無敵の人
「……ん、はい、はーい」
ある朝、とあるアパート。インターホンのしつこい呼び出し音にせき立てられ、男は布団から這い出た。ぼんやりとした頭のまま、ふらふらと玄関に向かい、ドアを開けた。
「どうも、あなたを連行しに参りました」
「……は? あ、ちょっと」
立っていたのは長身の男だった。無表情に薄いサングラス。長い黒いコートを羽織り、声も抑揚がなく淡々としていた。男はずい、と一歩踏み込み、玄関の敷居を越えてきた。
「あの、連行って……え、警察の方ですか? でも、おれは何も……」
逡巡するまでもなく、犯罪めいたことなど何一つしていない。だが男は表情を一切変えず、冷えきった声で告げた。
「私は警察ではありません。危険人物を事前に隔離するための機関に所属する者です」
「……は? 危険人物?」
「あなたは近隣の住民など複数の人物から、危険な存在と認識されています。したがって、同行していただきます」
「いや、ちょ、ちょっと待ってくれ。誰がそんなことを言ったんだ」
「それを知って、どうするつもりですか?」
「それは……いや、別にどうもしないよ。やめてくれよ、そんな言い方されたら、おれが今にも何かしそうなやつみたいじゃないか……」
彼は乾いた笑いをこぼした。だが男は、ピクリとも口角を動かさなかった。
「外に車を用意してあります。行きましょう」
「いや、だからなんでだよ!」
彼は男の手を振り払った。しかし、男はまったく動じず、淡々とした口調で続けた。
近年、社会的に失うものがなく、死刑になってもかまわないと考える者――いわゆる“無敵の人”による凶悪犯罪が急増している。だから政府はその対策として、予兆のある者を事前に隔離する制度を新設した。調査に基づき、対象者と判定された人物は、速やかに隔離する、と。
「……そんなニュース、見たことも聞いたこともないですよ」
「あなたが見ていないだけです。いい加減、自分の状況に気づきましょう」
「でも、危険人物なんて言われても、身に覚えがないしな……」
「では、確認します。現在、あなたは長期間無職ですね?」
「それは……まあ、はい。でも、パワハラで精神的にやられたあげく、辞めさせられたんですよ。今は貯金で生活してますけど、いずれは、また……」
「友人や知人、近隣住民との交流もない」
「まあ、地元を離れて一人暮らしなので……」
「毎日、同じ弁当を買っている」
「はい、唐揚げ弁当を……ん? いや、それは別に関係ないでしょう」
「気持ち悪いと思われているそうです」
「えっ、弁当屋に……? 知らなかった。いや、知りたくなかったな……」
「あと、前から歩いてきた子供をじっと見ていた」
「え? ……ああ、いや、それはそうでしょう。ぶつからないように気をつけていたんですよ。子供は予想外の動きをしますから」
「気持ち悪いそうです」
「えええ……それも近所の人が言っていたんですか?」
「通報は匿名制です。それから、よく独り言を言う。突然大声を出す」
「いや、それはしたことないですよ」
「さっき、『だからなんでだよ!』と大きな声を出したじゃないですか」
「それは驚いたからですよ。それに、そんなに大きな声じゃなかったでしょうが」
「もう、充分わかったでしょう。あなたは危険人物なのです。これだけの要素が積み重なれば、社会的に危険と判断されるのも当然です。さあ、行きましょう」
「いや……」彼は唾を呑み込み、男を睨みつけた。
「勝手に人を危険人物扱いするなよ……引きこもってるだけで、犯罪者予備軍か?」
「おっ」
「……テレビでもそうだ。そうやってレッテル張って、見下して、その次は勝手に怯えて攻撃するのかよ」
「おおっ」
「いや、『やるのか?』じゃないよ。おれは絶対に犯罪なんてしない! むしろ、そういうやつらを軽蔑している」
「もう決まったことですので。さあ」
「やめろって……それに、連れて行かれたらどうなるんだ?」
「必要なことをします」
「それって……ははは、脳に電気でも流すのか? それともワクチンでも打つ? チップを埋め込む? 電波で行動を抑制? ふざけるなよ。あ、おい、やめろ、はなせ!」
彼は男の腕を振りほどき、部屋の奥へと逃げた。そして、キッチンの引き出しを開け、包丁を取り出し、震える手で構えた。
「やめろ、来るなよ……」
「……あなたは少し誤解しているようですね」
男はそう言うと、初めて微笑んだ。
「誤解……?」
「我々が望んでいるのは、あなたに“監視される側”ではなく、“監視する側”になっていただくことです。危険人物を探し、見張る任務。あなたが危険人物になる可能性を排除するには、あなた自身が見張る立場に就くのが最も合理的ですからね」
男はコートの内ポケットからカードケースを取り出し、身分証を差し出した。そこには『地域監視員』と記されていた。
「このあと説明会があるのですが、一緒に来たくなければ、それでも構いません。制服と装備は後ほど郵送されますが、ご自身で揃えていただいても構いません」
「なんだ、そうだったのか……ははは、はははは!」
緊張の糸が切れた彼は、その場で声を上げて笑った。
数日後。ツナギを着た彼は、街の交差点の片隅に立っていた。壁に背を預け、無表情で通行人の姿をじっと目で追う。
その前を、手をつないだ親子連れが通り過ぎた。
「……ねえ、ママー」
「んー?」
「今の人、なんか変ー」
「しっ、そういうこと言わないの。あれは……ああいう人なのよ。ほら、前を向いて歩いて」
「……おれは監視する。この社会を……守る……おれは監視員……おれは……」