出国と露見
トラックはキーウを発って、冬の畑のなかをひた走っていた。一時間ほどで、EFとロシアのあいだに設けられた中立地帯へ入る。さらに八時間走ればロシア領だ。遠い昔から分断と支配の歴史を刻んできたこの地の、どす黒い肥沃な土は、双方の支配者に食料を供給し続けてきた。
「ここが最初の関門、EFからの出国ゲートだ。灯を消して、隠し部屋に入ってくれ」
EF領と中立地帯のあいだには、高いフェンスがずっとそびえ立っている。車が検問所にとまる音を、ゲオルネは狭い二段ベッドのうえで耳をそば立てて聞いた。いつのまにか、マスミルドがキーボードを打つ音も止まり、せまい隠し部屋にはトラックのエンジン音だけが響いていた。
「特別警戒地域元居住者票です」
「帰省か」
「はい、それと地元のスーパーから依頼を受けましてね。アイスクリームのコーンを運びがてら、旧友との再会を楽しむ予定です。あ、こっちは食品輸出許可証です」
「よし、確認した。ほんとうなら積み荷をあらためるところだが、同郷のよしみだ。いちいち調べるのも面倒だし、行っていいぞ。楽しんで」
「ありがとう」
ウクライナ語の会話はすぐに終わり、トラックは夜の道に出発した。
「よし、もう大丈夫だ。このまま中立地帯を走れば、八時間くらいでロシア領への入国ゲートに着く」
「意外にかんたんに出国できたね」
「ああ、この調子で行かれればいいが……」
雪をかぶった小麦畑を、トラックはまっすぐ走っていく。
「途中でいったんアイスクリームコーンを下ろして、小麦を載せる。今度は、ロシアへ食糧を運ぶトラックを偽装する。もろもろの許可証は偽造してあるから、近くなるまで好きにしていてくれ」
ロシアへの入国も、トラックの荷台を軽くあらためられるだけで無事に済んだ。ドネツィクの街で小麦を下ろしてからしばらく走ると、冬のおそい朝陽が地平線から昇った。
「黒海東岸を回って、トルコまで一気に抜ける。長旅になるがよろしく」
ウクライナからロシアに入り、ロストフとクラスノダールを抜ければ、雄大なコーカサス山脈が見えてくる。山脈のすき間を走る細い山道を抜けると、ロシア連邦帝国の構成国家となったジョージア、そしてロシア領東アナトリアだ。アナトリアに入って五百キロほどで、かつての二割ほどまで領土を縮小したトルコ共和国の勢力圏に入る。
しかし、旅とはそううまくいかないものだ。
はじめ三人は、道端の芝草にときどき寝転んで牛を眺めたり、ファストフードのハンバーガーを食べたりしていた。珍しく兄妹の会話もはずみ、平和な旅はいつまでも続くかと思われた。
山がちな地域に入ると、雪が厚く積もりアスファルトもぼろぼろになった道が増え、同じ距離を行くのにもひどく時間がかかるようになった。トラックが側溝にはまった時などは、三人とも雪国の出身といえ脱出にはひどい労苦が伴った。それでも、いや、協力して何かを成し遂げようとしているという実感があってか、兄妹の会話はふだんよりずっと多かった。
コーカサス山脈より南、一団が通る土地はそのほとんどが比較的山がちである。といっても、山国スイス出身のゲオルネたちからしてみれば平地の範疇に入るものだ。
ロシアに領有されて日が浅いアナトリアへ入るには、厳しい検問をくぐりぬける必要がある。長年の戦乱で道らしい道が残らない半島を進み、両国軍が対峙する前線を越えてようやく目的地にたどり着ける。生半可なことではない。
「よし、ダミーのアイスクリームコーンはしっかり積み込んだな。もうすぐ検問所だ。隠し部屋に入ってくれ」
山あいのコンビニエンスストアで買ったルービックキューブを片手に、ゲオルネは窮屈な二段ベッドに隠れた。やってみると意外に面白いものだな、と立方体をかちかちと動かす。
「しっ、意外とパズルの音は響く。密入国を見つかったら無事では済まされないぞ」
「うん、おじさんから合図があったらしまうよ」
運転席の戸が開き、ドミトロが下車する音がした。これまでの検問所ではなかったことだ。荷台の薄い壁から、ロシア語でなにか言い争う声が聞こえる。
突然に、荷台の扉が乱暴に開けられる音が響いた。
ゲオルネは、ルービックキューブを片手に握ったまま固まった。片付ける音すら出すわけにはいかない。
段ボールをひとつひとつ開く音がする。
「分隊長どの、規則に違反する品目は見受けられませんでした」
「そうか」
ぞっとするような、低い声。
「すこし、見せてもらえるかな」
「はい」
分隊長と呼ばれた男の、豹を思わせるしずかな足音が荷台のなかを回る。一歩、また一歩、彼の足音が隠し部屋に近づく。
静寂。
太古の樹上生活に適応した人体は、ときに現代の合成樹脂に囲まれた世界では不利となる。
手汗が、薄い毛布に落ちる。
コトリ。
ルービックキューブが、手から滑り落ちる。
息を呑む。バレた。
「なんの音だ……そこに、だれかいるな」
ガン、と激しく、隠し部屋の壁を蹴りつける音。
「隠し部屋だな。怪しいトラックだと思ったが。やはり、うわさの運び屋だったか。出てこい、苦しめずに殺してやる」
ふたりともロシア語は分からなかったが、この状況に発せられる言葉はそう多くない。この軍隊は、歯止めの効かない残忍さで知られている。
マスミルドが、引き出しのピストルを掴んだ。
「くそ、まさか見つかってしまうとは。こうなっては、戦うしかない。孤軍奮闘、それでもやってやる」
そう英語で叫んでから、ゲオルネに目配せする。お前は隠れていろ、俺が守る。
ゲオルネはただ、毛布をかぶって震えていることしかできなかった。
内側から戸を開き、マスミルドは目の前の分隊長に体当たりする。銃弾を至近距離から一発、うしろの兵士にもう一発撃ち込む。
分隊長を狙った弾はその脊髄を精確にとらえ、命を奪った。しかし、もう一人の兵士は無傷に近かった。
バン。
我に返った兵士の自動小銃と、マスミルドのピストルとが同時に火を吹いた。




