18
わたしはウォルフに抱えられながら、舞台が見える場所へと向かった。
「ちょっと、降ろしてってば! ねえウォルフっ」
「急ぐぞ」
わたしは口で抵抗してみたけれど、ウォルフは全く聞こえていないとでもいうように、無表情でずんずん進んで行く。
彼の歩調はそうゆっくりでもないのに、抱えられているわたしがあまり揺れないのは、わたしの足に配慮しての事だろうと思う。
痛めた右足はと言えば、ウォルフに塗ってもらった軟膏のお陰で随分と楽になり、多少揺れた程度くらいなら支障は無さそうだった。
ただし、この眼鏡とやらを掛けたままだとまともに歩けそうに無かった。
足の所為では無く、見え過ぎる所為で。視界に飛び込んでくる景色がぐんぐん迫って来て、ちょっぴり怖い。
おまけにくらくらとめまいもするし、ウォルフに抱えられていなかったら、ここまで移動する事もできななかっただろう。
わたし達が再び舞台にを見に戻った時、既にシェリルの舞は終わっていた。ステージの上で、優雅に膝を折って礼をするシェリルに向かって盛大な拍手が送られている。
シェリルの舞は好評だったみたいだ。
彼女の踊りが見れなかったのは残念で仕方なかった。それに、一緒に励まし合って頑張って来たシェリルの舞を見なかったのは、彼女に対して申し訳ない。
舞台の上から退場するシェリルの背中を見ながら悔んでいる間に、司会が次に踊る生徒の名前を呼んだ。
この舞踏大会の大本命、舞台に立ったのはロザリーだった。
「見えるか?」
「ええ、もの凄く良く見えるわ」
狭くなってしまった視界は横には広がらなかったけれど、眼鏡のおかげで遠くまで見えるようになったわたしの眼には、はっきりとロザリーの姿が映った。
今迄は見えなかった筈の表情から綺麗な衣装に施された小さな飾りまで。
――見える。
伸ばされた指先の角度にステップを踏む爪先まで細かく把握できる。
僅かに首をかしげる角度、しなやかな手首の動き、跳ね上がる足の高さ。
わたしはロザリーの躍りを食い入るように見つめていた。
いつしか、隣にウォルフがいる事さえ忘れるくらいに。
今、わたしの意識にあるのは舞台の上で躍るロザリーただ一人だけだった。
不意に昔の記憶が脳裏に甦っていた。
幼かった頃からの時を越えて、舞台の上で踊る舞姫の姿が鮮やかに浮かび上がった。
一つ一つの動作はくっきりと生々しく、まるで本物の舞姫の舞台を見ているようだった。
……そう、あの時舞姫はこんな風に躍ったのだ。
あの時、舞姫の表情は眩しく光を放つ夜空の星のように輝いていたことも。
選抜会は大盛況の内に終わった。
結局最優秀賞にはロザリーが選ばれた。文句無く完成度の高い躍りだったから、満場一致での決定だった。準優秀賞にシェリル。彼女の評価もかなり良かったが、あと一歩及ばなかった。
選抜会のこの賞は、舞姫候補生選考にもかなりの影響力があので、今年の候補生はほぼ決まった様なものだろう。
今年はロザリーが候補生に選ばれるに違いない。
わたしは眼鏡をそっとウォルフに返した。
「ウォルフ、ありがとう。貴方が貸してくれたこの眼鏡のおかげで色々な事に気付く事ができたの。ついでに酔っぱらいみたいな経験もしたけど」
「そうか。なら、そのまま持っておけ」
それってくれるってこと?
彼は、子供に木の実でも与えるかのように言った。
「え?」
ぽかんとしてウォルフの顔を見つめた。もう、さっきまでのように、はっきりとは彼の表情は見えなくなっていた。
ちょっと待って、嘘でしょ、こんな高そうな代物を。
何を言ってるんだか。
元々お金持ちだからなのか、どうしてそんな事が言えるの。流石は副団長様だけど、知り合って間も無い田舎村の小娘なんかに、何故こんな高価な物をくれるのかしら。
もしかして、私を憐れんでなの?
……それならば、なおさら受け取れない。
ねえ、わたしはまだ、そこまで不幸じゃないよ。
「こんな高価な物恐れ多いし、分不相応だわ。それに、実際使うにはくらくらするし」
「だが、文字を読むにも支障をきたしているのだろう?」
「……ええ。でもこれで、決心がついたの」
「何を」とは聞かず、ウォルフは僅かに右の眉を上げて先を促した。
「わたし、貴方に視力が悪い事を知られた時、自分の不注意や貴方の洞察力を恨んだわ。今まで誰にも知られないように、ひた隠しにしてきたのに。それなのに、ほんの少し会っただけの貴方達に見破られてしまって」
ウォルフは頷いた。外見はとっても怖そうなのに、実際は嫌な顔一つせず、じっと耳を傾けてくれる優しい人。
「でも、わたしは間違っていたのかもしれない」
「それは?」
「貴方の手、とても大きくて温かかった。貴方が手を差し伸べてくれて、今迄いかに無理をしていたか分かったの。もうわたしには舞姫なんて無理なのかもしれない。けれど、諦める事も出来ない。だから、もう一度だけ我儘を言いたいの。今度は自分を隠さず堂々と。まずは、身近な人を信頼して」
「そうか」
返事と同時にウォルフは眼もくらむような眩しい笑顔を浮かべた。
それは周りの景色が色あせて見えるほど鮮烈で、彼の表情は夜空の星よりなお輝いていた。
時間が経つにつれ、祭りは一層にぎわいを増していく。いつの間にか日は落ちて、夕の明星が煌めいていた。
わたしにとって、それは久しぶりに見えた一番星だった。