表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後のキスを忘れられないまま、あなたの娘に出会いました 〜十年越しの恋と、母を失った女の子のホットミルク〜  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

最終話 新しい歌をうたえるまで

彩乃が残した手紙を読んだ美緒。


莉子の母親にはなれない。

彩乃の代わりにもなれない。


それでも、莉子が泣いてもいい場所になることはできるかもしれない。


過去を消さずに、亡くなった人の場所を奪わずに、

美緒、悠真、莉子が選ぶ答えとは――。


最終話です。

「いなくならないって、簡単には言えない」


 美緒がそう言うと、莉子の顔がくしゃりと歪んだ。


 悠真も息を呑んだ。


 けれど、美緒は続けた。


「人は、ずっと同じ場所にいられるとは限らないから。約束しても、守れないことがあるから」


 莉子の涙が、頬を伝った。


「じゃあ、やっぱり……」


「でも」


 美緒は、莉子の小さな手にそっと自分の手を添えた。


「勝手にいなくなったりはしない」


 莉子が顔を上げる。


「ちゃんと話す。ちゃんと会う。莉子ちゃんが嫌じゃなければ、ここに来た時はホットミルクを作る。泣きたい時は、泣いていい」


「ママじゃなくても?」


「ママじゃなくても」


「ママの代わりじゃなくても?」


「代わりじゃなくても」


 莉子は、しばらく美緒を見つめていた。


 そして、声を震わせた。


「じゃあ、美緒さんはなに?」


 美緒は少しだけ笑った。


「今は、ホットミルクの人」


 莉子は涙を浮かべたまま、きょとんとした。


 悠真が、ほんの少しだけ笑った。


「ホットミルクの人?」


「うん。そこからでいいと思う」


 莉子は泣きながら、少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 声は出なかった。


 でも、それは確かに、笑顔に近いものだった。


 その日、莉子は初めて美緒の前でたくさん泣いた。


 ママに会いたいと言った。


 ママの声を忘れそうで怖いと言った。


 お父さんがひとりで泣いているのを見るのが嫌だと言った。


 美緒さんが来たらママが消える気がしたと言った。


 美緒は、何も否定しなかった。


 ただ聞いた。


 悠真も、途中から泣いていた。


 大人の男の人が、娘の前で声を殺して泣く姿は、痛々しくて、でもどこか必要なものに見えた。


 莉子はその涙を見て、初めて悠真の袖を引いた。


「お父さんも、泣いていいよ」


 悠真は、返事ができなかった。


 ただ、莉子を抱きしめた。


 美緒は二人のそばにいて、何も言わなかった。


 それでいいのだと思った。


 言葉で救えることは少ない。


 でも、隣にいることで、少しだけ崩れずに済む夜がある。


 それから、三人の関係は急には変わらなかった。


 悠真と美緒が恋人に戻ったわけではない。


 莉子がすぐに声を出して笑うようになったわけでもない。


 それでも、少しずつ変わった。


 莉子は日曜日になると、悠真と一緒に店に来るようになった。


 ホットミルクには蜂蜜を二滴。


 フレンチトーストにはシナモンを少し。


 絵本を一冊読んだ後、美緒に学校の話を少しする。


 最初は「体育があった」「給食がカレーだった」くらいだった。


 そのうち、「隣の席の子が消しゴムを貸してくれた」「音楽の時間に歌えなかったけど、口は動かした」と話すようになった。


 ある日、莉子は店の小さな黒板にチョークで絵を描いた。


 マグカップが三つ。


 ひとつは大きく、ひとつは少し小さく、ひとつは真ん中。


「これは?」


 美緒が聞くと、莉子は言った。


「お父さんと、私と、ホットミルクの人」


「私はマグカップなんだ」


「うん」


「かわいいからいいけど」


 莉子は、ふっと笑った。


 今度は、ほんの少しだけ声が漏れた。


 悠真がカウンター席で固まった。


 美緒も固まった。


 莉子本人だけが、自分が笑ったことに気づいていないようだった。


 その夜、悠真は店の閉店後まで残った。


 莉子は実家に泊まりに行っているという。


 美緒と悠真は、カウンターを挟んで向かい合った。


「莉子、笑ったな」


「うん」


「少しだけ」


「うん」


「ありがとう」


「私のおかげじゃないよ」


「でも、この店があったからだ」


 美緒はカップを拭きながら言った。


「この店だけじゃない。悠真が莉子ちゃんのことを諦めなかったからだよ」


 悠真は黙った。


 美緒はカップを棚に戻した。


「彩乃さんの手紙、読んだ」


「ああ」


「すごい人だったね」


「ああ」


「でも、少し安心した」


「安心?」


「ちゃんと嫉妬してくれていたから」


 悠真は目を伏せて、少し笑った。


「彩乃は優しかったけど、聖人じゃない」


「うん」


「たぶん、君に会ったら笑顔で挨拶して、そのあと俺にだけ怒る」


「何て?」


「美緒さん綺麗じゃない、聞いてない、って」


 美緒は思わず笑った。


「それは、嬉しいかも」


「怒られてるのは俺だけど」


「悠真は怒られた方がいい」


「そうだな」


 二人は笑った。


 十年前とは違う笑いだった。


 傷を知らなかった頃の笑いではない。


 失ったものを抱えたまま、それでも少しだけ息をつくような笑いだった。


 悠真はカウンターの上に、例の古い封筒を置いた。


「また持ってきたの?」


「ああ」


「指輪?」


「うん」


 美緒は少し困った顔をした。


「今、渡されたら困る」


「渡さない」


 悠真はそう言って、封筒を見つめた。


「これは、過去のものだから」


「うん」


「でも、捨てるものでもないと思った」


「うん」


「だから、君に預けたい」


 美緒は驚いた。


「私に?」


「この店に置いてほしい。君が嫌なら持ち帰る」


「どうして?」


「俺ひとりで持っていると、後悔だけになる。でも、君のところにあれば、あの頃の俺たちが確かにちゃんと好きだった証拠になる気がする」


 美緒は封筒を見つめた。


 十年前の指輪。


 渡されなかった未来。


 でも、それは失敗の証だけではない。


 不器用でも、確かに愛していた証だ。


「わかった」


 美緒は言った。


「預かる」


 悠真の表情が少し和らいだ。


「ありがとう」


「でも、見えるところには置かない」


「ああ」


「棚の奥にしまう」


「うん」


「たまに、掃除の時に見つけて、ああ、こんな恋もあったなって思うくらいにする」


 悠真は静かに笑った。


「それがいい」


 美緒は封筒を受け取った。


 重さはほとんどない。


 でも、十年分の想いがそこにあった。


 春が深くなり、店の前のミモザは黄色い花を少しずつ落とし始めた。


 莉子は二年生になった。


 悠真は仕事の合間に店へ寄り、コーヒーを飲むようになった。


 美緒と悠真は、時々、閉店後に短い散歩をした。


 手は繋がなかった。


 恋人という言葉も使わなかった。


 でも、歩く速度は自然に合った。


 駅前の道を並んで歩くと、十年前の夜を思い出す。


 あの時は、別れに向かって歩いていた。


 今は、どこへ向かっているのかわからない。


 でも、わからないまま歩くことを、美緒は前ほど怖いと思わなくなっていた。


 ある夜、悠真が言った。


「美緒」


「うん?」


「俺は、君にまた好きだと言いたい」


 美緒は立ち止まった。


 夜風が髪を揺らした。


「でも、今すぐ答えをほしいわけじゃない」


「うん」


「莉子のこともある。彩乃のこともある。君の気持ちもある」


「うん」


「だから、今日は言うだけにする」


 美緒は悠真を見た。


 十年前なら、こんなふうには言えなかっただろう。


 悠真も、美緒も。


 相手を思いやるふりをして、大切な言葉を飲み込んでしまった。


 でも今は違う。


 答えを急がなくても、言葉を渡すことはできる。


「美緒。好きだ」


 その一言は、静かだった。


 けれど、十年前よりずっと逃げ場がなかった。


「……急に言わないで」


「十年待った。急ではないと思う」


 美緒は返す言葉を失った。


 そんな言い方をされたら、心臓がもたない。


「ずるい」


「それは、今日二回目だ」


「何回でも言うよ」


「聞くよ。今度は、ちゃんと」


 美緒は俯いた。


 涙は出なかった。


 不思議と、穏やかだった。


 でも、胸の奥はちゃんと震えていた。


「うん」


 美緒は頷いた。


「聞いた」


 悠真は少し困ったように笑った。


「それだけ?」


「今日は、言うだけなんでしょ」


「ああ」


「じゃあ、私は聞くだけ」


 悠真は、今度こそ声を出して笑った。


 その笑い方があまりにも昔と同じで、美緒は少しだけ泣きそうになった。


 でも泣かなかった。


 数日後の日曜日、莉子が店に来た。


 その日は、学校で作ったという紙の花束を持っていた。黄色い折り紙で作った花だった。


「ミモザ?」


 美緒が聞くと、莉子は頷いた。


「図工で作った」


「上手だね」


「美緒さんにあげる」


「ありがとう。飾っていい?」


「うん」


 美緒はカウンターの小さな瓶に、その紙のミモザを挿した。


 莉子はそれを見て、満足そうに頷いた。


 そして、少し照れたように言った。


「今日、ママの夢見た」


 悠真の表情が変わった。


 美緒は静かに聞いた。


「どんな夢?」


「ママが、髪を結んでくれた」


「うん」


「それで、美緒さんのホットミルク飲みたいって言ってた」


 美緒は思わず笑った。


「ママも?」


「うん。蜂蜜二滴がいいって」


「莉子ちゃんと同じだ」


 莉子は少しだけ笑った。


 今度は、ちゃんと声が出た。


 小さな、小さな笑い声。


 悠真は口元を押さえた。


 美緒も胸がいっぱいになった。


 莉子は不思議そうに二人を見た。


「なに?」


「ううん」


 美緒は首を振った。


「何でもない」


 その日の夕方、店を出る時、莉子が振り返った。


「美緒さん」


「うん?」


「また来週も来ていい?」


「もちろん」


「お父さんも?」


 美緒は悠真を見た。


 悠真は少しだけ緊張した顔をしていた。


 美緒は笑った。


「お父さんも、コーヒー飲みに来るなら」


 莉子は頷いた。


「じゃあ、来る」


 悠真がドアを開ける。


 莉子が先に外へ出る。


 春の夕方の風が、店の中に少し入り込んだ。


 悠真はドアのところで立ち止まった。


「美緒」


「何?」


「また来てもいいかな」


 その言葉は、十年前には聞けなかった言葉だった。


 一緒に来るかでもなく。


 待っていてくれでもなく。


 ただ、また来てもいいか。


 今の二人にちょうどいい言葉だった。


 美緒は、十年前の自分を思い出した。


 言えなかった。


 待ってると言えなかった。


 行かないでとも言えなかった。


 好きだとも言い切れなかった。


 でも今なら、言える。


 過去をやり直すためではなく。


 亡くなった人の場所を奪うためでもなく。


 莉子の母親になるためでもなく。


 ここから始まる何かを、ちゃんと迎えるために。


 美緒は、カウンターの向こうで微笑んだ。


「うん」


 悠真が美緒を見る。


 莉子も外から振り返っている。


 美緒は、十年前には言えなかった言葉を、今度はちゃんと声にした。


「今度は、待ってる」


 悠真は一度だけ目を伏せた。


 それから、十年前にはできなかったみたいに、ちゃんと笑った。


「じゃあ、今度は必ず帰ってくる」


 美緒の胸が、静かに鳴った。


 待つことが、こんなに甘い約束になる日が来るなんて、知らなかった。


 莉子が小さく手を振った。


 ドアベルが鳴り、二人は春の夕暮れの中へ出ていった。


 店には、コーヒーの香りと、蜂蜜の甘い匂いが残った。


 美緒はカウンターの奥にしまった古い封筒を思い出した。


 渡されなかった指輪。


 終わったはずの恋。


 それでも、捨てなくてよかったもの。


 悲しい歌は、まだ完全には終わっていない。


 けれど、美緒は棚からカップを三つ出した。


 ひとつは悠真のコーヒー用。


 ひとつは莉子のホットミルク用。


 もうひとつは、自分のために。


 けれど、少しだけ三人の真ん中に置いた。


 次に歌う歌は、きっとひとりではない。


 そう思いながら、美緒は明日のために、店の明かりをひとつずつ消していった。


― 完 ―

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


この物語は、忘れられない恋をもう一度やり直すだけの話ではなく、

亡くなった人の存在を消さないまま、それでも残された人たちが前へ進んでいく話として書きました。


美緒は莉子の母親になるのではなく、

彩乃の代わりになるのでもなく、

まずは「ホットミルクの人」として、莉子のそばに立つことを選びました。


過去を消さないこと。

でも、過去だけで終わらないこと。


美緒、悠真、莉子、そして彩乃の想いを、

最後まで見届けていただけたなら嬉しいです。


読んでくださって、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ