第4章|ふたりで生きるということ
春の風が、すこし甘く感じるようになった朝だった。
麻由は、カレンダーの小さな赤丸を見つめていた。
生理が、来ない。
いつもなら気にも留めない遅れだった。でも、今回は違う気がした。
検査薬の結果を見たとき、麻由の手はほんの少しだけ震えていた。
それは「不安」ではなかった。だけど「迷い」がなかったわけでもない。
気づけば、彼のことを想っていた。
聡の顔、声、笑い方──
彼のまっすぐな目を思い出したとき、涙が込み上げた。
それがなぜだったのか、うまく説明できなかった。
「おめでとう、だよね?」
夕暮れのアパートで、麻由が報告したとき、聡はまっすぐにそう言った。
驚きも、戸惑いも、怒りもなかった。あるのは、ただ"喜び"だった。
「俺、父親になるんだ......」
その言葉が、少しだけ震えていた。
麻由は頷いた。頷いたけれど、胸の奥でなにかがそっとうずいた。
聡はまだ、私の全部を知らない──
日々は静かに、でも確実に流れていった。
ふたりで暮らす部屋の隅には、少しずつベビーグッズが増えていく。
壁には手書きの出産予定表、キッチンには栄養管理のメモ。
「名前、どうする?」
「早くない?」
「いや、今から考えるって大事でしょ」
そんな会話をしながら、笑い合うふたりの姿は、とても自然だった。
でもある日、麻由がふと見せた涙があった。
お風呂上がりの脱衣所。ドライヤーの音にまぎれて、小さくすすり泣く声。
「どうした?」と声をかけると、麻由はタオルで顔を隠した。
「なんでもない」
そう答える声は、あの日の"なんでもない"と、まったく同じ響きだった。
ふたりで生きることは、穏やかで、優しくて、ときに切ない。
彼女のすべてを知っているわけじゃない。
だけど、それでもいいと思っていた。
この先に、どんな記憶が待っていたとしても。
この人となら、乗り越えられる。
そう、聡は信じていた。
陽が生まれた日、春の雨が窓をぬらしていた。
産声は、しっかりと大きかった。
分娩室のベッドの上で、麻由は赤ん坊を胸に抱き、しばらく声を出さずに泣いていた。
「......どうした?」
聡がそう言うと、麻由は鼻をすすりながら首を振った。
「大丈夫。大丈夫。......大切にするね、この子」
あのときの涙の理由を、彼は問わなかった。
問わなかったことを、今は少しだけ後悔している。
陽が生まれてから、日々は慌ただしくなった。
夜泣き、ミルク、紙おむつ。
「寝不足......」と笑いながら、ふたりでソファに倒れ込んだ夜もあった。
それでも、愛おしい時間だった。
ある夜。
陽がようやく眠りについたあと、リビングに灯りがついたままだった。
麻由がひとり、椅子に腰かけていた。
その肩が、わずかに震えていた。
聡は、何も言わずにそばに座った。
しばらくして、麻由はぽつりとつぶやいた。
「......過去は、もう忘れた。あの子には、あの子の人生があるの」
しばらく沈黙があったあと、麻由は少しだけ微笑んだ。
「名前ね......いろいろ候補はあったけど、最後に"陽"に決めたのは、わたしなの」
聡は静かにうなずいた。
「春の陽射しみたいに、あたたかくて、やさしい子に育ってほしいなって思ったの。
明るい未来を照らすような、そんな存在に──そう願ったの」
そして心の奥で、麻由は続けた。
(過去がどうであれ、この子には、この子だけの人生がある。わたしが守っていく)
聡は、何も聞き返さなかった。
ただ静かに、彼女の手を握り返した。
そして麻由も、それに応えるように、手を握り返した。
心の奥で眠っていた波が、ふたたび揺れはじめていた。




