第2章|優しかった嘘
風の匂いが変わった瞬間を、麻由はいつも先に気づいた。
「ねえ、空気が春の匂いになったよ」
その言葉に聡が気づくのは、数日後だった。
休日の午後、三人でピクニックに出かけたときのこと。河川敷にシートを敷いて、手作りのおにぎりと唐揚げを広げていた。陽が空を指さして「鳥!」と叫んで走っていく。
聡は寝転がって、空を見上げながら「こういうの、あと何回できるかな」と呟いた。
「いっぱいできるよ」と、麻由は即答した。
「できるだけ、じゃなくて?」
「できるだけ、って言うと終わりがあるみたいじゃない。私は"いっぱい"がいい」
笑い合ったその午後の陽射しが、今でも聡のまぶたの裏に残っている。
ただ、そんな麻由が、ときおり見せる表情があった。
陽が寝静まった夜。キッチンで洗い物を終えた麻由が、窓の外を見つめていた。
「どうしたの?」と尋ねると、麻由は一瞬だけ微笑んで「なんでもないよ」と言った。
でもその横顔には、ほんの少しだけ、置き忘れた哀しみのような影があった。
そのときは深く追いかけなかった。でも今になって、あの"なんでもない"の意味を、聡は考えている。
大学時代、初めて二人で観た映画の帰り道。
あまり話さないタイプだった麻由が、珍しく感想を口にした。
「子どもがさ、親のことを"帰る場所"って思ってるの、すごくよかった」
「俺は全然泣けなかったけどな」と聡が言うと、麻由はそっと目元を指で拭いながら笑った。
「ううん、なんでもない」
後になって思えば、あのときすでに彼女の中には、家族への特別な想いが積もっていたのかもしれない。
陽が生まれた日、分娩室のベッドの上で、初めて赤ん坊を胸に抱いた麻由は、しばらく声を出さずに泣いていた。
「......どうした?」
聡がそう言うと、麻由は鼻をすすりながら首を振った。
「大丈夫。大丈夫。......大切にするね、この子」
あのときの涙の理由を、彼は問わなかった。
問わなかったことを、今は少しだけ後悔している。
大学時代、サークルの飲み会で昔の話になったときのこと。
「高校のとき、何部だった?」と誰かが尋ねた。
麻由は少し笑って、「帰宅部かな」とだけ答えた。
他の人が笑いながら次の話題に移る中で、聡はふと気づいた。
麻由が"その前"のことをほとんど語らないことに。
別の日には、誰かが「実家、どのあたりなの?」と聞いたとき、彼女は「ちょっと地方のほう」と言って、トイレに立った。
帰ってきたときには、話題はもう別の方向に進んでいた。
彼女が"語らないもの"を、当時の聡は気にも留めなかった。
けれど今思えば、あれは──まるで過去に、そっと手をかけさせないようにする結界だったのかもしれない。
〜 * 〜 * 〜
| 「あのね、聡」
| 「私、あなたに話していないことがあるの」
その言葉が表示された瞬間、聡は手の中のタオルを落としかけた。
あまりにも唐突で、あまりにも静かだった。
画面に浮かんだ麻由の言葉は、それまで続いていた穏やかな日常の時間を一瞬で切り裂いた。
聡はソファに腰を下ろし、膝の上で指を組みながら、ゆっくりとタイピングを始めた。
「何の話だ?」
少しの間を置いて、文字が返ってくる。
| 「あなたと出会う前のこと。私は......全部を話してなかった」
「大学のこと? 前に少し言ってたよな。別の大学にいたって」
| 「そう。でも、それだけじゃないの」
聡は息を呑んだ。何かが、自分の知らない何かが、この人にはあったのだとようやく実感として迫ってくる。
| 「あなたに会ったとき、私はもう......何かを捨てたあとだった」
| 「でも、そのことを話すことで、せっかく築いた日常が壊れてしまうような気がして......怖かったの」
画面に映る文字は冷たいはずなのに、確かに彼女の声で響いていた。
| 「でも今なら、話せる。私のすべてを、あなたと陽に残していきたいから」
聡は画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして静かに、指を動かした。
「話してくれ。全部聞くよ」
| 「ありがとう。じゃあ、少し時間をちょうだい。話す順番を、ちゃんと考えたいの」
その夜、聡はタブレットの画面を閉じたあとも、しばらく灯りを消さずにいた。
麻由の声が今も部屋のどこかにあるような気がして、耳を澄ませていた。




