一人暮らしのワンルーム、歩くたびに背後から「一秒遅れの足音」がついてくる
他人の出す生活音というものが、昔からどうしても許せない性分なのです。
アパートの薄い壁越しに聞こえてくる、隣人の咀嚼音、くしゃみ、深夜の足音。そういった些細な音のすべてが、私の耳の奥を鋭利な針で突き刺すように不快でたまらない。
あなたには、そんな経験はありませんか? きっと「神経質すぎる」と笑うのでしょうね。でも、私にとっては死活問題だったのです。
他人の「音の排泄物」を強制的に聴かされる苦痛は、到底言葉にできるものではありません。
だからこそ、新しく見つけたこのワンルームを内見した時、私は運命を感じました。
周囲に高い建物はなく、大通りからも外れている。驚くほど静かで、まるで世界から切り離されたシェルターのようでした。
家賃が相場より数万円も安かったのは、何かしらの事情があるからだと説明されましたが、私にとっては「静寂」こそが何よりも優先されるべき価値だったのです。
念願の一人暮らしが始まり、私は心底満足していました。
夜、部屋の明かりを消し、ベッドに横たわると、そこには完璧な無音が存在していました。自分の呼吸音と、心臓の鼓動だけが優しく響く空間。それだけで、私のすり減った神経は癒やされていくはずでした。
あの「音」に気づくまでは。
引っ越して三日目の夜のことです。
喉の渇きを覚えてベッドから起き上がり、台所へ向かってフローリングを歩いた時でした。
私が足を止めた、まさにその一秒後。
背後の暗闇から、遅れて「コツ……」と、床を叩く音が響いたのです。
◇
最初は、ただの家鳴りか、あるいは階下の住人の生活音だと思い込もうとしました。
私は非常に論理的な人間ですし、怪奇現象などという非科学的なものをハナから信じるほど愚かではありません。
古い木造物件や格安アパートなら、気温の変化で木材が軋むことなど日常茶飯事ですから。
ですが、翌日の夜も、その翌日の夜も、私が歩を止めるたびに、決まって一秒後に「コツ……」という音が聞こえるのです。
それは単なる偶然にしては、あまりにも正確すぎるタイミングでした。
そこで私は、いくつかの実験を行うことにしたのです。原因を突き止めるための、極めて客観的な検証です。
まず、スリッパを脱ぎ、裸足になりました。体重の移動による床の軋みを確認するためです。そして、わざと不規則なステップを踏んでみました。
トン、ト・トン、トントン。
私が動きを止めます。私の息の音さえ止まるほどの静寂。
そして、きっかり一秒のタイムラグを置いて、私の背後から全く同じリズムの音が返ってきたのです。
トン、ト・トン、トントン。
それは裸足の音ではありませんでした。硬い、まるで革靴の踵でフローリングを小突いたような、乾いたプラスチックのような音。
さらに私は、意地悪な検証を付け加えました。そのステップの直後、完全に静止した状態を保ったのです。すると、どうなったと思いますか?
一秒後に再現されたステップの、その最後に。
――コツ……。
と、余分にもう一歩分の音が響いたのです。
私は、自分が何も動いていないことを肉眼で確認していました。つまり、その最後の「一歩」は、私の動作のトレース(模倣)ではない。怪異が、自らの意志で踏み出した一歩に他なりませんでした。
その瞬間、私は理解したのです。ああ、これは家鳴りでも生活音でもない。私のすぐ後ろには、見えない「誰か」が確実にいて、私の歩調に合わせて歩いているのだ、と。
不思議なことに、その時はまだ、それほどの恐怖は感じていませんでした。
何より、その怪異は非常に規律正しかった。
私が動かなければ、音は一切しないのです。他人の出す予測不能なくしゃみや、突然の笑い声に比べれば、私の動作に完全に同期してくれる「一秒遅れの足音」は、むしろ制御しやすく、無害なものにすら思えました。
ただ一秒、遅れてついてくるだけ。
ただそれだけのはずでした。
◇
異変が起きたのは、それから一週間が経った頃です。
私はいつものように、自分の足音と、背後の足音の連動性を楽しむように部屋を歩いていました。歩いて、止まる。一秒後に、コツ。
しかし、その時のタイムラグは、いつもより明らかに短かったのです。
一秒ではありませんでした。
体感で、およそ「〇・五秒」。
私が足を止めると、ほぼ同時に近い感覚で、背後から「コツ」と音が迫る。
私は息を呑み、メトロノームアプリを使って正確な時間を計測しました。
間違いありませんでした。怪異の足音は、私とのタイムラグを確実に縮めていたのです。
翌日には、それは「〇・一秒」になりました。
私が右足を踏み出すと、私の左足が地面に着くよりも早く、背後で「コツ」と音がする。まるで、私の影が物理的な実体を持って、私の踵を踏みつけんばかりの至近距離にまで肉薄しているかのような感覚です。
その時になって初めて、私は本当の恐怖というものを理解しました。
これは、単に私の真似をして楽しんでいる無害な怪異などではない。一歩、一歩、確実に私との距離を詰め、最終的に何かを成し遂げようとしているカウントダウンなのだと。
ラグが縮まるということは、距離が縮まるということです。
〇・一秒の隙間しか残されていないということは、奴はもう、私の背中に鼻先が触れるほどの距離に立っている。
私は部屋の中で、一歩も動けなくなりました。
ベッドの真ん中に体育座りをし、フローリングに足を下ろすことさえできなくなってしまったのです。私が一歩でも歩けば、その瞬間にタイムラグは「ゼロ」になる。
ゼロになるということは、あの見えない足音の主が、私の身体と完全に重なってしまうということです。
そうなったら、私は一体どうなってしまうのか。
室内の静寂が、急に牙を剥いて私に襲いかかってくるようでした。
エアコンの微かな駆動音さえ、奴が忍び寄る気配を隠すための雑音に思えて不快極まりない。
私は耳を塞ぎ、ベッドの上でガタガタと震えながら夜を明かしました。何も食べず、トイレにも行かず、ただ、部屋の中心にある空白を睨みつけながら。
♢
そうして、三日が過ぎました。
人間の精神と肉体には限界があります。喉は砂漠のように乾き、頭痛が激しく襲ってくる。このままベッドの上で衰弱して死ぬか、それとも一歩を踏み出して「ゼロ」の瞬間を迎えるか。
どちらにせよ、破滅しか残されていないのなら。
「……もう、どうにでもなればいい」
私は早くこの不快な静寂を終わらせたい。
ただそれだけを願い、私はゆっくりと、ベッドから床へ足を下ろしたのです。
◇
冷たいフローリングに、私の右足が触れます。
体重を移動させ、床を踏みしめる。
――コツ。
音が響きました。
それは、私の足音ではありません。私の足は靴を履いていないのですから。
音の遅れは、ついに「ゼロ」になりました。
私が踏み込んだのと、完全に同時に、同じ場所から足音が響いた。
ラグがなくなった。つまり、奴は私と完全に重なった。
身体が芯から凍りつくような冷気が、背中から脳天へと突き抜けました。
私の肉体の中に、別の冷たいナニカがぴったりと滑り込んできたような、悍ましい一体感。
恐怖が限界を突破し、私はプライドも理性もかなぐり捨てて、喉がちぎれるほどの悲鳴を上げながら振り返りました。
「やめて! 出ていけ!!」
しかし。
振り返った先には、やはり誰もいませんでした。
カーテンが微かに揺れているだけの、いつもの、静かで狭いワンルームです。
私はへなへなと床に崩れ落ちました。
なんだ、何も起きないじゃないか。重なったからといって、肉体を乗っ取られるわけでも、殺されるわけでもない。ただの、音だけの怪異だったんだ。
そう、すべては私の取り越し苦労。神経質な私が作り出した、大いなる幻覚。
私は安堵のあまり、涙を流しながら笑いました。ガタガタと震える身体を抱きしめ、冷たい床の上で息を整えようとしました。
私が、完全に動きを止め、静止していた、その時です。
静まり返った部屋の中に、その「音」が響いたのです。
――コツ……。
私は、動いていません。指一本、髪の毛一筋さえ動かしていません。
なのに、音がした。
しかも、その音は、私の「背後」からではありませんでした。
私の視線の先、何も無いはずの「前方」の空間から、はっきりと聞こえてきたのです。
脳の思考回路がパニックで焼き切れる音がしました。
今のは、何だ?
私が動いていないのに、なぜ音がする?
一秒、遅れて、私の身体が勝手にビクッと震えました。
その瞬間、私はすべてを察し、絶望の底へと叩き落とされたのです。
ああ、そうか。
タイムラグが「ゼロ」を通り越して、マイナスになったのだ、と。
――コツ……。
また、前から音がします。
一秒、遅れて、私の右足が、私の意志とは無関係に、強制的に一歩前へと踏み出させられます。
――コツ……。
また、一歩前。
一秒遅れて、私の左足が、床を引きずるようにして前に進む。
主導権は逆転したのです。
これまでは、私が歩く後ろを、奴が楽しそうについてきていた。
けれどこれからは、奴が一秒先に歩くのです。見えない奴が前を歩き、私はその足音に操られる操り人形のように、一秒遅れて後ろをトボトボとついていくしかありません。
奴は一体、私をどこへ連れて行こうとしているのでしょうか。
私の意志は、私の肉体は、もう一秒先の未来を歩く「それ」に、永久に追いつくことはできないのです。
――コツ……。
ほら、また一秒早く、次の音が聞こえてきましたよ。
(終)




