10
「一人でふらつくなと言っただろう」
ウォルフが眉間に皺を寄せている。でも、そう咎めるように言われても胸の動悸はおさまらない。
やだ、何動揺してるんだか。レオナードのセリフに動揺してしまう。
レオナードはどうも軽薄なタイプのようで、田舎娘をからかっては楽しんでいるんだろう。
「そうだよ、リリィちゃん。悪い狼に食べられちゃうよ」と言った声は、どこか楽しそうだった。彼らのような身分の高い人はこんな田舎の小娘など、実際のところ相手にしないだろうに。
「ん? 副団長その左手は」
レオナードが何かに気付いた様だ。
そういえば、ウォルフに怪我はないのかしら。今更ながらに思い立った。
わたしを受け止めた時の衝撃は結構あっただろうから、ウォルフは痛かったかもしれない。流石に申し訳ないったら。
「ああ、これか」
ウォルフはそっけなく答えている。
もしかして、わたしが彼を怒らせてしまったのだろうか。
ふと、自分の右手の指が濡れているのに気が付いた。見れば血が指先に付着している。しかし指に痛みなんて感じないし、怪我も無い。まるで、何かを引っ掻いたような血の付き方。
はっとした。もしや。
「ウォルフさん、手を」
わたしはその大きな左手を取ろうと腕を伸ばして、空を切った。距離を測りそこねたのだ。ウォルフは怪訝そうに頭を揺らした。
そんな彼の反応は放っておいて、再度手を伸ばした。
左手の甲には細い引っ掻き傷から赤い筋が二本走っている。
「いい、気にするな」
そんなの、気にするななんて無理でしょ。今度こそ、わたしは彼の手をそっと掴むと眼を近づけて観察した。傷は細くギザギザして、じわじわと血が滲んでいる。
わたしがぶつかった拍子に爪を立てたんだろう。
「ウォルフさん、御免なさい。わたしの不注意で」
ポケットから清潔なだけが取り柄のハンカチを取り出すと、ウォルフの手の甲に巻き付けた。そのままぎゅっと両手で押さえる。血が止まりますようにと願いながら。
「ただのかすり傷だ。どうも無い」
ウォルフはハンカチで押さえられている手の上からもう一方の手を重ねると、そっとわたしの手を外した。ちいさな子供の手を扱う様な優しさで。
事実、ウォルフの手はわたしのよりずっと大きくて、重ねればすっぽりと覆ってしまう。
「……汚してしまったな。悪いがこれは貰っておこう」
眉根を寄せてウォルフは顔をしかめた。
もしかして、汚ない物だと思われたのだろうか。何度も使って古ぼけてはいるが、ちゃんと洗濯してあるのに。
「気にしないでください。古い物だけど清潔ですから、そんなので良かったらどうぞ」
頭を横に振って答えた。
そのせいで髪が乱れてしまったが、どうせ躍っていた時点でぼさぼさだ。特に気にもしなかったが、ウォルフは手を伸ばしてわたしの顔にかかった髪をそっと払った。そのまま、真っ直ぐに向けられる若葉色の瞳。
静かな気配はまるで、医者に観察されているよう。
その緑の瞳に全てを見透かされそうで居心地悪くなったわたしは自分から眼を逸らした。
それにしても、どうしてこんな場所に二人は居るんだろう? 少し離れた場所には馬が二頭、木に繋いであった。馬は尻尾を揺らしながらのんびりと草を食んでいる。
「あの、お二人はどうして此処に?」
レオナードはウォルフを見てから答えた。ウォルフは微かに頷いた様だ。
「リリィちゃん、君にまた会いたくなって此処に来たんだ。と、言いたいところだけど……」
レオナードは器用に片目を閉じてから笑顔を浮かべた。
この金髪男、どうにも胡散臭くてならない。
「そんな顔しないで、リリィちゃん。仕事の都合上でね、君の耳にもこの近辺に盗賊団が逃亡して来ているのは伝わっているだろう?」
つい気持ちが表に出てしまったようで、レオナードは反応を面白がるように笑いながら首を横に振った。
「ええ、聞いています」
「その事で、警備上の理由から村が一望できる此処に来たって訳だよ」
成程。確かに此処ならば、村全体が良く分かる。それに、村へと出入りする道は二通りしか無く、周りは山と森に囲まれている。そこさえ押さえられてしまえば、村人たちはどこにも逃げ場が無く、村は完全に孤立してしまうだろう。
「さあ、リリィちゃんはそろそろ家に帰るんだ。こんな所に一人でいるのは感心しないな。君の家まで送っていくよ」
「え、いいです。これ以上ご迷惑をかけるなんてできません」
「迷惑だなんてこれっぽっちも思ってやしないさ。どうせ、君の家の近くを通るんだ。家まで送った所で変わりはしないよ」
「でも」
「以前にも注意しただろう、忘れたか」
レオナードの優しげな態度とは対照的にウォルフが言い放った。
彼はわたしがこんな所で一人、ちょろちょろしているのを快く思っていないのだろう。
「わかりました」
「よしよし、いい子だね」
仕方なく、二人の言葉に頷いた。すると、レオナードはわたしの手を取ってエスコートするように移動した。
レオナードはこういった女性の扱いには慣れているみたいで、平然としている。むしろ、されている筈のこちらが気恥ずかしい。
エスコートされて移動した先は、馬を繋いでいる木の側だった。
その間にいつのまにやら馬上の人となっているウォルフが何も言わずに右手を差し出してくる。
どうやら乗れと言っているようで、わたしは戸惑いながら無口なウォルフの手を見つめた。
「手を」
ウォルフの催促に、わたしはその大きな手を取ろうと腕を伸ばしたが、その手は空を切った。距離を測りそこねたのだ。
怪訝な様子でウォルフは手を閉じたり開いたりした。今度はもう少し握りやすいようにだろう、こころもち掌を広げる。
「やだ、ぼんやりとして」
今度こそ、ちゃんとウォルフの手をしっかりと掴む。
じっとわたしを見つめる鋭い二人の視線。まるで、身体の内側まで暴いてしまうような二対の瞳。
「眼が悪いのか」
心臓が止まるかと思った。
ずばりと、言い当てられたわたしの真実。
呼吸がひゅっと音をだした。上手く空気が吸い込めない。まるで、肺を患ってでもいるかのように。
「だからあんな風にこけるんだな」
今まで、母親にも気付かれなかったのに。それが、たった二回しか会っていない、赤の他人に気付かれてしまうなんて。
レオナードがわたしの身体を支えるように手をまわした。馬に乗りやすくサポートしてくれるようだ。
「リリィちゃん、遅蒔きながら今頃になって気付いたよ。気が利」わたしはレオナードの言葉を遮った。
「違う! 貴方達の勘違いよっ」
それ以上言わせたくなかった。
「リリィちゃん?」
わたしは目の前にあるウォルフの手を勢いよく払いのけると、自分で立ち上がった。勢い余って彼の腰に下げてある袋に手が当たってしまったけれど、それどころでは無い。何だか分からない袋の中身は鋭く繊細な悲鳴を上げた。
「わたし、失礼します」
返事も聞かず、一目散に家へと逃げ帰った。