○ Yesterday
金曜日の夕方、ベラは赤白会議室にきた。学校から家に荷物をとりに帰ってすぐキーズ・ビルに行ったのだが、いつも使っている作業部屋にキュカの姿があり、トーマがやるはずのPC作業を夢中でやっていたのだ。その隣のPCで別の作業をしていたナイルいわく、彼女は会社を休んで朝からずっといるとのことで、昼食まで持ち込んで、ずっとこもっているのだとか。
なぜそんなことをしているのかは知らないが、手伝えと言ったのは自分だし、邪魔をするのもおかしいので、とりあえず赤白会議室で詩を書くことにした。
そして小一時間ほど経った頃、ノックされたドアを開けると、キュカが立っていた。
「なんか手伝うこと、ない?」
「上で手伝ってたんじゃないの?」
「ひと段落したし、トーマがきたから」
「そ」
仕事は山ほどあるし、キュカにできることもあるのだろうが、それは彼女のメンタル次第のような、そもそも詩を書いてくれるのがいちばんありがたいような気もする。などと考えながら席に戻ると、キュカもドアを閉め、ひとつ席をあけてチェアに腰かけた。
「お願い」煙草に火をつけたベラにむかって彼女が言う。「なんでもいいから、なんかさせて」
なにかあったのかと訊いても、どうせ答えないだろう。「仕事ならいくらでもあるし、まわすのはかまわないけど、うたわなくていいの? エルバはどうにかこうにか詩を書いて、作曲にも積極的に関わってる。私が手伝えないぶん完成までには時間がかかってるけど、持ち曲は増えてるわよ」
その言葉で、キュカは少々困ったような表情をした。
まだ残る煙草を火消しに入れてから、ベラは続けた。「責めるつもりはないし、あなたの行動をどうこう言うつもりもないんだけど、一部はちょっと気にしてるみたいよ。あなたが平日に店にくる回数が減ってること、うたう回数が減ってることも。お金が発生してるわけじゃないし、ステージは強制でもないから、気にしないよう言ったけど。手伝ってって言ったのは私だけど、あなたは一応、シンガーとしてここにきてる。私が頼んだ仕事をメインでやるなら、キーズの所属として給料をもらうとか、ブラック・スターのバイトになるとか、なにか決めたほうが──」
「うたいたくないわけじゃない」頼りない声で、彼女は言った。「ただ──」
言葉を途切れたがベラは急かさず、続きを待った。
強く目を閉じ、キュカがゆっくりとくちを開く。
「この一ヶ月くらい──確かに、店にくる回数が減ってた。理由は──わかってると、思うけど──」
わかっている。男──ジョンだろう。
彼女は続けた。「別れたとか、喧嘩したとか、そういうんじゃないんだけど──ちょっと、いろいろあって、昨日も寝れなくて、仕事行く気になれなくて、やすんで──でも家にもいたくなくて、キーズに行った。トーマに仕事ちょっともらって──」
説明していたが、そんなことはどうでもいいと気づいたらしく、深くうつむき、深呼吸をした。視線はまだ合わせない。
「どうすればいいのか、わかんない。エルバやジェイドががんばってることは知ってる。だからよけい──この一か月、なにも考えてなくて、勝手なことしてたから、よけいに──うたえばすっきりするかもしれないって、それは思う」泣きそうになったらしく、はなをすすった。「だけど、なんかもう、とにかく考えたくないから、とにかく集中したくて──」
黙って話を聞いていたものの、キュカがなにを言いたいのか、ベラにはよくわからなかった。
なにかがあって、それを忘れるためのなにかが欲しいのだということは、まぁわかるけれど。
「エルバは、なにも言ってないんだろうけど」ベラは言った。「彼女はあなたの性格をわかってるから、店にこないことを心配してるっていうより、それで他の奴らになにか言われないかってことを心配してる。
同時に、怒ってるとも思う。エルバ自身ががんばってるのにっていうことじゃなくて、あなたがなにも話さないことに対して。今までは、ぜんぶじゃなくても、話せる範囲で話してきたんでしょ? 話さなきゃいけないわけじゃないんだろうけど、エルバに話すことで、あなたが自分の状況を理解できてた部分もあると思う。
シンガー業をやすむにしても、どうするにしても、話したほうがいいんじゃない? どうすればいいかわからないってことだけでも。エルバはあなたのことをよくわかってる。だから自分からは訊かない。あなたが話さないと」
困惑もあるのだろうが、キュカは静かに泣いていて、少し沈黙の時間があった。落ち着こうと、またゆっくりと深呼吸をする。
「──最近は、あんまり連絡とってない。店で会ったらフツウなんだけど──」
話が終わらなさそうな気がしたので、ベラは小さく溜め息をつきつつ、肩をすくませた。座ったままエグゼクティブチェアをくるりと回転させて、背後にある棚の上に置いている、いくつもあるクリアファイルの中からひとつを見つけ、また向きなおって彼女にそれを差し出した。
「ひとりでもいいけど、できれば二人でうたってほしいなっていう曲。レコーディングはしてないけど、ヤンカと一緒に作って、曲はもうできてる。あなたとエルバでって思ってた。あなたの出動回数が減ってたから渡してなかっただけ」
またはなをすすって涙を拭くと、キュカはそれを手にとって詩を読んだ。
「──“Yesterday”だ」
「ヒラリーのとはぜんぜん違うわよ。あれは過去をポジティブに書いたけど、それはネガティブな過去。悪いけど、レコーディングする時間はない。レコーダーに録音はしてるし、それとディスクはヤンカが持ってるから、それをもらって、一度なら歌も聴かせるけど」
また少々沈黙して、持ちなおしてはないのだろうが、キュカはなにかを吹っ切ろうとしているようだ。
「うん、ごめん。お願い」
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事情をきいたヤンカは、ピアノだけでもいいなら演奏したいと申し出た。本職を終えたエルバが店にくると、メインフロアのステージにいた大学生バンドを追いやり、ヤンカは用意したキーボードの前に、ベラはマイクを持ってステージの中央でスツールに座った。詩の入ったクリアファイルをキュカが、録音用のICレコーダーをエルバが持ち、二人はステージの柵のそばに腰をおろす。
ステージをとられた大学生だけでなく、他の席で話し合いをしていた別のバンドや、せかせかとオープンの準備をしていたはずのスタッフまでもが、なぜか歌を聴こうと厨房から出てきたりしてテーブルについていく。
「ベラと話してたコーラス、覚えてる範囲でうたうわね」
そう言うと、ヤンカは深呼吸をしてからピアノの演奏をはじめた。
あなたの言葉が信じられなくて 次の言葉を待ってるの
“他に好きなひとができたんだ” “本当に悪いと思ってる”
これは夢だと思おうとしてる 明日がくればあなたはこう言うの
“僕が間違ってたよ” “やりなおしたいんだ もう一度”
あなたの心は確かに私のものだった 昨日までは
あなたの心は確かにここにあった 昨日までは
だけど勘違いだったのかしら 間違ってたのかしら
できるわけがない 昨日まで巻き戻すことなんて
ふたりは昨日を乗り越えられると信じていた
ふたりは昨日以上のものを築けると信じていた
風は砂になり 愛は石となり
思い出は遠く 昨日に置き忘れた箱の中
現実は私の前を通りすぎていく 音を出せない弦のように
まるで辿り着けない雨粒 あなたの家にも あなたの傘にも
すべてが完璧な演技だったとしたなら
あなたの笑顔に騙されていただけだったとしたなら
これ以上嘘はいらない これ以上偽物なんていらない
だけど祈ってるの 私の願いがあなたの心に辿り着くことを
あなたの心は確かに私のものだった 昨日までは
あなたの心は確かにここにあった 昨日までは
だけど勘違いだったのかしら 間違ってたのかしら
できるわけがない 昨日まで巻き戻すことなんて
ふたりは昨日を乗り越えられると信じていた
ふたりは昨日以上のものを築けると信じていた
風は砂になり 愛は石となり
思い出は遠く 昨日に置き忘れた箱の中
何度かの喧嘩を覚えてる
そのたびに乗り越えてきたわ
だけど終わりにしようなんて 絶対に言わなかった
だから本当は知っているの
だけどBaby どうすればいいの
はじめて出会ってからのすべてのこと
喜びの瞬間も痛みの瞬間も
私は覚えているのよ まるで昨日のことのように
あなたの心は確かに私のものだった 昨日までは
あなたの心は確かにここにあった 昨日までは
だけど勘違いだったのかしら 間違ってたのかしら
できるわけがない 昨日まで巻き戻すことなんて
ふたりは昨日を乗り越えられると信じていた
ふたりは昨日以上のものを築けると信じていた
風は砂になり 愛は石となり
思い出は遠く 昨日に置き忘れた箱の中
はじめて出会ってからのすべてのこと
喜びの瞬間も痛みの瞬間も
私は覚えているのよ まるで昨日のことのように
ベラがうたい終えると、ヤンカやエルバだけでなく、他のバンドやスタッフたちも、拍手や口笛などと共に歓声をあげた。どんどん馴染んできたのだろう、ヤンカは、“覚えている範囲”を超えてコーラスを入れてくれた。そしてそれに満足した様子だ。
しかしそれらは長くは続かなかった。「練習にはできるだけつきあうわ」と二人に言おうとしてヤンカは踏みとどまった。詩の入ったファイルを抱きしめたまま、キュカが泣いていたからだ。メインフロアにいた人間たちも徐々にそれに気づいてざわついたが、エルバはキュカを抱き寄せてなぐさめた。
そんな光景を眺めながら、ベラは考えた。どうしよう。もうすぐオープンだ。こんなところで、こんなタイミングで泣かれても、みんな困るだろう。
「二月だし」と、ベラはマイクを使って切り出した。「今日営業が終わったら、みんなでシチュー食べよう。いきなり週末の材料使ったら怒られるだろうから、ちょこっと買い出しには行かなきゃいけないけど。それはキュカとエルバが行くだろうし」
フロア内の人間、突然の宣言にきょとんとしたが、なぜか買い出し係に任命されたエルバが笑いだしたのをきっかけに、賛成の声をあげた。
さて、また怒られる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「はい、差し入れ」
ベラはそう言って、キーズ・レンタルスタジオの受付にいるヤニの前にバスケットを置いた。中には熱々のシチューを入れてフタをしたラージロングサイズのペーパーカップ、プラスチックのスプーンが四人分入っている。
「オーナーたちには渡してきた。こっちの四人分です」と補足をする。
しかし説明にはなっていないので、ヤニには意味がわからない。「なんでシチューだ」
「夕飯てわけじゃないの。今日の夕方、閉店後にみんなでシチュー食べようって言っちゃって。でもけっきょく、営業時間中に作るわけでしょ。ディックたちに話したら、なぜかお客たちにもサービスで出せばとかいう話になって。大量に作ってもらったから、キーズにも差し入れ。スタッフは閉店後だからトーマの分は用意してないけど、あなたたちは来てくれるかわからないし。私好みの濃い味。熱いうちにどーぞ」
「お前の話きいても、いつも半分は意味がわからないままなの、なんでだろうな」そう言うと、彼は内線電話をつなげるために受話器をとった。「今ちょうど、ガエルとノエミが裏で夕飯中。もう食べ終わってるかもしれないけど」
「悪いけど、渡しておいてもらっていい? すぐ戻らなきゃいけないのよ。シチューを配るだけなのに、なぜかうたわなきゃいけなくて。しかもなぜかキュカのリクエストで“We Just Go On”を」
耳元にあてようとしていた受話器をさげ、彼は小首をかしげた。
「まえにヒラリーたちがコーラスだけレコーディングしたやつ?」
“We Just Go On”は、曲としては完成しているものの、暇がなくレコーディングができていない。が、とりあえずヒラリーとエルバ、ジェイド、キュカに、ほんの一部のコーラスの録音をしてもらった。
「そう、それ。エイブがギター弾くって言ってる。あとは録音を使うけど。代われるならくる?」
「頼んでみる。ついでに飯も食う」
「じゃあボディーガードにナイルも呼ぼっか」