人生と隠棲
「それで、君がはるばるこんな離島まで来たのは、なにも伝統のダンスに興じてフィッシュ・アンド・チップスを食べるためではないだろう。ゲオルネ」
あの頃と変わらない、余裕に満ちたやさしい瞳で、ヴィクトル・リヴィエールはゲオルネを見つめた。皺がずっと増えたその顔は、今も色褪せることのない輝きを放っている。
「そうですね。単刀直入に言います。あなたにしろ、クラヴィア・エヴァンジェリスタ将軍にしろ、こんなさみしい片田舎で終わっていい人間ではないはずです」
「それで?」
「エヴァンジェリスタ将軍にはフィーガード・タクティクス・ユーロの最高指揮官、あなたにはその東方司令官の椅子を用意してあります。それでご不満でも、その他どのような地位も提供する準備があります」
「……つまり、かつてと同等の地位を提供すると、そういうわけか」
「ええ」
「僕らが表舞台を退いて、もう四十年ちかくが経った。僕もクラヴィアも、このフェロー諸島での生活がある。それを捨てさせるだけの理由はあるのかい」
「我々フィーガード社は、欧州市民からすれば国外からの侵入者です。じっさい、経済力にものを言わせて権力を奪ったわけではありますが。しかし、それもすべては、より大いなる平和を世界に築くため。国々がバラバラに覇権を目指す状況では、平和など望むべくもない。しかし、ひとびとは聞く耳を持たないのです。そこで、あなたがたに協力していただきたい。権力の座から退いた今も多くのヨーロッパ人から尊敬を集める、あなたがたに」
「それは、フィーガード社長の命令かい」
「いえ、社長はいま、表に出てこられる状態ではありませんので」
「そうか。……ゲオルネ、君も変わったね」
立ち上がったヴィクトルは、窓の外を見上げた。
「僕は、フランス南部の出身でね。最初この島に来たときは、あまりの寒さに震えたよ。こんなところに、これから一生住むのかと。はじめは、はやく大陸に戻りたいとさえ思ったさ。けれども、この島の人々は、そんな僕を受け入れてくれた。たった数百人の守備隊も今では全員が僕のかけがえのない仲間だ。彼らは、僕を必要としてくれている。そんな彼らを捨てることは、今の僕にはできない。分かってくれ」
「それなら、いちど中央を見に来ていただくだけでも」
「……やめておくよ。ここでの平穏を、壊したくない。僕はそういう、つまらない人間になってしまったというわけさ」
ヴィクトルの表情はどこか寂しげで、これまでのどんな時よりも長閑だった。
「エヴァンジェリスタ将軍と直接お会いすることは、できませんか」
「クラヴィアは、町外れに住んでいるよ。海沿いの切り立った崖の上、立派な屋敷だからすぐわかるさ。まあ、彼女の返事も君の期待に見合うとは思えないけれど」
「……そこをどうにか、私たちに手を貸していただけませんか」
「……そうだ、せっかく来たんだ。この島いちばんの場所を見ずに帰る手はないだろう」
「あなたの案内で、名所はもういくつもまわりましたが……」
当惑を隠せないゲオルネをよそに、ヴィクトルはてきぱきと準備を始めていた。
「いいから。ジープを出す、日が暮れる前に行こう」
まばらに低木が顔を見せる北極圏の草原のなか、凹凸が激しい未舗装の道を軍用ジープで走る。ときおり車がひどく揺れるたび、ゲオルネは遠い昔の旅を思い出し心を曇らせた。何十年も前、アナトリアの付け根でのことを。
「ああ、あれがクラヴィアの邸宅だ」
完璧な清潔が保たれた洋館。この島が長い戦乱でも被害のなかった平和な土地だからか、邸宅のまわりには門塀などなかった。
「さて、目的地まであと少しだ。ここからは歩こうか」
海沿いの絶壁上に車を停めたヴィクトルは、ゲオルネを手招いた。
「そこの階段を降りる。着いてきてくれ」
少し足を踏み外してしまえば、たちまち直下の荒浪に呑まれてしまう急階段。足下にふと目を向けたゲオルネは、別の断崖のことを思い出していた。兄をおいて走って、走って……そう、ヴィクトルと出会ったのはそのすぐあとだった。
「どうかした、ゲオルネ」
「いえ、なんでも」
「そうか」
欠けの目立つ不揃いな階段を降り切った先には、隠れた入り江があった。
「ヴィクトルさん、そのひとは……」
「おお、ジョン。来てたのか。彼女は、そうだな。僕の古い友だち、だ」
「へえ、ぼくはジョンって言います。ヴィクトルさんの弟子です」
「弟子を取った覚えはないよ」
「またまた、そんな」
ヴィクトルに駆け寄った少年が、屈託のない笑みを浮かべた。剣の訓練をしていたのだろう、彼の手には使い込まれた木刀が握られていた。
「ヴィクトルさん、今日も技を教えてくれるんですよね」
「ああ。おっと、その前に腹ごしらえだ。いつものベーグルを買って来てあるんだ、食べるか?」
「ありがとう、ヴィクトルさん!」
頬にバターがへばり付くのにも構わず、ベーグルをほお張るジョンに口角を上げて、ヴィクトルはゲオルネのほうを見遣った。
「分かってくれたか、ゲオルネ。今の僕はもう、欧州連邦の英雄じゃないし、そうありたくもない。あの日々もいい思い出だけれど、今の僕はただの老人だ。君みたいな立派な人間は、こんなところに寄り道しないで、広い世界を見据えていてくれ。……僕は結局、卑小な人間だよ。けど、それでいいんだ。僕は今の自分に満足してるし、またあの華々しい世界に戻りたいとも思わない」
少年をやさしく見つめるヴィクトルの瞳は優しくて、きっとこれまでどんな時よりも輝いていた。
ゲオルネ一人だけをのせて、小型飛行機は北海に飛び立った。もう一生かけても、ゲオルネには届かない幸せ。
もう二度と交わらない人生に、ほんの少しの羨望を覚える。それでも、彼のようになろうとは思わない。眩くて冷たい、けれども自分にとって唯一の道を選び取ったのだから。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
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