前編
(なんかもう、色々疲れちゃった。どこかに行っちゃいたいなぁ……)
会社からの帰宅中、いつもの見慣れた電車の座席に深く身を沈めながら、そんなことを考えていた。
窓の外には、すでに重たい夜の闇が広がっている。
夜の車窓に映り込む自分の顔は、酷く疲れ果て、まるで自分ではない誰か別の、不幸な人間の顔を見ているようだった。流れる灯りをただぼんやりと見つめる瞳には、何の色彩も宿っていない。まるで自分ではない誰か別の、不幸な人間の顔を見ているようだった。
最近、嫌なことが雪だるま式に重なっていた。
仕事での些細なミス。それ自体は誰にでもあることだったはずなのに、上司から向けられた氷のように冷たい視線が、毒のようにじわじわと心を侵食していった。
その日を境に、職場の空気は目に見えて一変した。まるで自分一人だけが透明な壁で隔てられ、酸素の薄い場所に追いやられたような、ひりつくような疎外感。
休憩中、ふと耳に届く同僚たちの笑い声や囁き。内容は判然としなくても、自分の欠点や失敗を嘲笑っているのだと、心が勝手に最悪の物語を編み上げてしまう。「そんなはずはない」と否定したいのに、もう、その気力さえ残っておらず、ただ「きっとその通りなんだろう」と自分をさらに追い詰める悪循環。
一度その沼に足を踏み入れると、出口は見えなくなり、周囲のすべてが自分を拒絶する攻撃に見えてくる。思考は沈み込むほどにさらなるミスを誘発し、悪くとらえればすべてが悪く回り始める。そうして心は蝕まれ、いつしか「消えてしまいたい」という逃げ場のない思いに縛られていった。
(まぁ、消えるなんてできる根性もないんだけど……。ホント、自分が嫌になる)
喉の奥から、行き場のない熱を含んだため息が漏れた。
いっそ絶望の底まで落ちきってしまえば楽になれるのかもしれない。けれど、そんな勇気すら持ち合わせていない。かといって、顔を上げて前へ踏み出す力も残っていない。どちらにも振り切れない、ぬかるみのような中途半端さと臆病さに、吐き気がするほど嫌気がさした。
電車の窓に、隣の車両で談笑する同年代のグループが映る。彼らは眩しいほど明るく、明日への不安など微塵もなさそうに人生を謳歌しているように見えた。
世界という巨大な歯車が、自分以外のすべての人を乗せて滑らかに、テキパキと回っている。その巨大な循環から一人だけ弾き飛ばされ、ただ汚れた泥の中で足踏みしている自分の存在が、あまりに滑稽で、虚しかった。
きっと、明日も、その次の日も、私はこの重い鉛のような心を抱えたまま、一日の時間をただ無益に浪費し、削り取られていくだけなのだ。
出口のない未来を予感した瞬間、脳の奥が痺れるような、抗いがたい強烈な眠気が襲った。糸が切れたように体から力が抜け、座席に体が深く沈み込んでいく。冷たいシートの感触さえ遠のき、いつもの帰路はやけに長く、そして、底の知れない重さを伴って闇へと引きずり込んでいった。
ガタン、ゴトン。
遠ざかるレールの音だけが、子守歌のように鼓膜の奥で反復される。意識の輪郭が溶け、自分という存在が暗い水底へ沈んでいく。
そのまま、永遠に沈み続けていたいと願った。
――不意に、胃のあたりを突き上げるような激しい衝撃が走った。電車が大きく揺れ、その振動でハッと目を覚ました。心臓がドクドクと不快な早鐘を打っている。
頭の中に濃い霞がかかったようにぼんやりとして、いつまで、どれほどの深さまで眠っていたのかが分からない。
「あれ……?」
慌てて身を起こし、周囲を見渡した。同じ車両にいたはずの乗客は、一人残らず消えていた。いつもは騒がしい通勤電車だが、今はまるで時が止まったかのように静まり返っている。呼吸音だけが、耳障りなほど大きく響いた。
「寝てた? てか、ここどこ……?」
焦燥感に突き動かされ、窓の外へと視線を投げた。乗り過ごしたのだとしても、次の停車駅の灯りが見えるはずだ。だが、窓の向こうに広がっていたのは、理解を絶する光景だった。
街の灯りも、並走する道路も、乱立するビル群も、知っている現実の欠片は、どこにもなかった。そこにあったのは、遮るもののない広大な草原。風にそよぐ緑の海が、地平線の彼方まで起伏なく続いている。
何より言葉を失わせたのは、空の色だった。燃えるような、けれどどこか冷ややかなオレンジ色。それが天頂に向かうにつれ、毒々しくも美しい深い紫色へと溶け込んでいく。現実世界の夕暮れとは明らかに違う、濃厚なグラデーション。
太陽が沈もうとしているのか、それとも昇ろうとしているのかさえ分からない。あまりに鮮やかで、あまりにしんと静まり返ったその景色は、この世のものとは思えないほど幻想的で、同時に、背筋が凍りつくほどに異質だった。
私の使う路線に、こんな場所は存在しない。脳が疲労で幻覚を見ているのかと思い、強く目をこすってみたが、瞼の裏を焼くような極彩色の景色は一向に変わらない。
ここがどこかは分からない。けれど、このまま車内に取り残される恐怖に耐えきれず、弾かれたように席を立った。反対方向の電車に乗れば、きっと元の場所へ戻れるはずだ――。そう自分に言い聞かせる声が、震えていた。
「プシュー」と、重苦しい音を立てて扉が開く。
一歩、ホームへ踏み出した。
そこは屋根すらない、剥き出しの小さな無人駅だった。足裏に伝わるのは、不揃いな枕木と砂利の、どこか心許ない感触。驚いたことに、向かい側には線路もホームも存在しなかった。ただ一本の鉄路が、夕闇の草原を切り裂いて果てしなく伸びているだけの単線だった。
風は生暖かく、粘りつくような湿り気を帯びている。どこか遠くで牧草が揺れるザワザワという音だけが、耳鳴りのように響いた。
駅舎と呼べる建物はなく、そこには、今にも朽ち果てそうな古びたベンチがポツンと一つ、遺棄されたように置かれているだけだ。傍らに立つ木製の駅名標は、過酷な歳月に晒されたのか、表面の塗料が残酷なまでに剥げ落ちていた。それが漢字なのか平仮名なのかさえ判別できない。ただ、掠れた痕跡から、かろうじて三文字の何かが並んでいたことだけが、虚しく推測できる程度だった。
現在地すら分からない。反対方向へ戻る術もない。あまりの救いのなさに立ち尽くし、縋るような思いで今降りたばかりの車両を振り返ると、息が止まるほど愕然とした。
そこにあるはずの電車が、影も形もなく、消えていた。
発車のベルも、重厚な機械音も、立ち去る汽笛もなかった。まばたきをした一瞬の隙に、世界からその存在だけが切り取られたような不自然な喪失。音もなく、気配もなく、ただ「初めからそこには何もなかった」とでも言うような、不気味な消滅だった。
(一体、何が起きてるの……? 夢? にしては、風も、匂いも、リアルすぎる……)
帰り方もわからず、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
ホームの端から視線を巡らせても、見える範囲に店も民家もない。周囲はただ果てのない荒野で、どこまで行けば人に会えるのか、道を尋ねる術さえ見当たらなかった。
震える手でポケットから携帯を取り出し、縋るように画面を点灯させた。だが、上隅に表示されていたのは圏外の無慈悲な二文字。位置情報アプリを開こうとしても、地図は読み込み中のまま虚しく回転し続け、居場所さえ示してはくれない。せめて、元の世界からどれほどの時間が経ったのかを知りたくて時計に目を落としたが、更なる戦慄に襲われた。時計の針は、都心の駅で電車に乗り込んだあの時刻を指したまま、凍りついたように固まっていた。
場所も、時間も、道標さえも。
自分の存在を現実へと繋ぎ止めていたすべての糸が、ぷつりと切れてしまったような感覚。自分が誰で、どこにいて、いつへ帰ればいいのかさえ分からなくなる。心細さと、出口のない絶望感。
ギリギリと締め付けられる胸の痛みに耐えかね、その場に力なく崩れ落ちそうになった。
「大丈夫ですか?」
静寂を裂くような、凛とした声だった。
心臓が跳ね、指先が震えて危うく携帯を線路へ落としそうになる。弾かれたように振り返るが、その拍子に、背中の中心が嫌な汗で冷たく濡れるのを感じた。
先ほどまで、駅のホームには誰もいなかった。見渡す限りの荒野にも人影などなかったはずだ。砂利を踏む音さえさせず、いつから、いったいどこから現れたのか。
そこに立っていたのは、自分と同年代に見える一人の女性だった。
非の打ちどころのない清潔感に溢れたスーツを、隙なく、それでいて軽やかに着こなしている。その佇まいは、泥の中に沈み込み、覇気を失いかけた私とは、あまりに残酷なほど対照的だった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、揺るぎない自信を全身から漂わせている。何より、こちらに向けられたその瞳には、夕闇の草原さえも照らし出すような、温かくも鋭い光が宿っていた。
ただそこに立っているだけで、死んだように静まり返っていた駅の空気が、彼女を中心に脈打ち始めたかのような錯覚さえ覚える。そのあまりの存在感に、言葉を失ったまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
「えっと、いったいここは……? あなた、誰、なの……?」
震える声でどうにかそれだけを絞り出した。
混乱しきった私の脳は、目の前の女性を救いとして受け入れるよりも先に、その異常な存在感に防衛本能を働かせていた。
「ああ、迷い込んでしまったんですね」
女性は、まるで迷子をなだめる母親のような、あるいはすべてを知り尽くした賢者のような、穏やかな微笑を浮かべた。その表情は、私の絶望も、疑念も、喉まで出かかった悲鳴さえも、すべて柔らかな真綿で包み込み、無効化してしまうような不思議な力を持っていた。
「心が擦り切れ、無意識の底で『もう限界だ』と叫んだ人の精神が、ある特別な周波数で世界と共鳴したとき。その一瞬の隙間に、この駅は現れるんです」
彼女は一歩、また一歩と、砂利を鳴らすことなく近づいてくる。
「理解しようとは、思わないほうがいいかもしれません。ただ『今』、この空間に自分が存在している。それだけがすべてです。この場所は、あなた自身が心の中で作り出した、一時的に立ち止まるための『駅』なのですから」
女性は、じっと私の目を見つめた。彼女の瞳の奥には、すべてを通り抜けてきた者だけが持つ深い切なさと、岩のように揺るぎない決意が混在していた。
彼女はゆっくりと、至近距離まで歩み寄る。その瞳に、怯えきった私の顔が小さく映り込んだ。
「そして私は、いつかどこかの未来にいる、あなた自身です。
未来は常に無数の選択肢の先にあります。その中の一つ――、暗闇の中で『生きる』と決め、光を掴み取った世界の私。過去、私もあなたと全く同じ、喉元まで泥が詰まったような絶望と疲弊を経験して、今、ここに立っています」
「……っ!」
息を呑み、思わず後ずさった。
未来の自分。その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、激しい眩暈が襲った。あまりにも荒唐無稽。笑い飛ばすべき妄言だ。だが、なぜだろう。彼女に見つめられていると、心の奥底に沈めていた最も柔らかい部分を、優しく、けれど確実に掌握されているような奇妙な感覚に陥る。
目の前の女性が放つ気高く、温かな輝き。それがかつて自分の中にあったはずの、そして今は枯れ果ててしまった希望の光だと言われているようで、胸が激しく掻き乱された。
「何を、言って……。そんなの、信じられるわけ……」
拒絶しようとするほど、膝は震え、まともに立つことさえ難しくなっていった。
目の前の女性が未来の自分だと言われても、現実味がなさすぎて疑問を抱くことさえできない。ただ、押し寄せる情報の濁流に飲み込まれないよう、呼吸を繋ぐのが精一杯だった。




