第3章|やり直しの光
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春の風が冷たさを和らげ始めたころ、麻由はひとり、大学の合格通知を握りしめていた。
コンビニでコピーされたペラ紙の封筒。受験番号の横に、小さく「合格」の二文字。
それは人生の再出発というには、あまりに静かな知らせだった。
小さなアパートの一室。北向きの窓からは朝の光が届きにくく、外壁の割れ目に草が生えている。
「新生活」と呼ぶには慎ましすぎる部屋だったが、麻由はその薄暗い床に直接座り、通知を何度も見つめていた。
前の大学を退学してから、もうすぐ2年が経っていた。
入学先は、長野県にある地方の国立大学──国際信州学院大学。
学部は文学部 人文社会学科、興味は心理と言語と教育。人間の心の輪郭を知りたくて、もう一度だけ勉強したかった。
再受験の準備は孤独だった。通信制予備校の教材は一人きりの机で開かれ、アルバイトのシフトの合間に詰め込むように進められた。
朝は早く、夜は長い。誰にも会わず、誰にも話さず、ただ「もう一度学びたい」と思い続けた。
4月。
新しい大学の入学式。体育館に響く拍手の中、麻由はひとり、最前列から少し離れた場所に座っていた。
周囲の新入生たちより少し年上の自分。
それを気にしている様子はなかったが、どこか空気を一枚隔てたような静けさがあった。
講義棟へ向かう廊下の途中、何度か目が合った男子学生がいた。
眼鏡をかけた少し猫背の青年。教科書をたくさん抱えて歩く姿が、どこか不器用で、でも真っ直ぐだった。
名前は聡。工学部 情報システム工学科。
グループワークの授業で初めて話し、何気ないやり取りが少しずつ重なっていった。
「これ、教えてくれてありがとう。助かった」
「いえ、こっちこそ......あなた、ノートすごく丁寧ですね」
春が夏に変わるころ、ふたりは昼休みに食堂で向かい合って座るようになっていた。
初めて一緒に行った学食では、麻由がサラダとパンだけを頼み、聡がカレー大盛を一瞬で平らげた。
「ちゃんと食べないと倒れますよ」
「お母さんみたいなこと言うんですね」
「......昔から、よく言われるの」
麻由はその言葉のあとに、いつもより少しだけ長く沈黙した。
秋のキャンパス祭で、ふたりは偶然にも同じ屋台の手伝いに回された。
麻由は焼きそばを手際よくさばき、聡は会計であたふたしていた。
「なんでこんな列ができるの!? 焼きそばってそんなに人気だっけ?」
「私が作ってるからじゃない?」
「......それ、言えるようになったんですね」
気づけば、ふたりは当たり前のように連絡を取り合い、課題を見せ合い、休日には近くの古本屋をめぐっていた。
冬、大学の図書館の一角。
窓の外では雪がちらつき、館内は受験生の緊張で張り詰めていた。
麻由は静かに本を閉じ、聡に言った。
「私、あなたに言ってないことがたくさんあるの」
「......そういうのは、言いたくなったらでいいよ」
「......そう言ってくれるの、嬉しい」
年が明けて、最初の春。
満開の桜の下、誰もいない川辺。聡が背中から取り出したのは、小さな箱だった。
「なんか、ちゃんと言わなきゃって思って」
麻由は黙って微笑んでいた。
「麻由。俺、君とこれからも一緒にいたい。たぶん、ずっと」
箱の中の指輪は、目立たないデザインだった。だけど、誰よりも確かな重みがあった。
麻由は静かにうなずいて、桜の花びらが風に流れる中、こう言った。
「......ありがとう。わたしも、そう思ってた」




