亡命と氷菓
スイス難民のキャンプからデポトゥア地区まで、ふたりは気まずい沈黙のなかで歩き続けた。五年前、林のなかを逃げ回っていたときもそうだった。言葉のラリーを続けるというただそれだけのことが、兄と妹という仲だと、たったひとりの家族相手だとどうしてこうも難しいのだろう。
「いらっしゃい」
「突然すみません、この店に《運び屋》はいますか」
恐る恐る尋ねたマスミルドに、酒屋イーハンの店員は目くばせをした。
「ボルシチのコースですね、奥の部屋でお待ちください」
にこやかな、しかし異議を許さない目で、店員は店の奥を示した。
「いや、ボルシチじゃなくて……」
「兄さん、隠語だと思うよ。ここは従ったほうがいい」
「あ、そういうことか」
店奥の小部屋でふたりがボルシチをすすっていると、戸を叩く音がした。
「俺に依頼がある、ってのはあんたらか。話を聞こう」
部屋に入ってきたのは、扉の上枠に頭がつかえようかという大男だった。
「あれ、また会ったな。嬢ちゃん」
「あの時の!」
「ドミトロ・コヴァレンコだ。またの名を『運び屋』。金さえもらえれば、道が通じるところならどこへでも人を、物を運ぶ。よろしく」
「よろしくお願いします、マスミルド・ンカリスクです」
「おう、アンカラから話はおおかた聞いている。金は大学持ちだな。厳しい旅になるが、覚悟は十分だろうな」
「はい」
「よし。トルコまで行くなら、ほんとうはボスポラス海峡を通るのがいちばん早い。しかし、イスタンブールは検問が厳しいからな。街の中心部にせよ郊外にせよ、海峡を渡る車はみな荷箱の林檎ひとつに至るまで検査されるそうだ。そこで、多少遠回りにはなるが、黒海を回るルートをとろうと思う。キーウあたりまで鉄道で向かい、そこからは車でロシアを突っ切ってトルコへと向かう。ハイウェイは検問があるから使えない。ロクな道のない地域も多いからな、少なくとも二週間はかかるとみたほうがいいだろう。何か質問はあるか」
「いえ、よろしくお願いします」
「おじさん、約束は覚えてるよね」
ゲオルネが、にやりと笑ってドミトロをの顔を覗き込んだ。
「約束……そんなものあったかな」
「とぼけないでよね、高級フレンチを奢るっていう約束でしょ」
「ああ、そうだったな。……くそ、前の大仕事が終わったばかりで、金がふんだんにある。断る言い訳がないじゃねぇか……どこに行きたい?」
「じゃあ、ギャラリー・ラファイエットの……」
「パリ随一の超高級デパート、か。ああ、俺の金が……」
「期待に違わず美味しかったね、高級フレンチ。さすがは豊かな超大国の味、って感じ」
「そうだな。俺まで奢ってもらえて、ありがとうございます」
満足げにコースの品を数え上げるふたりに、ドミトロは大きなため息をついた。
「高すぎんだよ高級フレンチ……しかも三人分。スラムの酒屋で半年間、毎晩飲み食いしてもここまでにはならねぇよ……ああ、明朝六時にパリ東駅集合でいいか」
「はい、よろしくお願いします」
「特別在留者国内旅行届は絶対に忘れるなよ。あれがないと、難民は鉄道に乗ることすら許されない」
翌朝、冬の冷たい夜明け前。着替えを一組と、日用品をいくらか小さなバックパックに詰め込んだゲオルネは、さきに部屋を出ていたマスミルドを追って戸を開けた。振り返ると、五年間を過ごした思い出深い部屋。きれいに片付けられた部屋は、ふだんとはかけ離れたように見えた。こんどは、こんどこそは、別れを告げられる。
「さよなら」
寝台特急の三等席にかけた三人は、思い思いにキーウまでの時間を過ごした。ドミトロはいびきをかき、マスミルドはラップトップを開いて数式をタイプしている。そして、ゲオルネは二重ガラスの向こうを流れてる田園風景を眺めていた。
「そういえばゲオルネ、お前って英語喋れたか?もう少しでドイツに入れば、フランス語は通じないぞ」
「英語か……これでも高校のころはそんなに悪い成績じゃなかったし、最低限は喋れる、はず。けど、もうほとんど忘れてるかもなぁ」
「そうか、まあ、これから話せるようになればいい」
「そうだね」
寝台特急といっても、硬い座席に申し訳程度の毛布があるだけ。列車が三十時間の旅を終えてキーウ中央駅に着くころには、ンカリスク兄妹は全身が凝り固まって悲鳴を上げていた。
「ひどい環境で寝るのには慣れているけど、思ったよりだいぶ疲れた」
「運び屋さん、さすがですね。まったく疲れていない」
「こういう旅には慣れているからな。協力者に車を用意させてある。バスで二十分ほどのところだ。なるべく目を付けられたくはないし、早いところ発とう」
駐車場に停まっていたのは、見たところ何の変哲もない二トントラックだった。控えめなトーンで、車体にアイスクリームのペイントがされている。
「これでトルコまで走るんですか」
「不安か」
「まあ、安心していると言えば噓になります。EFの国境警備軍は無断出国に容赦がないとも聞きますし……」
「心配するな。こう見えても、この車は特別に改造されている。運転席の座席下はじめ至るところに銃器が隠されているし、何より荷台には隠し部屋があるから検問に引っかかっても安心だ。しかもエンジンは特別に改造されていて、最高時速百二十キロ。よほどのことが無ければ、ちんけな軍用車には追い付かれない」
「それなら安心だし、早く出ようよ」
「ああ。現在時刻は十六時。今から出れば、ちょうど日が暮れるころには中立地帯に着き、暗いうちにロシア領奥深くまで入り込める。よし、出発だ。お前たちは荷台に乗っていてくれ。なに、外が見えるモニターもある。多少暗いが我慢してくれ」
トラックの荷台は、幅が二メートル、天井高も二メートル。奥行きは外から見ると四メートル半あるが、運転席より七十センチに壁があり、あいだに隠し部屋がある。隠し部屋には、薄暗い灯りとモニターに、据え付けの小机、そして窮屈な二段ベッドがある。小机の引出しには、護身用のピストルと救急箱。荷台の残りには、アイスクリームコーンがぎっしりと詰め込まれた段ボール箱がいくつか、商用トラックを偽装するために積まれている。
「二段ベッド、上の段使うか」
「うーん、私はもうしばらく、段ボールに座ってる。寝台特急で体がもうバキバキ。兄さんは?」
「俺は、もう少し論文を進めたら寝ようかな」




