16
暫らく抱きついていたが、胸が妙にドキドキして息が苦しくなってきた。なんとなく、頭がぽうっとする。
どうしちゃったんだろう、わたし。
わたしの背中をやんわりと撫でるウォルフの手が心地好い。
こんな事、初めて。わたしってば、なんて大胆なの。
遅蒔きながら今頃になって羞恥心が戻って来た。どうせなら、もう少し後から戻ってくればいいものを。
急に落ち着かなくなったわたしはウォルフの胸に密着していた上半身を離した。
恥ずかしくてウォルフの顔をまともに見る事が出来ない。その場を取り繕うように、今まで疑問に感じていた事を口走った。
「ねえ、ウォルフさん。どうしてわたしの眼が悪い事に気が付いたの? 今まで誰も気付かなかったのに」
「俺も眼が悪かったからだ」
「え……」
予想だにしない意外な返事が返って来た。
「この顔の傷が原因でな。一時的にだが視力が急激に下がってしまい、失明さえも覚悟した」
ウォルフの額から頬に掛けて走る、大きな古い傷跡。今では白い、ひきつれた跡のみだけど、相当酷いものだったに違いない。その傷は整った顔へ一層魅力を加えていた。
顔の傷を見ながら、この男でもこんなに話す事ってあるんだ、などと妙な感想を頭の片隅で考えた。
どうも、人間と言うのは驚き過ぎると思考が変になるのだろう。
「それじゃあ、貴方も見えないの?」
ウォルフは首を横に振ると「いや、今は違う」と否定した。
騎士を務める事が出来るという事は、彼の視力が回復したという証だろう。しかも、彼は副団長という身分。優れた身体能力で無いとそう簡単には務まらないだろうし。
なんだ、そうなんだ。
彼は私と一緒では無い。
「ねえ、ウォルフさんは元通りに眼が良くなったの?」
「いや、完全には戻らなかったが日常生活に支障は無い」
「……そう、良かったね回復して」
皮肉でも無く心からの言葉だった。
また見えるようになるなんて、なんと羨ましい話だろう。
医者にでもかかれば違うのかしら。もしそうだとしても、うちにはそんな余裕などありはしない。治る見込みなど初めからありえない。
卑屈になりそうな気持ちを押し隠して、そう返事をした。
「だから、貴方はわたしの眼が悪い事が分かったのね」
「ああ。痛い位にな」
だから見ず知らずであるわたしの事が放っておけなかったのか。
「リリィはどうなんだ?」
彼は今の視力を聞いているらしい。
「全く見えない訳じゃない。でも、まるで筒の中から外を覗いているみたいに視界が狭くて此処までしか見えないの。見えている範囲も白くぼんやりしていて、夜になるとほとんど見えなくて。でも、今の明るさとこの距離なら貴方の表情くらいは分かるわ」
言いながら、わたしは両手を両耳から真っ直ぐ伸ばした。そう、ここまでがわたしが見える横の範囲なのだ。気付かない内にこんなにも視界が狭くなってしまった。
「わたしね、これが最後だったの」
「最後?」
「そう、この舞台で候補生に選ばれなければ、踊りを止めるしかないの。だから、最後のチャンスだったの。なのに、こんな終わり方なんて無い」
わたし、なにをぺらぺらしゃべっているのかしら。
もういい、もう苦しくて誰かに聞いてほしい。この無口で無愛想でお節介以外には何も知らない騎士でも。
「眼が悪い事は秘密にしているのか? 誰にも?」
「そう、母さんにだって言ってない。わたしの秘密を知るのは貴方達だけ」
「何故だ」
「もし見えないと分かったら、それだけで舞姫候補には選ばれないかもしれない。それどころか舞踏教室にすら通えないと思う。わたし、怖かったの。このまま躍りを取り上げられるんじゃないかって怯えてた」
ウォルフは何も言わずに頷いただけ。
でも、わたしにとってはその方が有り難かった。何も言わず、ただ聞いてくれるだけの方がよっぽど話しやすくて、何年にも蓄積した苦しい胸の内を晒す事ができた。
「でも、怯えて暮らすのはもうお仕舞い。どうやったって実際の生活が難しくなってきたから、いずれはばれるでしょう。だから、眼が悪い事を白状して清々するの。そしたら舞の指導を受けた時に細かな仕草が見えなくて悩む事もないし、これ以上上達しなくても気にしなくていい。教会で文字が殆ど読めない日がある事も堂々と言えるし」
それに、教室に通い続けられる程うちはお金がある訳じゃないしね。胸の内でこっそり続けた。
「それで終わりにするのか」
ウォルフの眼はそれでいいのか、と問うていた。
「もういいの、何もかも。止める事は決めてたことだから、逆にすっきりするわ」
わたしは努めて、明るく聞こえるように返事をした。