2
一度もその姿を見た事が無いから、この村の者ではなさそう。わたしの住むこの小さな村は、全員が顔見知りと言っていい位だから、部外者はすぐに分かる。
ついでに言えば、殆どの人が他人の家の事情を次の日には知ってしまうくらいで、良くも悪くも大田舎だった。今日の夕飯が何であったか、友人のおばさんが知っていたりするもんだから、少々うんざりしてしまう。
赤毛の男はわたしの前に跪いた。見るからに仕立ての良い服が泥で汚れるのも構わずに。男は手に持った布……絹のハンカチかしら、とても肌触りがいい物でわたしの額から頬を、とんとんと軽く拭いてくれた。
わたしなんかを拭いたら上等なハンカチが汚れてしまう。眼に痛いほどの白いハンカチは、あっという間に泥と赤い色で汚れてしまった。どうやら、わたしの額からは血が出てたらしい。
「あの、もう結構ですから。どうも御親切にありがとうございました」
汚してしまったと変に言いがかりをつけられても困るし、そんな高級なハンカチを弁償しろと言われてもどうしようも無い。さっさとここから退散するべきだろう。けれども、立ち上がろうにも動けない。となれば、相手に動いて貰うしか無かった。
取りあえず、失礼の無い程度に礼を述べる。しかし、出来るだけ早く一人になりたかったので、内容はそっけなくなってしまった。
「立てるか?」
どうも、放っておいてほしいというメッセージは相手に伝わらなかったようで、わたしの希望とは正反対にここから去って行く気配は全く無い。
「大丈夫です。もう少しこうやって休んでいれば、じき動けるようになります」
強がって笑顔を浮かべて見せたが、どうも上手くいかなかった。顔はひきつってしまい、心細さの滲む小さなか細い声が出てしまった。それは自分でも吃驚するくらい弱々しいもので自分でもこんな声を出す事があるのかと思ったくらいだ。
すると赤毛の男が無遠慮に肩へと触れた。その手はわたしなんかよりずっと大きくて、ごつごつしてて。男性の手とは、こんなに大きいものなんだ。
それは衝撃的だった。お父さん以外の男性に触れられるだなんて、村ではありえないこと。
幼い子供なら良いが、年頃の男女が互いの身体に触れるだなんて。男女が恋人同士になってから、ようやく手を繋ぐくらいなのに。
清く正しい村の男女交際で、大胆な事と言えば付き合う前に相手の身体に触れる行為。
肩に触れた男の手に、わたしは驚いて反射的に体をよじってその手を振り払った。
「痛いっ!」
しかし、急に動いたのがいけなかったのか、身体中に鋭い痛みが走り抜けた。
もしかして、どこか骨でも折れているのかも。「うぬううう」だなんて、うら若き乙女にあるまじき、オッサンのように唸ってしまった。
「副団長、どうですか? ああ、これは辛そうですね」
「レオナード」
さっきとは違う男の声。
またも、気付かなかった。赤毛の男以外にも人がいたんだと、今頃気づく自分に苛立ちを感じる。
その声は赤毛の男よりも若干砕けた軽い調子で優しげだ。と、いうよりは赤毛の男が重苦しいのだろう。
その男は夕暮れ時の薄闇の中でも光る、明かりのような金髪だった。男の影は先の男よりも少し細身な輪郭を描いていたけれど、二人共体格が良くて背も高い。
村中の人と比べたってこの二人ほどの背丈はないだろう。
「副団長、それでは彼女を怯えさせてしまいますよ」
「……そうか?」
金髪の男は笑いを含んだ声で言うと、ゆっくりとした歩調で傍までやって来て、わたしと目線を合わせるように腰を落とした。
「僕たちは達は決して怪しい者ではないからね、そう警戒しなくてもいいよ。それに、こんな時間、人気の無いこんな場所で年若い女性が一人でいるのは感心しないな。悪い人間にかどわかされてしまうよ? 勿論僕らは違うけどね」
金髪の男が妙に優しげな口調で言った。けれど、そう言われると、返って怪しい気がしてしまうのは何故かしら。
誘拐犯は皆そう言うのだろう。そんな言葉、村のちびだって信じやしない。
「ああ、痛々しいね。こんな可愛らしい女性が怪我で辛そうにしている姿なんぞ見たくないな。ねえ君、他にも痛む所があるんじゃないかい?」
言いながら、さっきとは違う細い指の骨ばった手が、背中を上下に撫でるように動いた。そのゆっくりとした手の動きにわたしの背筋はぞわっとする。
金髪男がざっとわたしの全身に眼をやっている気配がして、何故だか居心地悪い気分になった。こんな、みすぼらしい汚れた身なりをした少女を、彼らの眼にはどう映っているのだろう。きっと憐れに思ったに違いない。
まだ触られているが、今度は振り払う事は我慢した。ただ単にさっきので懲りたから。
しかし、この人達は人の身体に触り過ぎる。まあ、怪我人だからそいういものかもしれないけれど、わたしはべたべたと触られる事を黙認しておく。正直それどころじゃない。
「どこを打った?」
そっけない簡潔な赤毛男。
「腕と膝、頭も打ちました」
「それはいけない、頭なんて打ちようが悪かったら大変だよ。さあ良く見せて、ここかな? ちょっとコブになっているようだね」
そっと頬を撫でながら金髪男の指先が髪へと潜り込み、かき分けて行く。思わず呻き声が出た。だって、これって怪我人じゃ無かったら、誤解しそうな状況じゃない?
「気分は?」
わたしを気遣ってくれているのか良く分からない、平たい声で赤毛の男が一言。
私は緩く頭を横に振った。動かせば頭痛がする。くらりと視界が揺れて声を出すのさえ辛くなった。これは、自分で予想していたよりもずっと酷いのかも。
わたしは今更不安になってきた。
「お前の名は?」
「……リリィ」
体中のずきずきする痛みをこらえながら、何とか赤毛に返事をした。
「リリィちゃんか、うん、君にピッタリの名前だ。さあリリィちゃん、手足は動かせるかな? ああ、無理に動かさなくてもいいから」
わたしは恐る恐る、金髪男の指示に従った。ずきりと鋭い痛みがあったけれど、わたしの意思どおりに手足は動いてくれた。良かった。もしかして動かないかと不安になっていたのだけれど、どうも無いみたい。
「よし」
「骨折はして無いようですね」
成程、さっきのは骨折しているか診てたんだ。「よし」の一言では分からないでしょ。どうも赤毛は言葉が足りなさすぎる。
金髪の男がそっとわたしの手足を取って、確認するように動かした。
「だが、ひどく顔色が悪いね。どうも起き上がれないようだし」
「頭か」
「はい、安静にした方がいいでしょうね。リリィちゃんの家はどの辺だい?」
「この少し先で、そんなに遠くはないですから」
だから独りで帰れます、もう充分です。放おっておいて下さい、さようなら。と、言葉には出さないが気持ちをこめて遠慮する。
そんなわたしたちの会話をよそに、赤毛の男は腰に下げた袋からいつの間にやら蓋の空いた水筒を取り出していた。「膝だ」とぶっきらぼうに言ってから、擦り剝いて泥塗れの膝に水筒の水をかけた。冷たい水はじくじくと傷に染みる。どうも、傷口を洗ってくれたのだと気付いた時には水筒が消えていた。次にガーゼと小瓶を魔法のように出現させると小瓶の液体をガーゼに染み込ませた。
何をしているんだろう? わたしがぼんやり見ていると、「しみるぞ」と言い放つ。はあ、そうなんですか。などと、わたしの脳が何の事だか理解する前に、傷口にさっとガーゼを当てた。それは、本当に痛みを感じるくらいひりひりと染みた。
「いっ」
消毒薬だったのね。それならそうと、初めから教えてほしい。
わたしは唇を噛んで、何箇所かに及ぶ軽い拷問に耐えなければならなかった。