別離と懺悔
「ぐわぁっ」
兵士が崩れ落ちる。
と、そのとき、トラックのエンジンがかかる音がした。
「出すぞ、強行突破する。振り落とされるなよ!」
ドミトロが叫んだ。トラックがフェンスとぶつかり、激しい金属音が響く。
荷台の扉が風を受けて、パタパタと開閉する。
「兄さん、大丈夫」
ようやくベッドから這い出たゲオルネが、隠し部屋の戸から顔を出した。
「ああ、なんとかな……ぐふっ」
マスミルドが吐血する。銃弾に傷ついた脇腹から、どくどくと血が流れ出した。
「くそ、内臓が傷ついたらしい。止血を手伝ってくれ」
「うん、どうすればいい」
ゲオルネが慌てて広げた毛布に横たわったマスミルドは、まだどうにか明瞭な、しかし今にも消え失せてしまいそうな声で素早く処置を指示した。
「まず、救急箱を出してこい。清潔な布を折り畳んで、傷口をきつく押さえつけてくれ。ぐっ……」
「どうしよう、血が止まらない……」
「落ち着いて、傷口を強く押し続けろ。うっ」
マスミルドが、ふたたび血のかたまりを吐く。ひどい顔色だ。
「そうだ、水、水をくれ」
「ほら、飲んで」
「ああ、ありがとう……」
「ようやく、血が止まってきたみたい」
「そうしたら、布とロープで、固くからだを縛るんだ……そう、ロープはさっき無人販売機で買っておいたんだ」
「兄さん、どうしたの」
マスミルドの意識が、明らかに混濁している。目の焦点が定まっていない。
「兄さん、兄さん」
「どうした、大丈夫か」
運転席から状況を確かめようと、ドミトロが声を張り上げた。
「兄さんが、撃たれて、血が……意識がなくなってきている」
ゲオルネが、必死で叫ぶ。
「くそ、とりあえず、こっちに運べるか」
「うん」
このトラックの荷台と運転席のあいだには隠し扉がある。そこから、ゲオルネは兄を助手席に乗せた。自分よりもずっと重たいはずなのに、なぜだか兄の身体をやけに軽く感じる。火事場の馬鹿力というものか、それともマスミルドがじっさい軽くなってしまったのか。
「くそ、ひどいな。どんなにうまくいっても、トルコ領までまだ五時間はかかる。よし、荷台を切り離せばすこしは速くなるはずだ。救急箱と毛布はこっちに移したな。……この機能を使う日が来るとは。揺れるぞ、掴まれ」
ガン。激しい音とともに、悪路を時速百二十キロで走るトラックから荷台が切り離される。荷台は地面に落ちると、夕闇に紅い火花を散らして停止した。何日もを過ごした、アイスクリームコーンの満載された、二人分の死体を乗せた荷台は、ボロボロのアスファルトの最後の生命を断って停止した。
身軽になったトラックは、それまで以上の高速で走った。
「足を少し高く、フロントガラスから吊るせ。そこのポケットに本が入っている、布でくるんでパッドの代わりにして、患部に当てろ。少しずつ、水を飲ませて」
ドミトロの指示もむなしく、マスミルドの意識はだんだん遠のいていった。
「……ネ、ゲオルネ」
「兄さん」
「いつもありがとな。お前が助けてくれた命で、お前を守り切れてよかった」
「兄さん、ねえ、兄さん」
「運び屋さん、俺の妹を、頼みます……」
兄の腕にすがる。暖かさがかすかに残っている。しかし、身体の芯から発せられる熱が冷めきっていることは肌に触れる前から明らかで、それがなによりももう戻らないものを無情に示していた。
前線の隙間をぬって入国ゲートにたどり着いたころには日はとっぷりと沈み、赤い月だけが大地を照らしていた。
「運び屋だ。中東工科大学の依頼で、人を運んでいる」
「お話は聞いています、どうぞ」
ドミトロがもはや息のないマスミルドを抱きかかえ、ゲオルネはそれに続いた。
「よくいらっしゃいました。中東工科大学職員のバリス・イェーキンです。マスミルド・ンカリスクさんをお迎えにあがったのですが、その様子ですと……」
「ああ……守り切れなかった。俺は運び屋失格だ……くそ!」
「我々としても、彼にはおおいに期待を寄せていました。残念です。あなたは?」
「……マスミルドの妹、ゲオルネ・ンカリスクです」
「ふむ、帯同者については事前に聞いています。あなたは、予定通りこの国の永住権を得ることもできますし、来た道を戻ることもできます。どうなさいますか」
「私は……ごめんなさい、まだ決められないです」
「いいでしょう。一晩ゆっくりと寝て、進路を定めてください。運び屋、あなたはどうしますか」
「俺は、ゲオルネが安心して生きられるように助ける。彼女の生活が安定したら故郷に戻って、すこし早いが隠遁生活を送ろうと思う。もう俺には、運び屋をやる資格はない」
「そうですか。葬儀場になにか希望はありますか」
「……いえ。兄は無宗教、それどころか宗教嫌いでしたから。過去に、宗教のせいでひどい目にも遭っていますし」
「でしたら、近隣の葬儀場を手配しておきましょう。お疲れでしたら、すぐそこの仮眠室で休んでください」
「ありがとう、休ませていただきます」
仮眠室に入ったゲオルネは、うすいマットレスのうえに倒れ込んだ。ありとあらゆる種類の疲れが、どっと噴き出す。少女は、夢のなか、今や彼女が安心できる唯一の場所へ沈み込んでいった。
『ゲオルネ』
父の、声。
『ゲオルネ』
母の、声。
『ゲオルネ』
兄の、声。
『待って、ねえ、待ってよ』
走る。必死になって走る。針葉が顔を刺す。木の根にけつまずき、膝から血が流れだす。
『待ってよ!助けて!』
森を抜けると、そこには見渡す限りの戦車隊が並んでいた。
『お願いです、もう一度私たちを助けて』
戦車の砲塔がこちらに向く。
『オマエノセイダ』
『オマエノセイダ』
『オマエノセイダ』
右から、左から、体の中から、世界のすべてから責め立てられたように感じた。
『ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで……』
どく、どくと。これは、血脈の音?
空が赤黒い。月が出ている。痛いほど明るい、月が。
月じゃない、あれは、だれの眼だ。
『ごめんなさい、許して、ううん許さないで、私のせいで、私が死んでいれば』
絶叫が、反響する。赦しを乞う叫びが、跳ね返ってくる。いや違う、ほかの声も混じっている。声が……




