる右手が、その長めの髪の下にある首に無意識に触れ、そのせいか、脚を抱えていた彼女の両手はそこを離れ、ベンジーの肩を辿った。引き寄せられるように首に手がまわされたため、彼はそこに留まってはいられなかった。キュカの頭を自分の肩に抱き寄せてしまった。
彼女は静かに涙を流したまま、彼の首にキスをした。ベンジーは偶然あたっただけかと思ったが、違った。二度目があった。
「──本気かよ」
言葉の代わりにまた、首元にキスをされた。
わかっている。こんなことに意味はないと、おそらくどちらも、わかっている。
ベンジーはキュカの首に手を添えたまま、彼女の、涙を浮かべたままの眼をみた。
そして、彼女に言った。「──どうなっても、知らねぇぞ」
やはり言葉はなかった。その代わりに、今度は唇にキスをされた。
それが本気だという言葉の代わりなのか、ただ現実から目を逸らそうとしているだけなのかは、彼にはわからなかった。
それでももう、どうしようもなかった。どうしようもないと、そう思うしかなかった。
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キーズで試印刷したリリック・ブックと、すでに完成していた裏ジャケットを、地下二階のBスタジオで曲作りをしていたパンクバンドに確認してもらっている時、ベラの携帯電話が鳴った。リリック・ブックを見ながらあれこれ嬉しそうに感想を言い合っている彼らにはなにも言わず、画面を確認する。なぜかジョエルからだった。
とりあえず廊下に出て電話に応じる。「なに?」
「今って店? ベンジー、そっちにいる?」
「さぁ。店とキーズを行き来してるけど、見てはないと思う」
「そっか。いや、帰れないってメールはきてたけど、そっちに捕まってるんかもって思っただけ。ありがと」
ヒラリーに関することならジョエルは捕まりたいかもしれないが、ベンジーは違うだろう。「ん」
電話を切ってBスタジオに戻ると、リリック・ブックを確認していたメンバーたちはこぞってオーケーを出した。これで頼む、と。
本印刷のゴーサインを出すため、ベラは再びスタジオを出た。
さて。行方不明がもうひとりいるわけだけど、まぁ気にしなくていいだろう。
どうやらエルバはキュカと喧嘩になったらしく、それでも詩を書く話になったあと、"箇条書きでも文句でもなんでもいいからなんか書いて送って"とメールを入れたらしい。心配などしない。今はそんなことを気にしている暇はない。
とは思いながらも時々、キュカの詞ができたとして、どうやってジョンに曲を聴かせようかと考えていたりもした。曲が完成するのか先か、別れるのが先か。キュカが詞を書かなければはじまらないが、それがなくても、自分からジョンに向けて書くことだってできる。
キュカに店で待ち合わせる約束をするよう仕向ける。キュカはいなくていい。彼にこちらの曲を一曲おみやげとして渡して、キュカの気持ちが入った曲を聴かせる。"言い分があるなら今すぐ彼女に連絡して、言い訳できないなら二度と私たちの前に現れないで"と告げる。
それでほとんど誰にも気づかれずにいられるんじゃないかと思う。キュカがそんな方法を取りたがるかどうかではあるが──"浮気・不倫はお断り"って、フライリーフの注意書きに書いてやろうか。怒られるか。
考えはじめると止まらない。本当の本当に大詰めなのだ。反動覚悟で四十八時間を寝ずに万全の状態で過ごせる薬があればいいのに、と本気で思う。
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たいした会話のない、小さなライトをひとつつけただけのその部屋でキュカと抱き合いながら、ベンジーは、自分は本当に──今までつきあった中では誰よりも──メルヴィナのことが好きだったのだと実感した。
今現在、自分もキュカも、嫌なことをすべて忘れるためだけに、息をつく暇もないほど全力で抱き合っている。そのはずなのに、ベンジーの頭の中はメルヴィナのことでいっぱいだった。メルヴィナはある意味めちゃくちゃな女ではあったが、可愛い女でもあった。普段の気の強い部分の裏に脆い部分があり、それを悟られないためにああなっているのだとわかった。誰にも心を開こうとしない女だった。そんな部分も含めて、自分は本当にメルヴィナに惚れていたのだ。
“寝ると情が移る”と誰かが言っていた。自分の場合はキュカに情が移るはずなのに、目の前にいるのはキュカなのに、メルヴィナのことばかり考えていた。性格はともかく、現在進行中のこの行為に対して、いちいち“メルヴィナと違う”部分を見つけ、そのたびに頭の中で彼女の顔が浮かんだ。
そしてそれは、キュカも同じなんだろうと思った。
どんな風に相手と抱き合っていたか、それを忘れるための、自分のやりかたを、自分を取り戻すための儀式のようだった。
どうにか引き延ばした一回目が終わってすぐ、キュカが「もういっかい」と言い、まだ足りないのはベンジーも同じだったので、またそれを始めた。
今さらどうしようもないことを忘れるための呪文のようなそれに、二人して没頭した。