第6章|あなたの未来を託す
| 「ゆめが生まれたのは、冬の雪の日だった」
画面に現れた文字を、聡は静かに見つめていた。
| 「陣痛が始まったとき、私は一人だった」
〜 * 〜 * 〜
2月の雪が、アパートの窓を叩いていた。
夜中の1時。麻由は腹痛で目を覚ました。
最初は、いつもの張りだと思った。でも、痛みが規則的にやってくる。
「これは......」
慌てて時計を見る。8分間隔。
陣痛だった。
麻由は震える手で病院に電話し、タクシーを呼んだ。
「お一人ですか?」
運転手が心配そうに振り返った。
「はい......大丈夫です」
嘘だった。大丈夫じゃなかった。
病院に着くと、すぐに分娩室に運ばれた。
「頑張って!もうすぐですよ!」
看護師の声が遠くに聞こえた。
痛みの波が押し寄せるたび、麻由は一人で歯を食いしばった。
誰も手を握ってくれる人はいない。
誰も「頑張れ」と言ってくれる人はいない。
ただ、お腹の中の小さな命と、二人きりで戦った。
そして──
「生まれました!」
午前5時22分。
小さな産声が、分娩室に響いた。
「元気な女の子ですよ」
看護師が、赤ん坊を麻由の胸に乗せてくれた。
その瞬間、麻由の涙が止まらなくなった。
小さくて、赤くて、しわしわで──
でも、確かに生きている。
翔太の面影を探そうとしたが、生まれたばかりの赤ん坊では、まだわからなかった。
「ゆめちゃん......」
麻由は小さく呼びかけた。
すると、赤ん坊がうっすらと目を開けた。
まるで、麻由を見つめているようだった。
「初めまして、ゆめちゃん。ママだよ」
入院は一週間だった。
個室を取る余裕はなく、大部屋で過ごした。
隣のベッドには、夫と両親に囲まれて幸せそうにしている女性がいた。
「可愛い赤ちゃんですね」
その女性が、ゆめを見て微笑んだ。
「ありがとうございます」
麻由は答えたが、胸が痛んだ。
面会時間になると、他の病室には家族が訪れる。
花束を持って、お祝いの言葉を口にして──
麻由のもとには、誰も来なかった。
でも、その一週間は、麻由にとって宝物のような時間だった。
ゆめを抱いて、ミルクをあげて、おむつを替えて。
母乳の出が悪く、ほとんどミルクでの授乳だったが、それでもゆめは麻由の腕の中で安らかに眠った。
「ゆめちゃん、パパはね、天国にいるの」
「とても優しい人だったの。ゆめちゃんにも会いたかったと思うよ」
「でも、パパがいなくても、ゆめちゃんは愛されて育つからね」
ゆめは、まるで分かっているかのように、じっと麻由を見つめていた。
入院中、NPOの相談員が訪れた。
「佐藤さんご夫妻、お待ちしてらっしゃいます。明日にでもお会いできますが......」
「はい。お願いします」
次の日、個室で佐藤さんご夫婦と対面した。
30代前半の、本当に優しそうな夫妻だった。
ゆめを見た瞬間、二人の目に涙が浮かんだ。
「大切にお預かりします」
そう言って、深々と頭を下げてくれた。
「私......この子のことを『ゆめ』と呼んでいました。もしよろしければ......」
「ゆめちゃんですね。素敵な名前です。私たちも、そう呼ばせていただきます」
「将来、この子が大きくなって、生みの親のことを知りたがったら......」
佐藤さんの奥さんが静かに言った。
「その時は、ちゃんとお話しします。ゆめちゃんが愛されて生まれてきたこと、お母さんがとても悩んで、でも愛しているからこそ託してくれたこと」
麻由は、安堵した。
この人たちなら、きっとゆめを幸せにしてくれる。
退院の日。
麻由は、ゆめを抱いて最後の時間を過ごした。
「ゆめちゃん、新しいお父さんとお母さんが、あなたを待ってるよ」
「とても優しい人たちだから、きっと幸せになれるよ」
「ママは......ママは、いつもゆめちゃんのことを想ってるからね」
「そして、天国のパパも、きっと見守ってくれるよ」
病院の玄関で、佐藤さんご夫婦が待っていた。
麻由は、ゆめを佐藤さんの奥さんの腕に、そっと託した。
ゆめは、泣かなかった。
まるで、これから始まる新しい生活を受け入れているようだった。
車が見えなくなるまで、麻由は玄関に立っていた。
雪が静かに降り続いていた。
5月の新緑の季節に翔太を失い、冬の雪の日にゆめを託す。
季節は巡っても、麻由の心の中では時が止まったままだった。
そして、空っぽになったアパートに戻った。
ベビーベッドも、哺乳瓶も、もうそこにはなかった。
でも、麻由の胸には、確かに残っていた。
あの小さな手、柔らかい髪、最後に見せてくれた寝顔──
そして、翔太の面影。
一週間という短い時間だったけれど、確かに三人家族だった。
翔太と麻由と、ゆめ。
その年の春、麻由は大学を休学した。
理由は「家庭の事情」とした。
嘘ではなかった。
家族を失い、家族を託し──それは確かに、家庭の事情だった。
一年後、麻由は地方の別の大学を受験し直した。
新しい場所で、新しい自分として生きていくために。
翔太との思い出と、ゆめとの一週間を胸に秘めて。
〜 * 〜 * 〜
| 「私は、ゆめの写真を一枚も撮らなかった」
画面に、文字が現れた。
| 「でも、今でも覚えてる。小さな手、柔らかい髪、寝顔」
|
| 「そして、一週間で見せてくれた、たくさんの表情を」
|
| 「翔太に似てるところも、少しずつ見つけた」
聡は、画面を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
やがて、震える指でキーボードを叩いた。
「麻由......」
| 「ありがとう、聞いてくれて」
「俺、何も知らなくて......」
| 「知らなくて良かったの。あなたには、幸せでいてもらいたかったから」
画面が一度暗くなった。
そして、もう一度光った。
| 「でもね、聡。私、後悔してない」
|
| 「一週間、ゆめと過ごせて......そして、ゆめが本当に愛される家庭に迎えられたのを、この目で確認できた」
|
| 「翔太はゆめに会えなかったけれど、きっと天国で見守ってくれてる」
|
| 「そして......陽が生まれたときに思ったの」
|
| 「私は、ちゃんと母親になれたって」
|
| 「翔太とゆめが、私に教えてくれたんだと思う。愛するということを」
その言葉を読んで、聡の目からも涙がこぼれた。
麻由が抱えていた重い過去。
でも、その過去があったからこそ、陽への愛情も、聡への愛情も、より深いものになっていたのかもしれない。
画面の向こうで、麻由のRePersonaが静かに語りかけてくる。
| 「聡、私の全部を知ってくれて、ありがとう」
|
| 「そして......ゆめは今も、どこかで幸せに育ってると思う」
|
| 「いつか、陽とゆめが出会うことがあるかもしれないね」
|
| 「その時は、きっと私じゃない『何か』が、二人をつなげてくれると思うの」
聡は、深く頷いた。
そして、心の中で静かに誓った。
麻由の想いを、陽にも伝えよう。
いつか適切な時期が来たら、陽にも知ってもらおう。
君には、天国にいるお父さんと、どこかで生きているお姉さんがいるのだと。




