編入と侵略
「アナトリア高校の夜間部に編入希望、ね。そこに名前書いて。ゲオルネ・マスミルド・ンカリスクさん。EFからの移民で、二十四歳と。学びなおしはいくつになっても大歓迎だよ。それじゃ、編入試験の問題用意するから、そこの椅子に掛けて待ってて。トルコに来てから長いのかい? 四年目か、そうするといちばん楽しい時期だよ。トルコ語もうまいね、テストいらないんじゃない。あ、コーヒー飲むかい」
「あ、ありがとうございます」
しゃべり好きの職員に気圧されながら、ゲオルネはコーヒーをすすった。
「美味しい」
「そりゃあ良かった」
およそ三年半、働きながらトルコ語を学んだゲオルネは、八年前に失った青春を取り戻そうと、夜間高校の編入試験を受けにきていた。いつか高等教育まで修めて、兄のように学問で生きられれば、という思いも持って。
「うん、悪くない成績だね。十一年生、つまり通常だと十六歳に相当する学年からの編入でいいと思うよ。トルコ語を母語にしないでこの成績か。悪くない、いやむしろすごくいいね。五年制のアナトリア高校に三年通えば卒業だ。そのあとは、望めば大学受験だね。じゃあ、再来月からの新学期にあわせて入学するということでいいかな」
「はい、よろしくお願いします」
ゲオルネはあいかわらず、官営住宅の狭い部屋に住んでいる。写真立てやフィギュアがあふれんばかりに並べられた机に、かばんを置いた彼女は、ベッドに仰向けになって目を閉じた。あの頃のことが、自然に思い出される。
「兄さん、見ていてね」
ドミトロは、ゲオルネの精神が安定したあとしばらくしてウクライナへ帰った。ひとりでなら、運び屋失格でもどうにかなると言って。トルコとウクライナとでは、あいだの検閲やケーブルの断絶でまともな通信が出来ない。よくて週に一度、短文を届けるのがやっとだ。それでも、ふたりはやり取りを続けていた。ドミトロは、故郷で農業を営むかたわら、亡命の手助けをしているそうだ。アイスクリームコーンを買い取ったり、小麦粉をトラックに積み込んだり。
ぶかぶかのパーカーのしわを伸ばして、ハンガーに掛ける。裏地に残る赤黒い汚れを見るたびに、あの日のことを思い出す。
いつからだろう。ミドルネームに「マスミルド」の名を冠するようになったのは。わけを訊かれても分からない。ただ、兄のことを忘れたくはなかった。
「ゲオルネ、食事にしない」
「うん、どこにする?」
「みんなで、こんどできたインド料理店に行こうかって話していたんだ」
「いいね、すぐ行く」
官営住宅の同じ棟に住む仲間たちと連れ立って、三日に一度は食事に出かける。出自も性格もさまざまな仲間たちは、何も言わずゲオルネを受け入れてくれた。今ではかけがえのない存在だ。
この国を第二の故郷に生きたい。心の底からそう思えるようになった。
商店街に出たとき。
遠くから、爆発の重低音が響いた。
「逃げろ、中心街が爆撃されている」
ゲオルネが移住して以来停滞を見せていた、トルコ東西の戦線が、同時に動きだした。
ゲオルネは、下町を必死に駆け戻った。仲間たちとは、いつのまにかはぐれてしまった。石畳を踏みつける。熱い火の粉が肌を刺す。それでも、走り続けた。あのときと同じくらい、速く。
走り続けて、息が上がってきたとき。
まだ続くはずの町並みが、突然に途切れた。
街じゅうどの建物も、原形を留めていない。
もともと、この国にもはや戦争を継続するだけの国力はなかった。複雑怪奇な国際情勢のなかで、トルコを屈服させるという一点のみで手を結んだEFとロシアに東西から同時攻撃されたトルコは、あっけなく国家としての一生を終えた。
ゲオルネは、かつて官営住宅だったところに恐る恐る近づいた。ぼろぼろになって崩れ落ちた鉄筋コンクリート。あちらこちらから、激しく火の手が上がっている。生き埋めになった人々が、必死に助けを求める声。
「どうして、どうしてこうなるの。どうして、また何もかも失わなくてはならないの」
部屋があったところのうえには、がれきが幾重にも積み重なっていた。熱せられた鉄骨が手のひらを焦がすのにも構わず、がれきをかき分ける。
原形を留めずにぐしゃぐしゃになった、写真とフィギュア。そして……黒っぽい布切れが見えた。マスミルドのパーカーの、袖の生地だ。それ以外の部分は?……必死で探る。まだ暖かい灰が手に触れた。
「兄さん……」
マスミルドが残した、最後の証を握りしめる。
「あぶない!」
だれかの声を聞く。
どうにか屹立していた鉄骨が、倒れる音がした。
とっさに飛び退く。
「そうか、私は、まだ生きていたいんだ」
ゲオルネは、走り出した。




