第8章|あなたへ、わたしから
結愛が麻由の娘だと分かってから一週間が過ぎた。
聡は毎日の迎えで、あの子の姿を見るたびに胸が詰まった。麻由に似た笑顔、仕草、優しさ。それらすべてが、失われた時間を物語っているようだった。
陽は相変わらず結愛を慕い、結愛も陽を本当の弟のように可愛がってくれている。二人が一緒にいる光景を見ていると、血のつながりというものの不思議さを感じずにはいられなかった。
その日の夜、聡がリビングでくつろいでいると、タブレットから突然通知音が鳴った。
画面を見ると、見慣れない表示が出ていた。
| 「条件をクリアしました。メッセージを送信します。」
「なんだろう?」
聡は首をかしげた。RePersonaから、こんな通知が来たことはなかった。
画面が切り替わると、新しいメッセージが表示された。
| 「メッセージが2件あります。開封しますか?」
聡は戸惑った。何の条件をクリアしたというのだろう。そして、なぜ今になって2件ものメッセージが?
「麻由?」
画面に向かって呼びかけたが、いつものような応答はなかった。ただ、「開封しますか?」という選択肢だけが表示されている。
聡は「はい」を選択した。
| 「1件目:陽くんへ」
| 「2件目:ゆめちゃんへ」
聡の心臓が早鐘を打った。
ゆめちゃんへ。まさか、結愛のことだろうか。
| 「1件目から再生します」
麻由の声が、久しぶりに部屋に響いた。
| 「陽くん、お母さんよ。この声を聞いているということは、きっとお母さんはもう、あなたのそばにいないのね」
その声は、生前の麻由そのものだった。温かく、優しく、そして少しだけ震えていた。
| 「でも、覚えていてほしいの。お母さんは、あなたに会えて本当に幸せだった。あなたが生まれてきてくれて、ありがとう」
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| 「あなたは、お母さんが生きることの意味を教えてくれた。愛するということを教えてくれた。そして、未来への希望を与えてくれた」
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| 「時々、お母さんが恋しくなるかもしれないね。でも、お母さんはいつでもあなたのそばにいるよ。あなたが優しい気持ちになったとき、誰かを大切に思ったとき、お母さんもそこにいるの」
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| 「パパを大切にしてね。あの人は、とても優しい人よ。きっと、あなたを立派な大人にしてくれる」
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| 「そして......きっと、あなたには素敵なお姉さんのような人が現れるでしょうね。その人を大切にして。その人も、きっとあなたを大切にしてくれるから」
音声が途切れた。
聡は涙をこらえるのに必死だった。隣の部屋で眠っている陽に、いつかこの声を聞かせる日が来るのだろうか。
| 「2件目を再生します」
再び、麻由の声が響いた。
| 「私の大切な人へ。もしこの声があなたに届いているなら、それはきっと奇跡ね」
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| 「あなたを手放したあの日のことを、私は一日も忘れたことがない。でも、後悔はしていないの。あなたが愛されて、幸せに育つために、私にできる最善の選択だったから」
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| 「あなたの名前は『ゆめ』。私があなたに託した、たった一つの贈り物。でも、きっと新しいお父さんとお母さんが、もっと素敵な名前をつけてくれたでしょうね」
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| 「一週間だけだったけれど、あなたと過ごした時間は、私の人生で最も美しい時間だった。あなたの小さな手、寝顔、初めて見せてくれた笑顔......すべてが宝物」
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| 「私はあなたの『産んだ母』。でも、あなたを『育てた母』は別にいる。その人こそが、あなたの本当のお母さんよ。その人を大切にして、愛してあげて」
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| 「でも、もし時々、心の奥で何かを探しているような気持ちになったら......それは私があなたを愛していた記憶かもしれない。その時は、空を見上げて。きっと私も、同じ空を見ているから」
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| 「私は、あなたたちの『母』であることに、誇りを持っている。産んだ子も、育てた子も、どちらも私の大切な宝物。あなたたちがいてくれたから、私は母親になれた」
音声が終わった。
聡は深い沈黙の中で、麻由の想いの深さに圧倒されていた。
何の条件をクリアしたのか、聡にはわからなかった。でも、このタイミングでメッセージが送信されたということは、きっと何か意味があるのだろう。
翌日、聡は勇気を振り絞って佐藤さんに声をかけた。
「あの、少しお時間をいただけますか。大切なお話があります」
佐藤さんは少し驚いたような表情を見せたが、快く応じてくれた。
「結愛、先に帰って宿題をしていて」
「うん。陽くん、また明日ね」
結愛が手を振って去った後、聡は佐藤さんと向き合った。
「実は......私の妻のことで、お話したいことがあります」
聡は慎重に言葉を選びながら、麻由のこと、そして結愛が彼女の最初の子だったことを話した。
佐藤さんの表情は、驚きから理解へ、そして深い共感へと変わっていった。
「そうでしたか......」
「私たちも、結愛を迎える時に聞いていました。若いお母さんが、愛情深く育ててから託してくださったと」
「お名前も『ゆめ』と聞いていたので、私たちもその響きを大切にして『結愛』と書いて『ゆめ』と名付けました」
聡の目に涙がにじんだ。
「奥様からのメッセージがあるとのことですが、ぜひ結愛にも聞かせてあげたいです」
「本当によろしいんですか?」
「はい。結愛には、いつかこの日が来ることを話してありました。産んでくださったお母さんのことを知る日が来ると」
その夜、佐藤家のリビングで、三つの家族が集まった。
聡と陽、佐藤夫妻と結愛。
「結愛、あなたを産んでくださったお母さんからのメッセージがあるの」
佐藤さんが優しく説明すると、結愛は少し緊張しながらも、興味深そうに頷いた。
「その方のお名前は、麻由さん。そして、陽くんのお母さんでもあるの」
結愛の目が大きく見開かれた。
「ということは......」
「そう、あなたたちは本当の兄妹なの」
陽へのメッセージから再生が始まった。
陽は最初こそきょとんとしていたが、「素敵なお姉さんのような人」という部分で、結愛を見上げて微笑んだ。
続いて結愛へのメッセージが流れると、結愛は静かに涙を流し始めた。
陽は結愛の手を握り、自分も涙を流していた。
音声が終わると、しばらく誰も言葉を発しなかった。
「素敵な人だったのね、私のお母さん」
結愛が最初に口を開いた。
「でも、私には今のお父さんとお母さんがいる。それは変わらない」
「もちろんよ」と佐藤さんが微笑んだ。
「あの方も、それを一番願っていらしたのよ」
陽が結愛を見上げた。
「ゆめちゃん、本当にお姉ちゃんだったんだ」
「うん。そうみたいね」
結愛が陽の頭を優しく撫でた。
「でも、それは前から感じてた気がする。陽くんといると、なんだか懐かしい気持ちになったの」
その夜、家に帰った聡は、不思議に思っていたことを画面に向かって呟いた。
「麻由、あの『条件をクリア』って、何のことだったんだ?」
しばらく画面に何も表示されなかった。
そして、いつものように文字が現れた。
| 「気になる?」
「ああ、とても」
| 「今度教えてあげる。でも今は、秘密」
聡は苦笑した。生きていた頃と同じように、麻由は時々いたずらっぽい顔をする。
| 「とにかく、私の愛は届いたのね」
「ああ。君の愛は、確かに二人の心に届いた」
その夜、聡は久しぶりに深い眠りについた。
麻由の想いが、ようやく完結したような気がしていた。
でも、これは終わりではなく、新しい物語の始まりなのかもしれない。
陽と結愛が、これからどんな兄妹の絆を築いていくのか。
それを見守ることが、聡と麻由に残された新しい使命なのかもしれなかった。
そして、あの謎めいた「条件」について、聡はまだ知らずにいた。




