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未来への片道切符  作者: 都桜ゆう


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後編

「あなたは今、悪いことが重なりすぎて、この世界から消えてしまいたいと思っていますよね?」


 女性の静かな問いが、ナイフのように胸の隙間に滑り込んだ。


「けれど、死ぬ勇気さえ持てず、最後の最後で踏みとどまってしまう自分を、中途半端で臆病な人間だと、誰よりも激しく責めている」


「っ!」


 肺からすべての空気が引き抜かれたような感覚。

 誰にも言えず、深夜の自室で一人、呪いのように繰り返してきた自己嫌悪の核。それを、彼女はいとも容易く、最も柔らかな部分を撫でるような慈しみを持って言い当てた。


「……やめて。あなたに、何がわかるの」


 絞り出した声は震えていた。見透かされることへの恐怖と、図星を指された屈辱が混ざり合う。だが、女性は揺るがなかった。


「わかりますよ。それが『私』の記憶なのですから。ですがアカリ、それは臆病なのではなく、あなたが持つ強烈な『生命力』の証なんです。まだ心の底に、未来への小さな期待と希望が火種として残っているからこそ、最後の一線を超えられない。あなたは本当は、まだこの世界に存在したがっている」


「そんな、こと……。私には、何もない。毎日、ただ息をしているだけで精一杯で……。誰にも必要とされないまま、このまま暗闇に溶けて消えるのを待つだけの人間なのに……っ」


 堰を切ったように言葉が零れ、視界が熱い膜で歪んだ。


「今のあなたには自分が見えていない。

 それは、あなたの価値が消えたからではなく、深い絶望という霧の中にいるからです。

 でもね、アカリ。この駅は、本当にすべてを諦めた人の前には現れません。もしあなたが完全に自分を捨てていたら、電車はこの駅を音もなく通り過ぎるだけだったはず。ここに停車したという事実が、あなたの『生きたい』という本能を証明しているんです」


「私みたいなダメ人間、いても……」


「ダメなんかじゃない。ボロボロになりながらも、今日まで生きることを選び続けてきた。その歩みを、私は誰よりも知っています。それは、何よりも立派な勇気です」


 女性の言葉は、冷え切った心に、ゆっくりと、けれど確かな温度を伴って浸透していった。

 彼女は私の背後にある改札を指さした。

 古びた木製のフレームが置かれているだけの、境界線と呼ぶにはあまりに頼りない仕切り。だが、その向こう側には、この草原のどこにもない密度が漂っていた。


「改札の先、見えますか?」


 言われるままに、涙に濡れた目を細めて凝視した。

 一瞬、空気が陽炎のように激しく揺らめき、その先に、ヒトの形をした淡い影が立ち上がった。

 輪郭はまだ朧気で、実体はない。けれど、そこから溢れ出すオレンジや黄金色の柔らかな光は、凍えていた肌を直接温めるような、不思議な実感を伴っていた。


 強い光ではない。けれど、闇を恐れる必要がないと思わせるほどの、圧倒的な優しさと静かな強さがそこにはあった。


「あれは……?」


「あれは、あなたがこの先出会う、あなたという存在を心の底から肯定してくれる最初の人。彼は、今のあなたが失ってしまった自信の欠片を、一つずつ拾い集めてくれるでしょう」


 女性の声が、遠い記憶を慈しむように甘やかに響く。


「彼の隣で、あなたは自分自身の足で立つことを学びます。ときには厳しく向き合わされ、逃げたくなることもあるかもしれない。彼はあなたをただ甘やかすだけの存在ではありませんから。けれど、その苦しみの先にしか、本当の救いはないことも、彼は教えてくれるはずです」


 彼女は、遠い地平線を見つめ、心から愛おしそうに目を細めた。その顔には、今の自分を支配している卑屈さなど微塵もなく、眩しいほどの生命力が漲っている。


「でもね、約束します。今の私みたいに、心から笑える日が必ず来る。自分を愛し、存在を肯定できる未来……。それは、今のあなたが想像するよりもずっと、鮮やかで、満たされた時間ですよ」


 不意に、彼女は鋭い視線を向けてきた。その瞳には、慈愛と、そして逃げ場を許さない真剣さが宿っている。


「さあ、どうしますか。アカリ。この駅は、永久に停車していられる場所。ここから一歩も動かず、心が完全に癒えるまで、永遠の安らぎの中に留まることもできます」


「……ここに、ずっと?」


「ええ。ただし、それは現実の世界からあなたの存在が永遠に消えることを意味します。

 もし、あの光の予感を信じたいと思うなら、元の世界へ戻る道も残されている。あなたの心の片隅に、まだ自分を諦めきれない『生きたい』という願いが残っているなら……」


 激しい葛藤にみまわれた。消えてしまいたいという重たい(おり)は、依然として胸の底に居座っている。けれど、目の前の輝く女性が、どうしてこれほどまで誇らしげに笑えるのか――。その理由を知りたいという欲求が、澱の隙間から芽を出していた。


 あの改札の先にいた、陽炎のような温かい光。彼に、会ってみたい。

 けれど、同時に恐ろしかった。

 もしこれが、死の間際に脳が見せているただの甘い幻覚だとしたら。

 信じきった後に、やっぱり全部嘘でしたと突き落とされるのが、何よりも怖かった。

 震える視線を上げ、縋るような、あるいは挑むような思いで彼女を見つめ返した。


「……あなたが本当に私だという、証拠はありますか? これが、壊れかけた私の脳が見せている都合のいい夢じゃないって、言い切れる確証が」


「ええ、もちろん」


 彼女は、慈しむような微笑を絶やさぬまま、静かに、けれど決定的な言葉を紡いだ。


「出生体重は三一〇五グラム。初恋は、幼稚園の時、いつも砂場で遊んでくれたユウトくん。そして――」


 彼女は自分の右太ももを、服の上から優しくなぞった。


「小学四年生の夏休み。坂道で自転車のブレーキが効かなくなって転んだときにできた、歪なU字型の傷跡。もう自分でも忘れてしまうくらい薄くなっているけれど、今もここにあります。……痛みも、記憶も、すべて私の中に残っていますよ」


 息をすることさえ忘れて目を見開いた。

 誰にも話したことのない、あまりに個人的な事実。特に右太ももの古い傷跡の由来は、自身の記憶の隅に追いやられていたものだった。


(ああ、本物だ……。この人は、私の痛みを全部知っている)


 信じてみたい。たとえこれが一瞬の幻覚だとしても、もし、自分の絶望の先にこんな未来が繋がっている可能性があるのなら。


「……戻りたい、です。元の場所に」


 思った以上に震える声だった。だが、その声はとても大きかった。

 頬を、熱い一筋の涙が伝い、砂利へと落ちる。


「うん。それがいい。今のあなたには、きっと彼の存在が必要になる。

 彼はね、あなたが『呪い』だと思っているこの世界の中に、たくさんの光が有ると知っている人だから」


 未来の自分は、私の冷え切った右手を、両手でそっと包み込んだ。氷のように凍てついていた指先に、驚くほどの熱が流れ込んでくる。

 それは、ただの体温ではない。数え切れない夜を乗り越え、明日を選び続けてきた人間だけが持つ、力強い生命の鼓動そのものだった。


「今すぐは無理でも、なるべく背筋を伸ばして周りを見てみてください。彼も、あなたと同じ痛みを抱えながら、あなたという光を探しているはず。あなたの直感を信じて。この人だと思える出会いがあったら、勇気を出して、言葉を交わしてみてくださいね」


「はい……。ありがとうございます」


「さあ、戻りましょう。この電車が、あなたをあるべき場所へ送り届けてくれます」


 いつの間にか、ホームには音もなく一両の客車が滑り込んでいた。先ほどまでの無機質で冷たい車両ではない。レトロな木枠の窓からは琥珀色の柔らかな灯りが漏れ、凍えた心を包み込むような温もりに満ちている。


 一歩、また一歩と社内に向けてすすむうちに、しだいに足取りが軽くなるのを感じた。デッキに立ち、ホームで見送る未来の自分へと深く頭を下げる。


「ありがとうございます。私……行ってきます」


 私であるはずの彼女は、慈しみと誇らしさが混ざり合った表情で、ゆっくりと手を振ってくれた。その姿が黄金色の光に溶けていくのと同時に抗いがたい安らかな眠気に包まれた。ここに来た時に感じていたような絶望的な眠気とは違う、守られているような、深く優しい闇だった。




 ――ガタン、と規則正しい振動が体に伝わり、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 顔を上げると、窓の外には見慣れた都市の夜景が流れていた。ネオンの光、ビルの群れ。向かいの座席には、くたびれたスーツ姿の会社員や、スマホを見つめる学生たちが、先ほどまでと変わらぬ様子で座っている。

 スマホを確認すると、アンテナは力強く立ち、時刻は最寄り駅に到着する数分前を指していた。


「……あ」


 すべては一瞬の白昼夢だったのかもしれない。だが、膝の上に乗せた右手には、あの時包み込まれた熱が、消えない火種のように居座っている。

 小さく息を吐き、少しだけ背筋を伸ばした。

 窓ガラスに映る自分の顔は、相変わらず疲れの色が濃い。けれど、その瞳の奥には、さっきまでなかった微かな光が宿っているように見えた。




 あれから、取り憑かれたようにあの不思議な駅の正体を探した。だが、どの路線図にも、どの怪談のアーカイブにも、あの夕闇の草原は存在しなかった。けれど、その孤独な探索の果てに、一人の男性と巡り合った。

 きっかけは、ある閉鎖的なコミュニティで見つけた小さな書き込みだった。


『……あの場所は、きっと終わりの場所ではなく、始まりの駅だったのだと思う』


 その一行を目にした瞬間、指先にあの日受け取った熱が蘇った。

 会わなければならない。根拠のない、けれど不可避な本能に突き動かされ、彼に連絡を取った。

 返信を待つ数日間、スマートフォンの通知が鳴るたびに心臓が跳ねた。


 見ず知らずの他人に、あの一夜の出来事を打ち明ける恐怖。拒絶されたら、あるいはただの偶然だと笑い飛ばされたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。それでも、右手に残るあの微かな熱が、背中を押し続けた。


 幾度かのやり取りを経て、ようやく約束を取り付けた当日。ひどく緊張した面持ちで、指定されたカフェの重い扉を押し開けた。

 店内の喧騒をかき分けるようにして進んだ、窓際の隅。そこで一人、外の景色を眺めていた男性が、こちらの気配に気づいて顔を上げた。


「はじめまして。アカリさん、ですよね?」


 立ち上がった彼は、どこか不器用だが、温かみのある柔らかな笑みを浮かべた。


「……はい。アカリです。急に連絡して、すみませんでした」


 向かい合わせに座っても、指先は震えていた。何をどこから話せばいいのか。混乱する私を急かすことなく、彼は自分の前に置かれたコーヒーカップをそっと見つめて、静かに口を開いた。


「……あの書き込みを見てくれたんですね。僕も、あの駅のことを話せる相手を、ずっと探していたんです。夕闇に包まれた、誰もいない草原の駅を」


 その彼の言葉に、弾かれたように顔を上げた。そこから彼は、堰を切ったように話し始めた。

 滑り落ちるような電車の減速、文字が剥げ落ちて判別できない三文字の駅名標、そして、抗いようのないほど深く沈み続ける眠気――。それらはすべて、自分だけの秘密として心に秘めていた光景と、恐ろしいほど精緻に一致していた。


「……私だけじゃ、なかったんだ」


 独り言のように呟いた言葉が、熱い吐息となって零れた。

 これまで誰にも、親にも親友にさえも話せなかったあの夜の出来事を、少しずつさらけ出した。

 自分がどれほど無価値に思えたか。死ぬ勇気さえない自分を、どれほど汚いもののように蔑んできたか。


 話し終える頃には、指先が白くなるほど膝の上の拳を握りしめていた。だが、彼は決して否定せず、蔑まず、ただ同じ痛みをなぞるように深く頷いた。


「……わかります。僕も、あの駅のベンチで、自分の消えたいという願いが叶わなかったことを、情けなくて、惨めだと思っていました」


 彼がぽつりと漏らしたその告白は、胸の最も深い場所にすとんと落ちた。

 彼もまた、同じ暗闇を這いずり、あの場所に辿り着いたのだ。その事実が、縛り続けていた見えない鎖を解いていくようだった。

 視界がじわりと滲み、気が付くと胸元をぎゅっと押さえていた。


「……今のあなたの話を聞いていると、ずっと自分の中にあった冷たい塊が、少しずつ解けていくような気がするんです」


 震える声で伝えると、彼はその真っ直ぐな瞳でじっと見つめてきた。


「僕もです。自分だけが世界の歯車から外れてしまったような、真っ暗な孤独の中にいました。でも、同じ場所で、同じ絶望を抱えていたあなたにこうして会えて……。

 ようやく、あの駅に降りたことは、僕たちの敗北じゃなかったと思える」


 彼は一度言葉を切ると、私を救い上げるように言った。


「アカリさん。あなたは今のままでも、今日まで十分に戦ってきましたよ。あの駅に止まることができたのは、あなたがまだ、生きることを諦めていなかった証拠なんですから」


 甘やかすような言葉ではない。それは、同じ地獄を見てきた者だけが贈れる、静かで重い肯定だった。


(ああ、この人だ……。あの時、改札の向こうにいた、あの光だ)


 彼と話していると、自分のダメな部分を隠さなくていいのだという安心感と同時に、この人の隣に胸を張って立てる自分になりたいという、小さな、けれど確かな意志が胸に灯った。

 気づけば、窓の外の景色は琥珀色から深い夜へと移り変わっていた。


「……そろそろ、行きましょうか」


 彼の言葉に頷き、二人で店を出た。

 表に出ると、夜の街には冷たい風が吹き抜けていた。けれど、首をすくめて俯く自分はもういない。隣を歩く彼の気配を感じながら、夜景の中に点在する街灯の光を、真っ直ぐに見つめていた。

 駅へ向かう交差点、信号が赤に変わる。ここが、今日の終着点だ。


(今、言わなければ。この時を逃したら、また一人に戻ってしまうかもしれない)


 肺いっぱいに冷たい空気を吸い込み、隣に立つ彼を振り返った。


「あの、もしよければ、また……。次も、お会いできませんか?」


 震えを抑えて放ったその言葉は、あの日、絶望の淵で消え入りそうだった自分の声とは、まるで見違えるほど凛として夜の静寂(しじま)に響いた。

 彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて、春の日差しのような笑みを浮かべて深く頷いた。


「ええ。ぜひ、また会いましょう。……次は、もっと明るい場所で」


 青に変わった信号が、二人を前へと促す。

 未来の自分が言った通り、世界はまだ、理不尽な呪いに満ちているかもしれない。けれど、冷えた右手に宿るあの日の熱と、今、目の前で隣を歩く彼の確かな体温があれば、もう暗闇を恐れることはない。

 夜空を仰ぎ、深く、静かな呼吸をした。暗い夜の底から光を見つけ出すための熱が、消えない灯火(ともしび)としてここに宿っている。






「また調べてるの? アカリ、早くしないと予約の時間に遅れるよ」


 玄関から、低くも柔らかな声が響いた。


 タブレットの画面に映る、オカルトサイトの「異界の駅」という見出しを閉じ、ふっと微笑んだ。

 あの日、冷たいカフェで出会った彼は、一年以上経った今も、変わらずそばにいてくれている。

 出会った当初、過去の傷を思い出しては泣いてばかりいた私を、彼はただ慰めることはしなかった。


『泣いてもいいけれど、その後にどうするかは自分で決めなさい』


 そう言って、ときには厳しく向き合い、ときには小さな勇気を誰よりも褒めて、彼は粘り強く支え続けてくれた。背中を丸めて消えそうだった自分が、今、こうして真っ直ぐに前を向いて笑えている。それは彼が、私の中に眠っていた生きるための筋肉を、根気よく呼び覚ましてくれたからだ。


 そんな彼との日々を噛みしめるように、そっと胸元に手を当てた。あの日、彼に会うと決めた選択が、今のこの穏やかな時間を連れてきてくれたのだ。


「……アカリ? 聞こえてる?」


「あ、ごめん! 今行くよ。ちょっと、懐かしい書き込みを見つけただけだから」


 現実に引き戻され、慌てて立ち上がった。

 鏡の前で髪を整え、あの時よりもずっと晴れやかな瞳の自分を確認する。その鏡越しに、ふと、あの時間の狭間に立っていた、凛としたスーツ姿の女性を思い出した。



 

(もしいつか、あの境界の駅で、誰かを導く立場になったとしたら――)


 今なら、あの時の彼女と同じように、迷い込んだ誰かの手を握り、前に進む熱を分けてあげられるだろう。

 私を「ダメじゃない」と認め、成長へと導いてくれるかけがえのない彼と、歩むこの日々の積み重ねが、あの輝く未来へと繋がっているのだと、今なら確信できる。


 最後にもう一度、鏡の中の自分に頷いた。バッグを掴み、廊下を渡る。その足取りは、あの日、駅のホームで震えていた頃とは別人のように力強く、迷いがない。

 玄関で靴を履き、少しだけ焦れた様子で扉に手をかけている彼の背中を見つめる。その背中に向けて、ありったけの愛しさを込めて声をかけた。


「お待たせ。……いこうか」


 振り返った彼が、眩しそうに目を細めて笑う。

 玄関で待つ彼の隣に並び、しっかりと一歩を踏み出した。

 開け放たれた扉の先には、どこまでも続く、眩しいほどの日光が溢れていた。


(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).



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