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午前零時をまわった頃──ベラはやはり、キーズ・ビルの一室にいた。ヤニ、トーマ、ナイルもいるが、それぞれが真剣にPCに向かって仕事をしていて、しかもそれぞれがヘッドフォンをして(爆音なのはベラだけかもしれないが)音楽を聴いている。集中力が途切れたからといって、へたに動くことはできない。彼らはまだ真剣に、作業に集中している。それを邪魔したくない。
頭の中はほとんど常にパンク状態だが、今現在、キュカのことが頭の中にちらついている。まだ彼女からもエルバからもなにも言われていないが、詞を書くとして、そのための“想像”をしてしまいそうになる。本当に、もう少しタイミングを考えてほしい。
ヘッドフォンを首にかけ、軽く背伸びをした。エルバとキュカ、ジェイドのリリック・ブックはすぐに終わった。ほとんどの楽曲に自分が関わっているのだから当然だ。詞を書き曲が完成し、レコーディングをして彼女たちが覚え、うたった時点で、“誌面に残す時はこういうふうに”というイメージが浮かんでいる。それをカタチにすればいいだけなので、そう時間はかからない。
だが自分があまり関わらないバンドたちのぶんは、メンバーの顔や名前は覚えても曲の細かい部分まで覚えていないため、カタチにするのが難しい。そういうバンドたちのぶんのほとんどは、ヤニがやってくれているが──丸投げというわけにはいかない。
どれだけ写真やフォントを確認しようと、いざ重ねてみると、“なにかが違う”ということが時々ある。頻繁ではないが稀でもない。スクリーン上で違和感がなくても、印刷すれば違うと思うこともある。自分やヤニは妙に凝り性なので、違うと思ってしまえばその場で勝手に修正をかけ、納得のいくものをバンドたちに持っていく。たいていの人間には違いがわからないらしく、持っていってしまえば高確率で一発オーケーが出る。つまり、妥協したものを持っていくと、妥協した状態で完成されてしまうのだ。そんなことにはしたくない。
部屋のドアがノックされ、ベラはうしろを振り返った。
様子を伺うよう、エイブが顔を出す。「順調?」
「どうだろう。とりあえず今、集中力が切れました」
そのやりとりに気づいて、ベラの右隣のデスクにいたヤニと、作業テーブルに置いたノートPCで仕事をしていたトーマとナイルも手を止めた。
エイブが部屋へと入ってくる。「まだ終わらなさそうなら、手伝うよ」
「まじで」
「助っ人ならまだいるよ」ドアをさらにあけ、ヒルデブラントとガエルも現れた。ヒルデブラントがバスケットを見せる。「コーヒーの差し入れも」
「そんな」ヤニが言う。「さすがに悪いですよ。そのうち一時になる」昼ではなく真夜中だ。
「高校生や大学生ががんばってるのに、さすがに見て見ぬふりはできないよ」エイブは作業テーブルのベラの後方側にきたが、そこでトーマとナイルを見やった。「なんで並んでんの?」
トーマが苦笑う。「いや──」
「向かい合ってたら、ふとした時にお互いの姿が気になるんだって」ベラが代わりに答えた。「だから隣に並んでる」
「ああ、なるほど」二人に聞く。「僕も並んだほうがいい?」
彼らは声を揃えた。「いやだいじょうぶ」
「そ。ディックたちはバンドたちの曲作りとか練習につきあってる。またお祭り騒ぎだよ。シチューになんか変なもん入ってたんじゃないかって思うくらい、みんなハイになってる」
「私は入れてません」
「完成して印刷待ちの分、あるんだよな?」バスケットを作業デスクに置き、ヒルデブラントが訊いた。「できたぶんから一通り印刷して、製本してくるよ」
「でも、俺とヒルデは三時が限界だから、それまでで悪いけど」ガエルがつけたした。
「ぜんぜんいい。ありがと」と答えて、ベラがヤニに言う。「遠慮してる場合じゃない。あんたも単位ぎりぎりなんでしょ。頼も」単位がぎりぎりなのは間違いなく自分のせいなのだが、彼の反応など関係なく、続けてエイブに言う。「このPC使って。こっちのほうがやりやすいでしょ」
「オーケー。あ、これ」彼はポケットから折りたたんだ紙を出した。「今残ってるバンドたち。呼び出したらくると思うから、試印刷できたらすぐ連絡して」
ベラは受け取った紙を確認した。店に残っているバンドはまさかの十二組だ。また廊下やフライリーフまでもを使って曲作りをしているバンドがいるのかもしれない。
「あとね──」
エイブがなにか言いかけたが、「お疲れ」と言って、今度はパッシが現れた。「夜食買ってきた」バーガーショップの袋を持っている。厨房チーフのオレーシャもスタッフも、さすがに帰っているので。
「アナイまで」というトーマの言葉どおり、パッシは新妻であるアナイまでをも連れてきていた。
彼女は気まずそうに言った。「なにか、手伝えることがあったら──と、思って」彼女も差し入れと思われるバーガーショップの袋を持っている。
「ありがたいけど、平気?」ベラが訊いた。「朝までコースよ。や、限界がくるまえにあがってもらってだいじょうぶだけど」
「それはいいの。明日はやすみだし」
「大詰めなんだろ」パッシはアナイが持つ袋を受け取って、まとめてテーブルに置いた。「ちょっとでも早く作業終わらせれば、お前だけじゃなくてみんなに余裕ができる。お前らがいちばんテンパッてんだろうけど、オレらにだってその空気、伝わってるからな。逆にバンド連中はテンション高くなってるけど」
ガエルが苦笑う。「ちなみにうちのノエミも、なんなら自分が手伝いにくるとか言ってたからな。明日店番してくれるほうが俺にもヤニにもありがたいよって言ったら、渋々納得したけど」
ヒルデブラントもつけくわえる。「俺たちも、もちろんディックやヤンカたちも楽しみにしてる。心配もしてるけどね。手伝えるところは手伝うから、早く終わらそう」
おとなは本当に、大きい。「そんなこと言ってると、ほんとにこきつかうからね」ベラは立ち上がった。「ヤニ、とりあえず完成してる分のデータ、二人に渡して。ちょっと待つことになっちゃうけど、パッシとアナイも印刷と製本、手伝ってくれる? こっちは試印刷待ちが六組、作ってる途中のが四組。私は六組分、試印刷してバンドたちのとこ行ってくる。手をつけてないのが二組いるけど、みんなが手伝ってくれるなら土日で終われるかも」足元に置いていたバッグの中から、煙草が入ったポーチと携帯電話を取り出した。「ちょっと煙草吸ってきます」
・・・・・・・・・・・・・・・・
午前二時、ショア・オフィング。ベンジーは、バンドメンバーと一緒に自宅にいた。双子の弟、ジョエルと二人で住んでいるこの部屋は、祖父の不動産であるコンドミニアムの一室であり、無駄に部屋数が多いこともあって、そのうちのひとつを完全防音のスタジオへと改装している。親や兄弟が一緒に住んでいるわけではないので、約六年分のワガママを詰め込んだこの家は、男五人によって散らかり放題の荒れ放題状態だ。バンドの曲を作ったり練習をしたりするのも基本はここなので、散らかした責任はバンドにもあるという理由で、たまにマーヴィンやピートも片づけたりはしてくれるものの、面倒になると実家の家政婦を呼んで掃除をしてもらったりもする。
父親はいないが、母親や祖父母と仲が悪い、というわけではない。地元ということもあり、幼稚園の頃からエスカレーター式のセンテンス・ロジックに通っていた。そこでおとなしく大学まですすむかと思いきや、父親が残していったらしいギターに幼い頃から触れていたせいか、小学校の時はそれに没頭、好きなバンドの曲を自分が弾いてジョエルにうたわせるというスタイルができていた。
中学でジョエルがマーヴィンと話すようになり、マーヴィンがピアノを習っていたことを知って、三人で遊ぶようになった。
機械を扱う会社の社長の息子であるピートは、もともと内気だったこともありたまにいじめられていて、それを幼馴染だというルースがよく相手を殴ったりして追い払っていた。噂には聞いていたがはじめてその光景を目の当たりにしたとき、なんとなく加勢して、その流れでルースにドラムをやってみないかと持ち掛けた。ピートにはギターを教えるから、と。二年の時には形だけだが、バンドができた。
自分とジョエルは、自分たちを甘やかしてくれていた祖父にバンドに必要な機材一式をねだり、マーヴィン、ルース、ピートも、それぞれの楽器を親を言いくるめて手に入れた。最初はスタジオを借りていたものの、ドラムや機材を毎日のように運ぶのがどんどん面倒になり、センテンス・ロジックの高校に進んで大学まで卒業するという、当たり前すぎる進路を条件にこのコンドミニアムの一室をもらい、高校に無事合格したら、という条件で完全防音のスタジオまでをも手に入れた。
そんな感じで、中学二年の終わり頃から、彼らはずっとこの部屋でたくさんの曲を作ってきた。
しばらくスタジオで“Break Apart Her Heart”の音合わせをしていたが、今はリビングのソファにそれぞれ座り、新しい曲を作るきっかけを探すため、適当な音出しをはじめた。
そこで、ジーンズのポケットに入れていたベンジーの携帯電話が鳴った。こんな夜中に誰だと思いながらも携帯電話を取り画面を見る。
見間違いかと思ったが、キュカだった。
なんとなく、みんなに見られてはいけないような気がして、電話には応じたものの、喋る前に席を立って自分の自室へと歩きはじめた。「もしもし?」声を抑えて言った。
「──起きてる?」それは、普段の騒がしいキュカからは想像もできないほど、別人かと思うほど、静かな声だった。
「起きてるけど、ちょっと待て」ジョエルたちになにを言うこともなく、足早に自室へと入る。「どした」
「ちょっと──帰りたくなくて」
ベンジーには意味がわからなかった。だが数時間前、おそらく自分だけが、彼女が泣きながら店から出てきたのを見ている。泣いていたのは間違いない。けっきょくあのあと、誰も追いかけはしていないようだったが──。
話せることなら、エルバにでも話しているだろう。でもメインフロアに残っていた連中に聞いた話では、キュカとエルバはなにかを話していて、内容はわからないものの、ふたりは喧嘩をしたらしい。
ベラはなにかを知っているかもしれないが、今はまたキーズでバンドたちのレコード制作をしているはずだし、エルバもジェイドも、自分たちが帰る時はまだ曲作りをしていた。
エルバと喧嘩しただけなのかもしれないが、それで家に帰れないというのもよくわからないが、そこにあの男が絡んでいるのかもよくわからないが、とりあえず──キュカのような思い込みの激しい──ある意味メルヴィナに似ている──タイプは、こういう時、放っておくとなにをするかわからない。
「今、どこ」
そう訊くと、なぜかセンテンス・ロジック大学のそばにあるカフェの駐車場だという答えが返ってきた。そこへは歩いて五分もかからない。なんで待ち構えてるみたいにそんなところにいるんだ。大学のそばに住んでるとは言ったことがあるだろうものの、どんな家かなど言ったことがないはずだが。
「五分で行くからちょっと待て」と言って部屋を出てると、電話を保留にして再びリビングに戻った。ジョエルたちが誰からの電話かを訊いてくるのも無視して「ちょっと出てくる」と言い、財布とキーケースが入ったままのダウンジャケットをとって家を出た。
・・・・・・・・・・・・・・・・
大学の近くには、キュカがいるコーヒー・ウォークスというカフェを含む飲食店がいくつかある。センテンス・ロジックの大学生の誰かは毎日どこかしらへ行っているので、新しい店が増えることはあっても、自分の知る限り、改装移転や店側の都合でなければ、経営難で潰れた店はひとつもない。
保留を解除したあとも、一応電話は切らずにいたが、自分が話しかけても、キュカはそれほど喋らなかった。
沈黙が面倒で、早足で歩いたこともあり、四分ほどで着いた。パーキングエリアのどこにいるかを訊く必要はなかった。五台しか停められないそのエリアに停車しているのは、見覚えのあるキュカの軽自動車一台だけだったからだ。
なぜか前もうしろも窓を開けっぱなしにしている状態で、キュカは運転席に座ってはいるものの、携帯電話も握ったままらしいものの、左腕と一緒に顔をハンドルに伏せているようだった。
電話を切らないままその脇に立つと、ベンジーはキュカに言った。
「バーガー、食いたくねぇ?」
自分より運転慣れはしているだろうものの、さすがになにを考えているかわからない状態のキュカにハンドルを握らせるのは怖いので、ベンジーは彼女を助手席に座らせ、自分で運転することにした。食べるとも食べないとも言われていないバーガーを食べるため、自宅のあるメインストリートからは少し離れた場所にある店へと向かう。
なにも訊かなかった。キュカも喋らなかった。彼女は窓の外をただ眺めていて、なにを考えているのかはわからないままだ。
なぜか二十四時間営業のその店のパーキングエリアに車を停めたベンジーは、キュカの、泣いてはいない顔を自分のほうに向かせた。身構えるというよりも無理やり顔を向かせたことに少々むっとしている様子の彼女を無視し、メイクがどうなっているかを確かめた。少々マスカラが取れて目元で滲んでいる。それを自分の黒いロングTシャツの袖で無理やり拭うと、「奢ってやるから行くぞ」と言い、先に車を降りた。
深夜の、めずらしく他に客のいないその店の隅にあるボックス席で、無難にチキンバーガーをふたつとビールを一杯頼んだ。ボックス席なのに、店員に背を向けるようキュカを奥に、その隣に自分が座った。
先にビールが届くと、しれっと自分が一口飲んでから、それをキュカの前に置いた。「飲めよ。運転はオレがするし」
「あんた今、飲んだよね」
やっとまともに喋った、と思った。「気のせいだし。フリだけだし」
「ヒトの車で捕まるとか、勘弁してよ」
そう言うと、彼女はビールジョッキを両手で持ち、ごくごくと飲んだ。一気に三分の二を飲んだ。想像以上に飲んだので、ベンジーの顔は少々引きつった。
「っていうか、女を夜中にジャンクフードに連れてくるって」キュカが少々不満げに言った。「どうせならバーとか連れてけよ」とな。
「いやいや。酒飲みたいとか言われてねぇし」
「あんたモテないでしょ」目を合わせないまま、とうとう暴言を吐きだした。「っていうか、モテはしても長続きしない。がっかりされて終わるタイプ」
病んでる女の八つ当たりだと思うのでイラついたりはしないものの、図星のような気がしてしまい、ベンジーは少々衝撃を受けた。「え、オレ、がっかりされてんの? バーガーとビールのせいで?」
「バーガーに喜ぶ女なんてめったにいないわよ」
確かにそうだ。つきあっていなくても、ただの友達ですら、女はファストフードというものに言い顔をしない。食い盛りの高校生や大学生がパスタだのカフェメニューだのを好むわけがないと、なぜ女共はわからないのだろう。だからって好きでもないのに気をつかってそれを提案すると、今度は口説いているのかと勘違いする。どうしようもない。世界の三大ミステリーだ。
「じゃあ最初から酒飲みたいって言えよ」
「だってあたし、車だし」
なんだこの女。と、店員ががっつりサイズのバーガーふたつを運んできた。夜中だし誰もいないので、さすが早い。「じゃあこれ食ったらディスカウントストアにでも寄って、大量に酒買ってやる。んでどっかで飲めばいいだろ。うちはあいつらがいるから無理だけど」
キュカはやっとベンジーの眼を見たかと思えば、少々悪戯に口元をゆるめた。「なにそれ。誘ってんの?」
彼はまたも少々の衝撃を受けた。思わず顔も引きつった。「家は無理っつってんだろ。なんでそれが誘ってることになんだよ。っていうかその前に呼び出したのお前だろ。お前の脳内どうなってんだよ」
「なんだ。つまんない」
そう言うと、キュカは自分の分のバーガーを取ってさっさと食べはじめた。
どういう意味だ。逆に誘ってんのか。と思いながらも、肉が冷めるのはイヤなので、わざとキュカを邪魔するよう(キュカが邪魔だとでも言いたげにキーキー言うのも無視し)自分もそれを食べはじめた。
店を出ると、ベンジーはまた運転席に乗り込み、キュカもあたりまえのように助手席に乗った。ディスカウントストアへと向かう。
かと思えば、またキュカが窓を全開にしはじめた。
「いやいや寒いって」
「いいじゃん。空気の入れ替え」
そこまでしなきゃいけないほどこの車の空気は汚染されてるのか、なんかヤバイもんでもやったのかとつっこみたくなったが、シャレにならないような、茶化していいようなものではない気がしたので、とりあえず無視した。
やはり二十四時間営業のディスカウントストアに到着すると、バーガー屋の時とは違い、キュカはすんなり車を降りた。
行き慣れた店ということもあり、どのような商品がどのあたりにあるかをなんとなく把握しているベンジーは真っ先に酒コーナーに向かおうとしたのだが、キュカは別の方向に歩いていった。違うと言っても無視だった。仕方なくついていくと、彼女はなぜか下着コーナーに入っていった。なにを考えているのか本気でわからない。さすがにそこまではついていけず唖然としていると、袋に入った下着をひとつ持って戻ってきた。それをベンジーが持つカゴに入れると、また別のコーナーを探しているのか、きょろきょろしながら店内を奥へと進んでいった。
次にキュカが見つけたのは、なぜか文具コーナーだった。レポート用紙一冊とボールペン二本をカゴに放り込む。そのあとお菓子コーナーで少々のつまみを選び、最後に酒コーナーに行って、まさかの十本の酒をカゴに放り込んだ。
コンビニを選ばなくてよかった、と思いながら、ディスカウントストアの存在に感謝しつつベンジーが支払いを済ませると、またキュカの車に乗った。とりあえず南に向かって車を出す。キュカは早々にビール缶をあけ、飲みはじめた。
どこに行けばいいのかわからないまままっすぐ進んでいくと、突然キュカが「あそこにしよ」と言って前方を指さした。
ナイトホテルだった。
「いやいやいや」
「車じゃあんたが飲めないでしょ。つきあえよ」
なににだよ。と思いながらも、実はバーガーのせいで眠くなったりもしているので、成るように成れ、と思いながら、キュカが示したナイトホテルに入った。