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失望と悪意

 高地の日暮れははやい。アルプスの稜線に太陽がはんぶん隠れたころ、ゲオルネとマスミルドはハイラの家の前にいた。

「ハイラ、いる?」


 ゲオルネが家の戸をたたく。二人とも、端末の電源は切ってある。通信企業に位置情報を探られないとも限らない。

「どなた」


「私、ゲオルネだよ」


「何しにきたの」


 ハイラの声のトーンが、一気に下がった。

「残念だけど、私はあなたを庇うつもりはない。帰ってくれる?」


「どうして」


 ゲオルネが、必死に声を張り上げる。

「どうして、ねえ」


「あなたがテロリストの同族だったなんて、信じられない。裏切られた気分よ。だから、はやくここから出ていって。自警団の人たちに言いつけたりはしないから。私の視界から、出ていってよ!」


「分かった……さようなら」


 返事はなかった。ただ、哀しげな満月だけがあたりを照らしていた。



「このままこの国にいても、殺されてしまうだけだ。脱出しなければ」


 必死で歩を進めるうちに、気がつけば陽が出ていた。マスミルドが林道に足を止める。

「この調子で進めば、明後日の朝には国境までたどり着けるはずだ」


「……寒い」


「そうだな、上着を持ってくるひまもなかったし……着るか?」


 パーカーを脱ぎかけたマスミルドを、ゲオルネは手で制止した。

「私はだいじょうぶだから、兄さんは無理しないで。それより、今日はもう休もうよ」


「そうだな、無理はよくない」


 アルプス高原に深い森はそう多くない。道路や農地を挟んで点在する狭い針葉樹に隠れて、人目を避けて移動するのが精一杯だ。大樹のしたに腰掛けたふたりは、世界から隠れるようにして眠りについた。

 小さな、すすり泣く声がした。ゲオルネが次に目を覚ましたころには、林は深夜の静寂に包まれていた。小鳥が木から木へ飛び移るのを見ながら、彼女は泥のように深い、深い眠りに落ちていった。

 夕刻。

「ゲオルネ、起きろ。もう朝だぞ」


「もうちょっと、あと五分だけ寝させてよ……」


 平穏な眠りは、もう取り戻すことはできない。そう分かっていたからだろうか。ふだん早起きなゲオルネは安眠にしがみついていた。

 とはいえ、いつまでもそうしていることはできない。しぶしぶ目を覚ましたゲオルネは、簡易食品を開封するマスミルドを見やった。

「おはよう、ゲオルネ。小銭持ってたりするか?」


「ううん」


「そっか……いま、そこの無人販売機で使い切っちゃったんだよな。食欲あるか」


「……うん」


 ほんとうはものを食べるような気分ではなかったが、兄を心配させたくはなかった。苦笑いしたゲオルネは、段ボールの味がする簡易食品を口に押し込んだ。

「顔はどうにか映らないようにしたからバレてはいないだろうけれど、食べ終わったら早いところ発とう。そうだな、このまま街道や村を避けて歩こう。国境を越えれば、命の危険はないはずだ」


 ふだん物静かなマスミルドはいやに饒舌で、ふだん陽気なゲオルネはほとんど黙りこくっていた。

「そうだ、これ。バックパックに入れておいてくれないか」


「何これ」


「すぐわかるさ。頼めるか」


「わかった、いいよ」


 ごみと一緒に袋を通学用のバックパックに押し込む。ゲオルネが立ち上がると、腐食しない落葉の層土がぱちぱちと音を立てた。

「行こう」


「ああ」


 ふたりは黙々と、春の月光のなかを進んだ。

 遠くに見える稜線が白み出した、そのときだった。ヘリコプターの爆音が唐突にふたりを襲った。

「有権者の皆さま、こんにちは。連邦司法・警察相そして今年の連邦大統領を担当させていただいています、中央国民党党首のノア・バウマンです」


 ヘリコプターから柔和な老人の声が響く。政界の良心として知られる中道右派政治家、バウマンだ。この国では、議会にある程度の席を確保した政党が中央参事会に代表を出し合い、そのなかから毎年持ち回りで大統領が決まる。選挙が近くなるたび、バウマンは自ら国じゅうをまわり人々に応援を呼びかける。しかし、今回の演説はふだんとは違っていた。

「たいへん残念なことに、いまこの国には大きな危機が迫っています。皆さまご存知のことでしょう。昨日の朝、ひとりのFGS信徒が本性を現し、我々を危険に晒そうとしました。

 そもそもFGS、すなわち『自由福音の会』とは、我が国への制裁を強める野蛮な強国『EF;ヨーロッパ連邦』の畜生どもが考えだした、歴史あるキリスト教の歴史なき劣化コピーであります。その教義は愚者のそれ。しかし我が国でも、FGSに騙され洗礼を受ける残念な方々が後をたちませんでした。しかも彼らは、哀れにも巻き込まれた市民を洗脳し、EFに従う売国奴を作り出したのです。

 我々は、洗脳された同胞を救わなければならないのです。いかなる手段を用いようとも。不幸にもFGSの魔手にかかった同胞よ、自首してください。そうすれば、あなたの魂は断罪のうえ、救われます」


 演説ははじめに戻った。録音したものをずっと流しているのだろう。

「いいかげんなことを言いやがって。FGSはFGSでも、EFと繋がってテロ行為をしたのは過激派のTFGS(真の自由福音の会)。信者の数にしても5%にも満たない。そもそも俺たちはFGSの信徒でもないし、父さんが仕事で付き合っていたのもFGSP(平和のための自由福音の会)だ。FGSPは、社会貢献を教義とする平和な組織だった。迫害をうける謂れなど、どこにもなかった……」


「けど、FGSは結局、ひとびとの信頼を得られなかった」


「そうだ。この国の社会全体から見れば、FGSはじつにちっぽけな存在だ。それでも、自分たちの身近に自分たちと違う思想を持つ他者が入り込んでくること、それ自体が不信の対象になってしまった」


「FGSPで父さんたちは、福祉が行き届かないところに助けを届けて、大勢を助けた。けど……」


「その姿勢が保守勢力には、反乱のために味方を作っているとみられた。そうでなくとも、FGSPの支援を受けたのは主に、『ふつう』の人々からは軽蔑されている、この国の社会の最底辺。彼らと共にあることは、それだけで直感的な嫌悪を誘った。ただでさえ最近はEFの経済包囲網が固められて配給が減り、そのせいで社会不安も高まっている。そこにあのテロだ。むしろ一昨日までの平和が信じられないくらいだ」


「……いまのヘリに見られたかもしれないし、急ごう」


「ああ」

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