最終話 新しい歌をうたえるまで
彩乃が残した手紙を読んだ美緒。
莉子の母親にはなれない。
彩乃の代わりにもなれない。
それでも、莉子が泣いてもいい場所になることはできるかもしれない。
過去を消さずに、亡くなった人の場所を奪わずに、
美緒、悠真、莉子が選ぶ答えとは――。
最終話です。
「いなくならないって、簡単には言えない」
美緒がそう言うと、莉子の顔がくしゃりと歪んだ。
悠真も息を呑んだ。
けれど、美緒は続けた。
「人は、ずっと同じ場所にいられるとは限らないから。約束しても、守れないことがあるから」
莉子の涙が、頬を伝った。
「じゃあ、やっぱり……」
「でも」
美緒は、莉子の小さな手にそっと自分の手を添えた。
「勝手にいなくなったりはしない」
莉子が顔を上げる。
「ちゃんと話す。ちゃんと会う。莉子ちゃんが嫌じゃなければ、ここに来た時はホットミルクを作る。泣きたい時は、泣いていい」
「ママじゃなくても?」
「ママじゃなくても」
「ママの代わりじゃなくても?」
「代わりじゃなくても」
莉子は、しばらく美緒を見つめていた。
そして、声を震わせた。
「じゃあ、美緒さんはなに?」
美緒は少しだけ笑った。
「今は、ホットミルクの人」
莉子は涙を浮かべたまま、きょとんとした。
悠真が、ほんの少しだけ笑った。
「ホットミルクの人?」
「うん。そこからでいいと思う」
莉子は泣きながら、少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
声は出なかった。
でも、それは確かに、笑顔に近いものだった。
その日、莉子は初めて美緒の前でたくさん泣いた。
ママに会いたいと言った。
ママの声を忘れそうで怖いと言った。
お父さんがひとりで泣いているのを見るのが嫌だと言った。
美緒さんが来たらママが消える気がしたと言った。
美緒は、何も否定しなかった。
ただ聞いた。
悠真も、途中から泣いていた。
大人の男の人が、娘の前で声を殺して泣く姿は、痛々しくて、でもどこか必要なものに見えた。
莉子はその涙を見て、初めて悠真の袖を引いた。
「お父さんも、泣いていいよ」
悠真は、返事ができなかった。
ただ、莉子を抱きしめた。
美緒は二人のそばにいて、何も言わなかった。
それでいいのだと思った。
言葉で救えることは少ない。
でも、隣にいることで、少しだけ崩れずに済む夜がある。
それから、三人の関係は急には変わらなかった。
悠真と美緒が恋人に戻ったわけではない。
莉子がすぐに声を出して笑うようになったわけでもない。
それでも、少しずつ変わった。
莉子は日曜日になると、悠真と一緒に店に来るようになった。
ホットミルクには蜂蜜を二滴。
フレンチトーストにはシナモンを少し。
絵本を一冊読んだ後、美緒に学校の話を少しする。
最初は「体育があった」「給食がカレーだった」くらいだった。
そのうち、「隣の席の子が消しゴムを貸してくれた」「音楽の時間に歌えなかったけど、口は動かした」と話すようになった。
ある日、莉子は店の小さな黒板にチョークで絵を描いた。
マグカップが三つ。
ひとつは大きく、ひとつは少し小さく、ひとつは真ん中。
「これは?」
美緒が聞くと、莉子は言った。
「お父さんと、私と、ホットミルクの人」
「私はマグカップなんだ」
「うん」
「かわいいからいいけど」
莉子は、ふっと笑った。
今度は、ほんの少しだけ声が漏れた。
悠真がカウンター席で固まった。
美緒も固まった。
莉子本人だけが、自分が笑ったことに気づいていないようだった。
その夜、悠真は店の閉店後まで残った。
莉子は実家に泊まりに行っているという。
美緒と悠真は、カウンターを挟んで向かい合った。
「莉子、笑ったな」
「うん」
「少しだけ」
「うん」
「ありがとう」
「私のおかげじゃないよ」
「でも、この店があったからだ」
美緒はカップを拭きながら言った。
「この店だけじゃない。悠真が莉子ちゃんのことを諦めなかったからだよ」
悠真は黙った。
美緒はカップを棚に戻した。
「彩乃さんの手紙、読んだ」
「ああ」
「すごい人だったね」
「ああ」
「でも、少し安心した」
「安心?」
「ちゃんと嫉妬してくれていたから」
悠真は目を伏せて、少し笑った。
「彩乃は優しかったけど、聖人じゃない」
「うん」
「たぶん、君に会ったら笑顔で挨拶して、そのあと俺にだけ怒る」
「何て?」
「美緒さん綺麗じゃない、聞いてない、って」
美緒は思わず笑った。
「それは、嬉しいかも」
「怒られてるのは俺だけど」
「悠真は怒られた方がいい」
「そうだな」
二人は笑った。
十年前とは違う笑いだった。
傷を知らなかった頃の笑いではない。
失ったものを抱えたまま、それでも少しだけ息をつくような笑いだった。
悠真はカウンターの上に、例の古い封筒を置いた。
「また持ってきたの?」
「ああ」
「指輪?」
「うん」
美緒は少し困った顔をした。
「今、渡されたら困る」
「渡さない」
悠真はそう言って、封筒を見つめた。
「これは、過去のものだから」
「うん」
「でも、捨てるものでもないと思った」
「うん」
「だから、君に預けたい」
美緒は驚いた。
「私に?」
「この店に置いてほしい。君が嫌なら持ち帰る」
「どうして?」
「俺ひとりで持っていると、後悔だけになる。でも、君のところにあれば、あの頃の俺たちが確かにちゃんと好きだった証拠になる気がする」
美緒は封筒を見つめた。
十年前の指輪。
渡されなかった未来。
でも、それは失敗の証だけではない。
不器用でも、確かに愛していた証だ。
「わかった」
美緒は言った。
「預かる」
悠真の表情が少し和らいだ。
「ありがとう」
「でも、見えるところには置かない」
「ああ」
「棚の奥にしまう」
「うん」
「たまに、掃除の時に見つけて、ああ、こんな恋もあったなって思うくらいにする」
悠真は静かに笑った。
「それがいい」
美緒は封筒を受け取った。
重さはほとんどない。
でも、十年分の想いがそこにあった。
春が深くなり、店の前のミモザは黄色い花を少しずつ落とし始めた。
莉子は二年生になった。
悠真は仕事の合間に店へ寄り、コーヒーを飲むようになった。
美緒と悠真は、時々、閉店後に短い散歩をした。
手は繋がなかった。
恋人という言葉も使わなかった。
でも、歩く速度は自然に合った。
駅前の道を並んで歩くと、十年前の夜を思い出す。
あの時は、別れに向かって歩いていた。
今は、どこへ向かっているのかわからない。
でも、わからないまま歩くことを、美緒は前ほど怖いと思わなくなっていた。
ある夜、悠真が言った。
「美緒」
「うん?」
「俺は、君にまた好きだと言いたい」
美緒は立ち止まった。
夜風が髪を揺らした。
「でも、今すぐ答えをほしいわけじゃない」
「うん」
「莉子のこともある。彩乃のこともある。君の気持ちもある」
「うん」
「だから、今日は言うだけにする」
美緒は悠真を見た。
十年前なら、こんなふうには言えなかっただろう。
悠真も、美緒も。
相手を思いやるふりをして、大切な言葉を飲み込んでしまった。
でも今は違う。
答えを急がなくても、言葉を渡すことはできる。
「美緒。好きだ」
その一言は、静かだった。
けれど、十年前よりずっと逃げ場がなかった。
「……急に言わないで」
「十年待った。急ではないと思う」
美緒は返す言葉を失った。
そんな言い方をされたら、心臓がもたない。
「ずるい」
「それは、今日二回目だ」
「何回でも言うよ」
「聞くよ。今度は、ちゃんと」
美緒は俯いた。
涙は出なかった。
不思議と、穏やかだった。
でも、胸の奥はちゃんと震えていた。
「うん」
美緒は頷いた。
「聞いた」
悠真は少し困ったように笑った。
「それだけ?」
「今日は、言うだけなんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、私は聞くだけ」
悠真は、今度こそ声を出して笑った。
その笑い方があまりにも昔と同じで、美緒は少しだけ泣きそうになった。
でも泣かなかった。
数日後の日曜日、莉子が店に来た。
その日は、学校で作ったという紙の花束を持っていた。黄色い折り紙で作った花だった。
「ミモザ?」
美緒が聞くと、莉子は頷いた。
「図工で作った」
「上手だね」
「美緒さんにあげる」
「ありがとう。飾っていい?」
「うん」
美緒はカウンターの小さな瓶に、その紙のミモザを挿した。
莉子はそれを見て、満足そうに頷いた。
そして、少し照れたように言った。
「今日、ママの夢見た」
悠真の表情が変わった。
美緒は静かに聞いた。
「どんな夢?」
「ママが、髪を結んでくれた」
「うん」
「それで、美緒さんのホットミルク飲みたいって言ってた」
美緒は思わず笑った。
「ママも?」
「うん。蜂蜜二滴がいいって」
「莉子ちゃんと同じだ」
莉子は少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと声が出た。
小さな、小さな笑い声。
悠真は口元を押さえた。
美緒も胸がいっぱいになった。
莉子は不思議そうに二人を見た。
「なに?」
「ううん」
美緒は首を振った。
「何でもない」
その日の夕方、店を出る時、莉子が振り返った。
「美緒さん」
「うん?」
「また来週も来ていい?」
「もちろん」
「お父さんも?」
美緒は悠真を見た。
悠真は少しだけ緊張した顔をしていた。
美緒は笑った。
「お父さんも、コーヒー飲みに来るなら」
莉子は頷いた。
「じゃあ、来る」
悠真がドアを開ける。
莉子が先に外へ出る。
春の夕方の風が、店の中に少し入り込んだ。
悠真はドアのところで立ち止まった。
「美緒」
「何?」
「また来てもいいかな」
その言葉は、十年前には聞けなかった言葉だった。
一緒に来るかでもなく。
待っていてくれでもなく。
ただ、また来てもいいか。
今の二人にちょうどいい言葉だった。
美緒は、十年前の自分を思い出した。
言えなかった。
待ってると言えなかった。
行かないでとも言えなかった。
好きだとも言い切れなかった。
でも今なら、言える。
過去をやり直すためではなく。
亡くなった人の場所を奪うためでもなく。
莉子の母親になるためでもなく。
ここから始まる何かを、ちゃんと迎えるために。
美緒は、カウンターの向こうで微笑んだ。
「うん」
悠真が美緒を見る。
莉子も外から振り返っている。
美緒は、十年前には言えなかった言葉を、今度はちゃんと声にした。
「今度は、待ってる」
悠真は一度だけ目を伏せた。
それから、十年前にはできなかったみたいに、ちゃんと笑った。
「じゃあ、今度は必ず帰ってくる」
美緒の胸が、静かに鳴った。
待つことが、こんなに甘い約束になる日が来るなんて、知らなかった。
莉子が小さく手を振った。
ドアベルが鳴り、二人は春の夕暮れの中へ出ていった。
店には、コーヒーの香りと、蜂蜜の甘い匂いが残った。
美緒はカウンターの奥にしまった古い封筒を思い出した。
渡されなかった指輪。
終わったはずの恋。
それでも、捨てなくてよかったもの。
悲しい歌は、まだ完全には終わっていない。
けれど、美緒は棚からカップを三つ出した。
ひとつは悠真のコーヒー用。
ひとつは莉子のホットミルク用。
もうひとつは、自分のために。
けれど、少しだけ三人の真ん中に置いた。
次に歌う歌は、きっとひとりではない。
そう思いながら、美緒は明日のために、店の明かりをひとつずつ消していった。
― 完 ―
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語は、忘れられない恋をもう一度やり直すだけの話ではなく、
亡くなった人の存在を消さないまま、それでも残された人たちが前へ進んでいく話として書きました。
美緒は莉子の母親になるのではなく、
彩乃の代わりになるのでもなく、
まずは「ホットミルクの人」として、莉子のそばに立つことを選びました。
過去を消さないこと。
でも、過去だけで終わらないこと。
美緒、悠真、莉子、そして彩乃の想いを、
最後まで見届けていただけたなら嬉しいです。
読んでくださって、本当にありがとうございました。




