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春先だというのに今朝から冷え込んで、まるで冬に逆戻りしたみたいだった。
川から汲んだ洗濯の水はとても冷たくて、痛みを感じるくらい。
浸かっていた指先が真っ赤になってじんじんする。わたしはかじかむ指先を、何度も擦って息を吹きかけた。
これ以上ぐずぐずしていては、教会の勉強に遅れてしまう。こうしてはいられない、気付けばあっという間に時間が近付いていた。
居間にある小さな祭壇の前で朝の御祈りを形だけ済ますと、裏で家畜の世話をしている母さんに「行ってきます」と声を掛けた。こちらに背中を向けた母さんは、振り返ることもなく手を動かしながら「せいぜい頑張るんだね」と声だけ返してきた。
「分かってる、頑張るわよ」
結局駄目だとは言わないのだ。
分かってる、母さんは結局そんな人なのだ。
不器用な励まし方が母さんらしくて、ほんの少しくすぐったい。わたしは緩んだ涙腺をぱちぱちと眼を瞬かせて引き締めると、急いで家を飛び出した。
村では教会で勉強を午前中のみ教えてくれる。勿論ボランティアなので、無料なのが有り難い。お金のある家庭ならば、隣町から家庭教師を雇うか馬車で町まで通うのだけれども、勿論うちにそんな余裕などありはしない。
なので、教会での勉強を受けてから舞踏教室へ通っているのだ。目指す舞踏教室は村の集会場を借りて開催している。
教会で勉強したあと教室を受けて、帰ったらヒツジの世話をする、それがわたしの日課だった。
教会へ向かう途中、大きな荷物を積んだ馬車が村の大通りを移動しているのが見えた。
あれを見れば、春がやってきた事を実感できる。
春迎祭が真近に迫っていることを証明する、行商人の馬車なのだ。豊かな金髪を一つ括りにした商人が馬車を引く馬に鞭を振るっていた。
去年までは茶色の髪のおじさんだった。今年からは変わったのだろうか。
まだまだ寒いというのに、もうそんな時期だなんて、時間と言うのはあっという間に過ぎて行く。
ところがいざ教会に着いてみれば、今日は教会の神父さまは急用が出来たとかで、勉強は中止となっていた。幸いな事に、読み難い文字を何とか解読するのは私にとっても辛かったので、丁度良かった。
はっきり言って小さい文字などは丸い点にしか見えないのだから。しかも勉強が無かった分、いつもより舞踏教室を頑張れる。
オークの一枚板で出来た分厚い扉を開くと、重い扉は耳障りな音を立てた。
靴を脱いで軟らかな舞踏用シューズに履き換えて、綺麗に掃除された土足厳禁のフロアへ入って行く。古くなった木張りの床が、踏みしめる度軋んでぎしぎしと鳴った。
どうやらまだ始まってはいないみたい。
いつもより少し早い時間の為か、教室にケイト先生の姿は見当たらなかった。
代わりに、いつもは静かな教室が今日は何故だかざわついている。
この教室に通っている生徒の人数は両手の指より少し多い程度で14歳から19歳の女生徒で構成されている。みな、舞姫になる事を夢見て頑張っている子ばかりだ。
そんな子達ばかりだから、いつもなら早く来た者から自主練習をしているたずなのに。皆自分の時間なんてあまり無いから、少しでも時間が惜しいのだ。
けれども今日は違う。先程から、きゃあきゃあと甲高い声が何度も上がっていて、ここまで騒がしいのは初めてだった。
生徒のほとんどが教室の隅に集まって、一体何の話をしているんだろう?
ぼんやり眺めていると、先に来ていたシェリルがわたしを見付けてすぐさま飛んできた。
今日のシェリルは蜂蜜色に輝く金髪をポニーテールにし、ブルーのリボンで結んでいる。その髪型は活発な彼女に良く似合っていた。
シェリルの青空色のスカートが揺れて、すらりとした形の良い足が覗く。
「ねえ、リリィ聞いた?」
空色の瞳を目一杯開いて興奮気味に話し出す。ただでさえ大きな瞳なのに、今にも零れ落ちそうだ。
それにしても唐突過ぎて、何のことやらわからない。はて、どういう意味かと口を開こうとしたが、
「何と、この村に騎士様が来ているんだって。それも、お城仕えの立派な騎士様よ!」
わたしの返事など聞いちゃあいなかった。
シェリルは自分から尋ねておきながら、わたしの返事を待たずに話し続ける。騎士様は少人数だの、騎士様がこの村に来るなんて初めてだの。
「そ、そうなんだ」
彼女は興奮している所為か、いつもよりずっと早口だ。わたしはシェリルの勢いに完全に押されてしまい、ただ相槌をうつだけの状態。
騎士様とはウォルフとレオナードの事だろう。
「こんな辺境の小さな村に、一体何の用で来たのかしら?」
そう、一体どうして彼らはこんな辺鄙な村まで来たのだろう? 昨日は色々あってそれどころでは無かったから、考える余裕さえ無かったけれど、落ち付いてくると不思議でならなかった。
ここは本当に何も無い大田舎。あるとすれば、大自然と切り立った険しい山々に、あとはヒツジの群れにジャガイモ畑くらい。だから騎士様なんて来た日には、一大ニュース間違いなし。
「それがね、何でもこの村の近くに凶悪な盗賊が潜伏しているんだって。騎士様はそいつを追って、この村まで来られたそう。物騒だよね。もしかしたら、この村を襲ってくるかもしれないんだって」
「なんですって、盗賊がこの村に?」
シェリルはこくりと頷いて声を潜めた。
「色んな所で犯罪を繰り返していた、凶悪な盗賊団らしいわ。なんでも盗賊団一味を捕縛した際、数人程取り逃がしたらしいのよ」
警備隊は一体何をやってるんだ。抜かりないようにそこはしっかりと働いてほしい。
「ねえ、シェリルったら、やけに詳しいのね?」
「うん、今朝方親父が村長さんや神父様と一緒に話をしているのを、偶然聞いちゃったんだよね」
シェリルの家は村で唯一の加治屋さんだ。シェリルの父親は大柄で熊みたいにガッチリとした、村一番の力自慢だった。
「取れる物は根こそぎ奪って行くんだって。襲われたら最後、後には草一本生えて無いらしいよ」
「やだ、それ本当なの?」
「うん。親父達、夜遅くまで真剣に話し合っていたんだ。盗賊は子供だろうが大人だろうが関係なく外国に奴隷として売り捌くし、人殺しなんて気にも留めない。金品の為なら何だってやるって言ってた」
ぞっとして鳥肌が立った。思わず両腕を抱いて手で擦る。
「それも、逃亡したのは盗賊団のリーダーを含む一団なんだって。沢山いた子分達はお城の騎士様達によって捕まったらしいけど、そいつらは逃げおおせたって」
「そんな恐ろしいのが、どうしてこんな村に?」
シェリルは眉をひそめてずいっと顔を近付けてきた。ひそひそと小声で話す。
「ここはあの切り立った山々があるよね。というか、それしかないんだけどさ。山の中に逃げ込まれたらお城の騎士様達でも捜索するのは困難で、それを狙っているらしいよ」
シェリルの声が聞き取り難くて、わたしもずいっと近付いた。
「まさに、逃亡者にはうってつけの場所って事じゃないっ」
「うんうん、そう言う事。まじ怖いよね」
「じゃあ、この村を襲ってくる可能性は十分にあんじゃないの。だって、ここ以外に物資や食糧を調達できるような場所なんて無いもの!」
思わず大声で叫んでしまった。
「わあっ! 声が大きい。もう、耳が痛いよ」
シェリルは耳を塞いでうめいた。おっと、お互い顔を近付け過ぎていたわ。
「ごめん、ごめん。それより一刻も早く捕まえてほしいわ」
「うん。これじゃあ春祭りどころか、おちおち眠る事さえ出来やしないよ」
シェリルは腕を組んで真剣な顔をした。
毎年この時期になると、どの村や町でも春祭りがある。冬の間に皆が心待ちにしている行事だけれど、わたし達舞姫を目指す者にとってはそれ以上に大きな意味がある。
しかし、お祭りどころではなさそうだ。
この村が盗賊に襲われたらと思うと、首筋を冷たい物に撫でられたみたいで、背筋が寒くなった。
「ところでね、リリィ。騎士様って一体どんな方だと思う?」
顔を上げると、頬を赤くしたシェリルがいた。両手を組んで、うっとりとしている。
さっきまで硬い表情をしていたのに、その変わりようには驚くばかりだ。
「精悍な方かな、それとも髭を生やしたダンディなおじさま? ううん、やっぱり王子様みたいな方がいいよねぇ」
身悶えしながらシェリルは言った。早くも妄想の世界に入り込んでいるのだろう。さっきまでの真剣な様子は欠片も無く、もじもじしている。
「あのね、昨日」と、若干得意げに語ろうとしたわたしの言葉を遮るように、教室の隅から黄色い声が上がった。
「きゃあ! ロザリーは騎士様を見たの?」
「ええ、そうよ。昨日うちに騎士様がいらしたの。村長であるお父様へ挨拶しにね」
得意げに返事をしたのはつんと澄ました可愛らしい声。
出鼻を完全にくじかれたわたしはこれ以上話をする気が無くなってしまった。
シェリルと眼を合わせると、二人してロザリーの話に聞き耳を立てた。
ロザリーは人だかりの中心で得意げに話している。
彼女は艶のある黒髪を凝った形に結い上げて、黄色いレースのリボンをあしらっている。また、同色の生地にたっぷりと襞が入ったスカートを履いていて、春を意識したコーディネイトなのだろう、爽やかな色味は彼女の髪に良く映えていた。榛色の眼をきらきらさせて、さも自慢げだ。
「挨拶にいらした二人共、それはそれは素敵な騎士様だったわ。今思い返してもうっとりしてしまう位」
ほうっと溜息を吐く。
手を当てられた頬を赤く染めているに違いない。そんな、ピンク色の声だった。
「燃える炎みたいな赤毛の方がウォルフ副団長さま。端正なお顔には大きな傷があって迫力があるんだけど、そこがまたぞくっとするの。しかも、ウォルフ様の声ときたら、ほろ苦いチョコレートのようなの。苦味があって、口の中で甘く溶ける様。思わずうっとり聞いてしまう声。そして、年代物のスコッチウィスキーのような金髪の方がスチュワートさま。澄んだ湖のような瞳。優しい洗練された物腰に、爽やかな笑顔。まるで物語に出てくる王子様みたいだったわ」
スチュワートの瞳の色ってそんなだったんだ。
今頃になって知った。
皆、ロザリーの話を夢中になって聞いている。そりゃあそう、何と言っても憧れの騎士様の話だもの。
それにしても、わたしの印象とは随分違っている。まあ、ロザリーと比べてわたしは眼が悪いし状況も違うし。
でも何なのよ、チョコレートに年代物のスコッチウィスキーって。そんな高そうな物なんて、見た事も無いわよ。
わたしには彼女のそういう所が鼻につく。ただ単にひがんでいるだけかもしれないけれどね。
「ねえねえ、今の聞いた? チョコレートだなんて食べた事無いよ。それに、うちの親父が飲んでる安物のスコッチだって、結構綺麗な琥珀色だよ。だとしたら、年代物のスコッチだなんて一体どんなのだろうね」
シェリルは頬を薔薇色に染めている。ロザリーのピンク色が感染したようで、「ふう」なんて熱い吐息なんか出しちゃって、一体どんな妄想になっているんだか。
「あたしさ、なんだか感じてきたみたい」
「はあ、感じる? って一体何に」
「運命っていうの? きっと、あたしの王子様にちがいないわ」
「あら、そうなの」
これ以外に、返す言葉なんて思い付かないわよ。