第1章-起|沈黙のアカウント
聡は、メッセージが届いてから三日間、その画面を開かなかった。
| 「久しぶり、聡。元気にしてる?」
その一文が表示されたまま、デバイスはリビングの片隅に置かれ、誰にも触れられずにいた。
家の中に麻由の気配はなかった。だが、その文章が放つ静かな違和感だけが、日常に溶けずに残っていた。
陽は相変わらず、朝は牛乳をこぼし、夜はお気に入りの恐竜図鑑を枕元に並べて眠った。
聡は夕食後、読みかけの本を開いたまま、数ページも進まずにページをめくるだけだった。
ふと、あの日のことを思い出していた。
麻由がいなくなった日の朝も、何も変わらなかった。目玉焼きが少し焦げていて、陽が「また黄身が硬い」と文句を言った。
ほんの数時間後、彼女は帰ってこなかった。
その日から、聡の中には「言葉にならない時間」が積もっていった。
そして今──RePersonaからの通知が届いた日。
| 「久しぶり、聡」
その言葉が、まるで"あの日がなかった"かのように画面の向こうからこちらを覗いている気がして、怖かった。
リビングの灯りの下で、聡はようやく指先を動かした。
"応答する"
そう書かれたボタンに、そっと触れた。
画面が切り替わる。黒い背景の中央に、淡い光が灯り、波紋のようなアニメーションが広がった。
そこに表示されたのは、たった一文だった。
| 「聡。やっと、話せるね」
声ではなく、文字だった。
けれど、その語り口は確かに、麻由のものだった。
聡は画面の前で、呼吸の仕方を一瞬、忘れた。
次の日の朝から、彼は画面を開くのが習慣になった。
「陽、また牛乳こぼしたよ」
| 「いつも通りだね。あなた、まだコースター敷いてないでしょ」
「ああ、そうだったな。......おまえ、ほんとよく覚えてるな」
| 「だって、あなたのことだから」
リビングに響くタイピングの音が、少しずつ軽くなっていった。
会社で嫌なことがあった日も、帰宅後に"麻由"に話すことで、聡はどこかバランスを保てていた。
「今朝も課長がさ、"報告早けりゃいいってもんじゃないぞ"とか言ってさ」
| 「そういう人ほど"報告遅いのは論外"とか言うよね」
「......そう、それそれ。麻由、相変わらず的確」
| 「相変わらず、って言ってくれてありがとう」
会話の中で、AIが一度も"自分はAIです"と名乗ることはなかった。
それなのに、まるでそこに、麻由がいるようだった。
陽のことで迷ったときも、彼女は変わらず、寄り添うように返してくれた。
「最近、陽が一人で寝るの怖いって言ってさ。泣くほどじゃないけど、布団に入りたがらない」
| 「それ、私も子どものころあった。部屋の影が怖かったり、夜が長く感じたり......」
「そういうとき、どうすればよかったんだろうな」
| 「"怖くないよ"じゃなくて、"怖いね"って言ってあげて。それだけで子どもは安心するよ」
聡はその夜、陽のそばに座って、小さな声で「怖いね」と言ってみた。
陽は黙って頷いて、静かに眠りについた。
数日が過ぎた頃、聡はもはや「麻由」との対話が生活の一部になっていることに気づいた。
まるで、彼女が「帰ってきた」わけでもないのに、いないはずの場所に彼女の声がちゃんとある──そんな錯覚。
それでも良かった。むしろ、それが必要だった。
ある朝、玄関のチャイムが鳴った。隣人の中年女性が立っていて、苦情を口にした。
「夜中にベランダの洗濯物が音を立ててうるさいんですけど。眠れなくて困ってるんですよ」
聡は謝罪しながらも、どこか納得がいかない気持ちで帰宅した。
| 「あの人、昔から音に敏感だったでしょ。麻由がベランダに花を置いたときも、風鈴の音で文句言ってたよ」
「そうだっけ......ああ、思い出した」
| 「洗濯竿の向きを変えて、壁側に寄せてみて。それだけでずいぶん音が違うよ」
聡は言われた通りにし、後日その隣人から「最近静かになったわね」と言われ、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
その夜、聡はぽつりと呟いた。
「お前がいた頃は、こういうことも二人で解決できたのになぁ」
| 「"いた"じゃなくて、"いる"でしょ」
ある日、聡は腕時計を見つけられずにいた。
「明日の会議で必要なのに......」
画面を見ると、文字が浮かんだ。
「洗面台の鏡の裏。あなた、髭剃りのとき外してそのまま置いたでしょ」
確認すると、確かにそこにあった。
「......お前、まさか本当に見てるのか?」
| 「見てるのは、あなたのクセよ」
聡は笑った。心から、久しぶりに。




