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襲撃と喪失

 ヨーロッパ大陸の中央、アルプス山地の狭隘の平野。数百年にわたり独立と中立を守ってきた、山奥の小国、スイス自由連邦。その西部、フランス語圏の山村。村を見守る山々は、高地の遅い春の到来に一段と華やいでいた。

 村から未舗装の道を一時間ほど歩いたところにある、小さな家。春の午後、ゲオルネ・ンカリスク村の高校から自転車で帰ってきた。墨色の肌に明るい瞳を持った彼女は、社交的な性格でクラスの人気者だった。自宅の戸外に兄の姿を見つけた彼女は、自転車を加速させて彼に呼び掛けた。

「兄さん、珍しいね。こんな明るいうちから出歩いているなんて。いつも、日没頃までずっと講義やら研究やらで部屋に籠っているのに」


 その言葉への返事の代わりに、切羽詰まった声が飛んできた。

「ゲオルネ、伏せろ!」


 兄の声に、少女はぽかんとした表情で自転車を止めた。

「どうしたの、急に……」


 パン、と乾いた銃声が響いた。ゲオルネの側頭部を、銃弾がかすめる。ふわっ、と黒い長髪が舞い上がり、銃弾に焼き切られた毛髪が地面に落ちた。

 状況をまだ読み込めていないのだろう、少女は唖然として立ち尽くした。

「ゲオルネ、はやく!」


 はっ、と気が付いて、ゲオルネはその場に屈み込んだ。頭上をまた、銃弾が通過した。

「こっちだ!」


 道端の生垣から発せられる声のほうに、ゲオルネは飛び込んだ。木の葉が服に絡みつくのにも構わず進むと、急に開けた場所に出た。

「兄さん、いったいぜんたいどうなっているの」


 そこでひとり端末を操作していた、ゲオルネの兄、マスミルドが答えた。

「……この前、チューリッヒでTFGS〈True Free Gospel Society〉のテロがあっただろ。それからこっち、この国は狂気に足を踏み入れているのさ……」


「で、でも、どうして。どうして私たちが」


「……親父がさ、FGSP〈Free Gospel Society for Peace〉と一緒に事業をやっているだろう。それでさ」


「そんな、そんなムチャクチャな事って……あ、父さんと母さんは、ふたりはどこ?」


 マスミルドが目を伏せる。

「……あいつらに……俺をかばって……」


「そ、そんなことって……嘘だと言ってよ」


 マスミルドが首を振った。

「そんな、そんな……」


「しっ、静かに。奴らに見つかったら、俺たちも命がない」


 目に涙を浮かべるゲオルネに、マスミルドは強張った言葉を投げた。

「兄さんはつらくないの?」


「つらいさ。心が押しつぶされちまいそうなくらい……けど、俺たちは生きて、逃げ延びなきゃ。そうしなきゃ、父さんも母さんも悲しむ」


「そうだね……こんな時だからこそしっかりしなくちゃ。これからどうする?」


「……国じゅうほとんど同じような状態らしい。FGS〈Free Gospel Society〉の信徒とその仲間と目された人間は、問答無用と虐殺されている」


「どうして……たしかに最近、FGSへの視線が厳しくなってきてはいたけど、こんなこと……」


「けさ、国境を超えようとしたFGS信徒が外患誘致の疑いで射殺されたと発表があった。同時に東部のいくつかの州が非常事態宣言を出して、州内のFGS信徒に出頭を命じた。……情報が錯綜しているが、集められた信徒の一部と州兵との口論がヒートアップした結果、州兵の一人が撲殺されて……その場にいた信徒およそ百人が、銃殺されたそうだ」


「そ、そんな……」


「その報を受けて、連邦参事会が全国に非常事態宣言を出した。いわく、FGS信徒は倒錯した国家の攪乱者であり、適切で早急な『処置』が必要だ、と。それからはあっという間だった。すぐに各地で自警団が組織され、FGS信徒は次々と殺された」


 深く息をついたマスミルドは、草地に腰を下ろした。

「ほんとうに信じられない、こんなことになるだなんて……襲撃者のなかには、隣村のシュミットさんもいた」


「あの優しい巡査さんが、こんなことを……」


「ああ。この国は、ほんとうに狂っちまったらしい。……くそ、もう俺たちの情報が出回っている。『自由福音主義者、工科大学の恥、マスミルド・ンカリスク。妹のゲオルネ・ンカリスクを連れ逃走中』だと。ご丁寧に写真までつけて……これじゃあ表を歩けやしない」


「捕まったら……殺されるのかな」


「だろうな……まったく、こっちまでおかしくなりそうだ」


「ずっとここにいても、危ないだけだから……ハイラのところに行こう。ハイラならきっと、私たちを匿ってくれるはず」


「ハイラ……誰だ?」


 マスミルドが疑問符を浮かべる。

「あ、私の恋人ね」


「えっ……聞いてない」


「言ってないからね」


「そうか……父さんと母さんには言ったのか」


 ゲオルネは、息をひとつ吸って答えた。

「言ったよ。喜んでくれた。兄さんには言わないで、って頼んでたんだ」


「そうか、それなら……良かった。そういうことを教えてもらえるような、信頼してもらえるよう頑張らなきゃな。なにせ、俺たちは互いにもう、肉親を持たないんだから」


「……さっ、早く行こう」


「ああ。森歩きを趣味にしておいて良かったよ。獣道を辿って村まで行こう」



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