* Wait The Opening
ベネフィット・アイランド・プレフェクチュール、ベネフィット・アイランド・シティの市街地にある、通称センター街。ここには、三日月型になっているショッピングモール、ムーン・コート・ヴィレッジと、年代別に客層が変わるいくつかのエリア、そして大人から子供まで関係なく娯楽を楽しめる数ヵ所のアーケードが、やは数ヵ所に別れたオフィス・タウンを交えて存在する。
その中で、主に二十代から三十代の大人たちを対象としているのが、センター街の南東に位置するファイブ・クラウド・エリアだ。ここでは、昼間は主にカフェやブランドショップや宝石店、レストランやドレスショップ、高級家具店、エステなどで賑わい、夜は小洒落たナイトレストランやミュージック・バーが、大人たちの静かな夜を演出する。
そんなファイブ・クラウド・エリアの通りの一角に、キーズ・ビルという五階建ての黒いビルが存在する。一階は楽器店で、二階から上は貸スタジオやレコーディングスタジオとして営業されていた。そして一見しただけではわからないが、このビルには地下がある。キーズ・ビルの隣に建つ小さな白い平屋、それが地下への入口だ。白い壁と黒い床のこの空間にあるのは階段と、壁にかけられたいくつかのプレートだけ。通称“フライリーフ”──製本された本の見返しにある白紙のページをイメージしていて、物語の前後に頭をクリアにするといった意味が込められている。
そして今日、四月四日。その地下一階で、ブラック・スターというミュージック・ダイナーが、新しく店をオープンする。
キーズ・ビル内地下二階、ブラック・スターのスタッフ用フロア──いちばん奥に設けられた、内装を赤と白で統一された会議室内。鍵をかけているドアを、誰かが廊下から執拗に叩きはじめた。無視しようとしたのだが、彼女──イザベラ・グラールは一向に止む気配のないそれに溜め息をつくと、赤いエグゼクティブチェアから重い腰を上げ、戸口へ向かってドアの鍵を開けた。
「なによ?」
廊下に立っていたのはパッシだった。この店の幹部スタッフで、今年二十五歳になる。担当楽器はギター。イザベラ──愛称ベラを除けば、幹部スタッフの中ではいちばん年齢が低い。そのせいか、年齢以上に幼いところがある。
パッシはベラに呆れ顔を返した。「落ち着きすぎ。籠りすぎ。ちょっとは練習しろよ」
「私は緊張なんてしません。あなたたちが問題ないなら、こっちも問題ない。っていうか、スタジオ使えないでしょ? みんな取り合ってるじゃない」
みんなというのは、他のバンドマンたちのことだ。ロックバンドやパンクバンド、ポップスバンド。音楽スタイルや年齢、人数も様々に、この店には現在、九組のバンドマンたちが在籍している。その全員が男で、ベラは唯一の女シンガーだ。作曲や楽器はできないものの、作詞だけはできる。ここ数ヶ月のあいだに、どんなジャンルの作詞でもできるというのが彼女自身の手によって証明された。ただ、両想いの幸せな歌というのが苦手で、いまだひとつも書けていない。
「まあそうだけど」と言って、パッシは彼女に携帯電話の画面を見せた。「カノジョが送ってくれた。見て、オープンまでまだ三十分以上あるのに、もう客がこんなに並んでる」
ベラはその画面を確認した。暗くなりはじめた空の下、地上にある平屋、フライリーフの入口から、おそらく三十人以上の男女がキーズ・ビル前の歩道に列を作っている。
「暇人ばっかりね」
「土曜だからな。マジで立ち食いになる可能性もあるわ、これ。可哀想に」
一度は視線を逸らしたものの、彼女は携帯電話をしまおうとする彼を、ちょっと待ってと止めた。もう一度画面を見なおすと、その中に知った顔を見つけた。
「カレルヴォがいる。ちょっと行ってくる」
「え、外には出るなって──」
パッシは引き止めようとしたが、ベラは無視した。
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胸元にかけていたサングラスを装着したベラは、フライリーフの階段をあがって地上に出た。先頭に並んでいた男二人からの、もう入れるのかという質問に、まだだと肩越しに答え、カレルヴォの姿を捜した。そして見つけた。
「カレルヴォ!」
彼も彼女に気づいた。「よお、小娘」
“小娘”という言葉に笑いながら、ベラはサングラスをはずして彼にハグをした。
彼の顔立ちは、おそらく“こわもて”と表現される類だ。目は鋭く、声も低く、首の左側から肘のあたりまではタトゥーを入れている。ブラック・スターのボスの友人でもあるカレルヴォは彫刻師で、センター街のウェスト・アーケードにカーヴ・ザ・ソウルという店を構えている。今年三十歳になるので、八月に誕生日を迎えてしまったとたん、十七歳から二十九歳までの人間のみという年齢制限を客にかけるこの店には、入店できなくなってしまう。
「なんなら先に入る?」彼女が言った。「スタッフ用フロアがおもしろいことになってるの。みんなかなりテンパッてる。まるで戦争よ」
「そのわりにはお前、落ち着いてるな」
「私は緊張するタイプじゃないの。それはあなたもご存知でしょうに」
ベラは一昨年、彼の店にはじめて足を踏み入れた。自店の商品に彫刻を施すというスタイルが主な彼に、無礼を承知で南京錠を持ち込み、彫刻を頼んだ。彼は無愛想かつ不機嫌だったが、それでも引いたりしなかった。以後何度かアクセサリーを買ったり、購入したものに彫刻を頼んだことがある。
カレルヴォは笑った。「それもそうだ。けどこの列の中で、俺らだけ入ったら──」
「ベラ?」
聞き覚えのある声が左方向から聞こえ、ベラは声の主を捜した。カレルヴォから数組後方にその姿を見つけ、誰かを理解したとたん、かたまった。
女が笑顔になる。「やっぱり!」
「ハイ、ケイト」自分のほうに数歩近づいた彼女に一応、挨拶した。
「ハイ。どうしてここに? もしかして、あなたもスタッフ?」
思わず返事が濁る。「うん、そうなんだけど──」
「知り合いか?」カレルヴォが訊ねた。
ベラはカレルヴォの腕を引っ張り、彼女に背を向けた。
「ディックの女よ」小声で言った。
彼も声を潜める。「もしかして、嘘つき続けてずるずるつきあってるっていう?」
「そう。どうしよう。なんでいるんだろう」
「ディックはまだ話してないのか?」
「話してない。何度も言えって言ったんだけど──あれはあれで、彼女のこと、気に入ってるのよ。だけど、面倒は避けたいタイプでしょ。そのうちそのうちって言って、けっきょく──」
カレルヴォは呆れた。「とんだバカだな。ならもう、彼女だけ先に連れてけよ。オープンしてからモメるよりはいいだろ。あのバカに文句言われたら、俺があとから言ってやる」
ベラは溜め息をついた。
「わかった、そうする」
覚悟を決めると再びサングラスをかけ、改めてケイトに声をかけた。彼女は二人の女友達と一緒だったが、会わせたいヒトがいるからと言い、ケイトだけを連れてフライリーフへと戻った。
ケイトは今年二十四歳になるOLだ。ウェル・サヴァランという新大学一年生の五人組バンドがここに移るという情報を聞いてきたのだという。恋人であるディックも誘いたかったが、この日は大事な用があると以前から言われていたし、ここ最近は本当に忙しそうだったので、今日のことも伝えていないと話した。
まったくもって迷惑な悪循環だというのが、ベラの正直な感想だった。どこかでばれてもおかしくないのに、どうしてこう、最高に面倒なことになるまで嘘が通ってしまうのか、どうしてそうなるまで放置していられるのか、本当にわからない。
フライリーフに入ってからケイトはずっと、観察するようにきょろきょろと周りを見まわしていた。スタッフ用の地下二階フロアへとおりると、気まずいながらも少々興奮しているようだった。このあと店がオープンしても、シンガーもしくは店のスタッフとして働くのでなければ入れない場所なのだから。
廊下には十数人のバンドマンたちがいた。二十代の男たちばかりだ。ベラは存在を知られてはいるものの、彼らとまともに話をしたことはない。ずっと避けてきた。年齢も伝えていないし、素顔もほとんど見せていない。理由はいくつかある。
ベラは現在十五歳で、高校入学を控えた身だ。それでもこの店のボスであるディックに、ブラック・スターのシンガーとしていちばんに声をかけられた立場にあり、この店をオープンするにあたって、多くの点で貢献している。他のバンドマンたちには明かされていないが、彼女も数少ない幹部スタッフのひとりなのだ。
そして詮索されることが大嫌いという性格も理由のひとつではあるが、他人と関わることが苦手なうえ、オープンまで年齢を明かさないという約束を幹部たちとかわした。関わりすぎると面倒なことになるし、なにより他人に無関心でもあるので、話す必要などないと思っている。
左にあるレストルームと右にあるロッカールームを通り過ぎたところで、ベラは控え室に入ろうとするエイブとマトヴェイを呼び止めた。
「ボス、どこにいる?」
「ボス? 白黒会議室にいるはずだけど」
幹部のひとり、今年二十八歳になるエイブが答えた。主にギター担当だが、ピアノを習っていた過去があり、キーボードも扱える。年齢よりも若く見えるうえ、性格は比較的温厚なほうで、音楽はジャンルや歌詞よりもまず音を優先する。音さえ気に入ればジャンルはなんでもいいというタイプらしい。
「そう、ありがと」
「いや、けど今は──」
同じく幹部スタッフ、今年二十七歳になるマトヴェイが引き止めた。こちらはベース担当で、一度の離婚暦がある。そこまで女癖が悪いというわけではないものの、少々飽き性なのだという。結婚に向いていない性分だったのだろう、まだまだ遊ぶ気で、再婚などする気はまったくない。
彼の声を無視し、声をかけてくるバンドマンたちも無視しながら、ベラはケイトを連れて奥へと進んだ。