第5章|秘密を抱いた春
〜 * 〜 * 〜
画面が静かに光った。
| 「聡、準備はいい?」
麻由のRePersonaが、いつもより慎重な口調で尋ねてきた。
「ああ」
| 「これから話すのは......私が18歳のときのこと。柚木麻由だった頃の記憶」
聡は静かに頷いた。柚木麻由。結婚前の彼女の名前を、久しぶりに聞いた気がした。
| 「大学1年の春。私は、妊娠していた」
文字だけの告白だったが、その重さは画面を通り抜けて、聡の胸に直接響いた。
〜 * 〜 * 〜
新緑が美しい頃だった。
18歳の柚木麻由は、大学のトイレで妊娠検査薬を見つめていた。
生理が来ない。
5月のゴールデンウィークから、もう3週間が過ぎていた。
検査薬の結果を見たとき、世界が一瞬止まったような気がした。
陽性。
妊娠していた。
麻由の頭に浮かんだのは、あの夜のことだった。
ゴールデンウィーク。久しぶりに故郷に帰省した麻由を、彼が迎えに来てくれた。
高校時代から付き合っていた恋人、田中翔太。
大学進学で離ればなれになってから、1ヶ月ぶりの再会だった。
「麻由、痩せた?ちゃんと食べてる?」
「大丈夫だよ。翔太こそ、バイト大変そうじゃない」
彼は地元の大学に進学し、昼間は授業、夜はコンビニでアルバイトをしていた。
いつか一緒に東京に出ようね、と約束していた。
その夜、二人は初めて結ばれた。
「ずっと君を想ってた」
「私も......」
愛し合った、特別な夜だった。
そして今、その夜の結果が、麻由の体の中で育っていた。
麻由は震える手で携帯電話を取り出した。
翔太の番号を呼び出す。
でも、コール音が続くだけで、誰も出ない。
留守番電話にメッセージを残すことも考えたが、こんな大切なことを録音で伝えるのは違う気がした。
LINEを開く。
「お疲れさま!元気?」
送信した。
既読にならない。
翌日も、その次の日も。
メッセージは未読のままだった。
麻由は不安になった。
彼に何かあったのだろうか。
バイトが忙しすぎるのか、それとも体調を崩したのか。
一週間が過ぎた。
ようやく、LINEが既読になった。
麻由は安堵した。返事を待った。
そして、メッセージが届いた。
| 「翔太君のお母さんです。息子のスマホを確認していて、麻由さんからのメッセージを見つけました。
| 突然のご連絡で驚かれるかもしれませんが、翔太は5月8日に交通事故で亡くなりました。
| 免許を取ったばかりの友人とドライブに出かけて、その時に......
| もしよろしければ、お時間のあるときにお電話いただけませんか。翔太がいつも麻由さんのことを大切に話していたので、お伝えしたいことがあります。」
麻由は、携帯を取り落とした。
画面が割れた音が、静寂を破った。
翔太が、いない。
もう、いない。
あの夜の温もりも、約束も、全部──
麻由は床に崩れ落ちた。
声を殺して泣いた。
誰にも聞こえないように、ただ一人で。
その後の記憶は曖昧だった。
どうやって部屋に帰ったのか、どうやって夜を過ごしたのか。
ただ、お腹に手を当てながら、ずっと考えていた。
この子は、翔太の子。
翔太が残してくれた、最後の贈り物。
だけど──
翔太はもういない。
二人で育てることも、相談することも、もうできない。
麻由は、完全に一人になった。
大学の講義も、友人との会話も、すべてが遠く感じられた。
つわりが始まっていた。
朝起きるのがつらく、食べ物の匂いで気分が悪くなった。
でも、誰にも相談できなかった。
翔太のお母さんに電話をかけることも考えた。
でも、息子を失って悲しんでいる人に、妊娠のことを告げるなんて──
できなかった。
妊娠3ヶ月。
お腹は、まだほとんど目立たなかった。
でも、確実に命は育っている。
翔太の命の一部が、麻由の中で生きている。
ある日、病院で検査を受けた後、医師に言われた。
「お一人で来られてますが、ご家族は?」
「......一人なんです」
「そうですか。でも、妊娠・出産は一人では大変ですよ。どなたか頼れる方は?」
麻由は黙って首を振った。
育ての親にも言えない。
翔太の家族にも言えない。
友人にも言えない。
この秘密を抱えているのは、麻由だけだった。
妊娠4ヶ月。
大学の友人が気づき始めた。
「麻由、最近体調悪そうだけど大丈夫?」
「うん、ちょっと疲れてるだけ」
嘘をつくのが、だんだん辛くなってきた。
妊娠5ヶ月。
初めて胎動を感じた。
お腹の中で、小さな命が動いている。
「翔太......」
麻由は小さくつぶやいた。
「この子、翔太に似てるかな」
でも、翔太はもういない。
この子が生まれても、父親に会うことはできない。
麻由は、図書館で妊娠・出産・育児の本を読み漁った。
一人で育てることは可能だろうか。
経済的にも、精神的にも。
そして、一つの選択肢が見えてきた。
特別養子縁組。
「愛する家族のもとで、子どもが幸せに育つための制度」
パンフレットを読みながら、麻由の心は揺れた。
翔太との子を手放すなんて、考えられない。
でも、一人で育てられるだろうか。
この子を幸せにできるだろうか。
妊娠6ヶ月。
性別がわかった。
「女の子ですね」
医師の言葉に、麻由は静かに頷いた。
女の子。翔太の娘。
「翔太に似た女の子になるのかな」
その夜、麻由はその子に名前をつけた。
「ゆめ」
翔太と一緒に見た夢。いつか叶えたかった夢。
全部ひっくるめて、「ゆめ」。
妊娠7ヶ月。
経済的な現実が重くのしかかってきた。
アルバイトの収入だけでは、出産費用も出せない。
育ての親に頼むことも考えたが、どう説明すればいいのかわからなかった。
そして、ついに決心した。
NPOに電話をかけた。
「妊娠・出産でお悩みの方の相談を受け付けています」
電話の向こうの優しい声に、麻由は涙がこぼれた。
妊娠8ヶ月。
NPOの相談員と何度も面談を重ねた。
「お一人での出産・育児は、本当に大変です」
「でも、決断は急がなくて大丈夫。生まれてから考える時間もあります」
「もし特別養子縁組をお考えなら、生まれてすぐに新しいご家族のもとに行けるよう、準備することもできます」
麻由の心は揺れ続けていた。
翔太の子を手放したくない。
でも、一人では育てられない。
この子を幸せにするには──
妊娠9ヶ月。
ついに決断の時がきた。
「この子を、本当に愛してくれる家族のもとに託したいです」
「でも......生まれてから、少しだけ一緒にいさせてください。一週間だけでも」
相談員は優しく頷いた。
「もちろんです。その一週間は、とても大切な時間になると思います」
養親候補のご夫婦も紹介された。
30代前半の佐藤さんご夫妻。長年子どもに恵まれず、特別養子縁組を心から望んでいる。
麻由の心は、少しだけ軽くなった。
この子は、愛される。
翔太がいなくても、この子は幸せになれる。
〜 * 〜 * 〜
| 「私は、その子を『ゆめ』と呼んでいた」
画面に、そっと文字が浮かんだ。
| 「彼の名前は翔太。高校時代からの恋人だった」
聡は、画面を見つめたまま、何も言えなかった。
| 「でも、翔太は交通事故で亡くなった。私が妊娠に気づく前に」
|
| 「だから、彼は自分の子がお腹にいることを、知らないまま逝ってしまった」
|
| 「聡......続きを聞いてくれる?」
「ああ」
| 「次は、もっとつらい話になる。でも、全部話したい」
画面が一度暗くなり、また静かに光った。
| 「私が『ゆめ』を託すまでの、短い物語を」




