不良と酔客
それから、五年ほどが経った。
ヴィクトル・リヴィエールの第二師団で介抱されたマスミルドは、無事に回復した。そのヴィクトルも、今ではフェロー諸島の防衛指揮官だ。
クラヴィア・エヴァンジェリスタの軍政は、あれから一年も経たずに崩壊した。そもそも前政権の無理な経済施策を止めようとクーデターを起こした彼女は、民主的な新政権の誕生を見届けて自ら幽閉の身となった。ヴィクトル・リヴィエールをはじめとした彼女の側近も同様に失脚し、辺境に左遷された。
EFに難民申請を出したふたりは、パリ郊外のキャンプで新たな生活を送っていた。
マスミルドは廃品回収の職についた。仕事はきつく、給金はすくない。けれども、難民キャンプのバラックでふたりぶんの衣食をまかなうには不自由しなかった。
編入した高校に馴染めなかったゲオルネはそうそうに登校拒否を起こし、スラムの不良たちと絡んでばかりいた。高校を卒業する歳になってもそれは変わらず、麻薬を呑んでみたり反政権デモに参加してみたりといった状態だった。
ゲオルネ自身、どうしてそうなってしまったのか分からなかった。両親と恋人とをいっぺんに失い、精神の歯車がどこか欠けてしまったのだろうか。
ある夜のこと。ゲオルネは不良仲間とつるんで、スラムでも飛び抜けて治安の悪いデポトゥア地区まで来ていた。合成樹脂の墓場のうえに難民の不法建築が密集するこの地区には、EFの警察機構も手出しできない巨大な裏社会が形成されていた。
退廃的なネオン看板がならぶ、酒屋通り。ゲオルネは、仲間と安物の発泡酒を喉に流し込みながら歩いていた。イーハンという酒屋の前で、仲間のひとりが足を止めた。
「ねえ、そこの路地裏。だれか倒れてない」
「そーだな、おおかたヤク漬けでぶっ倒れちまったんだろ。ほっとけ」
「そーだね、行こ」
「ゲオルネ、行かないのか」
「……ちょっと待ってて。あの人を起こしてくる」
「マジで?先行ってるぞ」
路地裏に倒れていたのは、スラブ系の男だった。歳のころは四十くらい。スキンヘッドに筋骨隆々とした彼の白いシャツは、違法に引かれた水道管から漏れでた液体に半分染まっていた。
「……おじさん、大丈夫」
つまさきで、頬を軽くつつく。
「ううっ……なんだ」
「大丈夫?こんなとこで寝てたら、死ぬよ。凍えるか殺されるか」
「ああ、そうだな。くそ、浮かれて飲みすぎちまった。ありがとな」
強いロシア訛りで悪態をついた男は、笑顔でゲオルネに礼を言った。
「お礼ならお金でちょうだい」
「悪いな、いまは持ち合わせがないんだよ」
「そう、おじさん名前は?」
「人に名前を訊く前に、まず自分が名乗るのが筋ってもんじゃねえか」
「そうだね。私はゲオルネ。スイス人」
「するってえと難民か。嬢ちゃんも苦労してるんだな。俺はドミトロ・コヴァレンコ。ウクライナ人だ」
「どっちの?」
「俺が生まれたころはロシア領だったが……今は中立地帯に入っているはずだ」
「そっか」
「しかし嬢ちゃん、こんなところに出歩いてると危ないぞ。俺の言えたことじゃないが」
「大丈夫、いちおう武器も持ってるし。じゃあ、もう行くね。今度会うことがあったら、高級フレンチ、奢ってよね」
「はあ!?」
「当然でしょ、私が声をかけてあげなかったらどうなってたか。キャンプに住んでると縁がないんだよね、フレンチ」
それだけ言い残して、ゲオルネは仲間を追って走っていった。
翌日、といっても早朝に帰宅したゲオルネが起き出すのは昼頃である。ふだんなら、日の明るいうちは家計の足しにするための内職をし、日暮れ時になると街へ繰り出す。同じ家に暮らしているのに、兄と過ごす時間は皆無に等しい。
しかし、この日ゲオルネが布団を出ると、マスミルドが部屋にいた。
「どうしたの、兄さん。仕事に出てる時間じゃ……」
「それなんだが、今日は休みをもらっているんだ」
中古のラップトップを閉じたマスミルドは、妹のほうへ向き直った。
「俺はこの五年間ずっと、仕事から帰ってきた夜の時間やたまの休みをつかって、数学の研究を進めてきた。その成果はネットで少しずつ発表していたんだが……その内容が、アンカラの中東工科大学の教授陣の目に留まって。むこうで研究員をしないか、と誘いを受けた。この土地で働きながらでは研究も思うようにできないし、俺はトルコに移りたい。それで、お前はどうしたい。俺と一緒に来てもいいし、お前はもう成人しているんだ、ひとりでこの国に留まってもいい」
「私の答えは決まっているよ。兄さんといっしょに行く。ここの仲間に、まともな友情を求めるのは無駄だからね」
「そうか。旅行の手段は向こうが用意してくれるそうだ。この国では、難民の出国には許可が必要だ。しかも、トルコとEFは敵対している。許可はまず下りないから、どうにかして密出国する必要がある。そこで、『デポトゥア地区のイーハンという酒屋にいる《運び屋》に接触して、指示に従え』だそうだ」
「イーハン……」
「知ってるか」
「旅人が多くて、ワインがぼったくりらしい。じっさい入ったことないからわからないけど」
「そうか。とにかく、早いに越したことはない。今から行こう」
「けど、まだ昼間だよ」
「……うるさがれるからあまり言わないでいたがな、夜おそくに出歩くってのは危ないんだぞ。なるべく昼間のうちに用を済ましておきたい」
「そう」




