イケメンに懐かれました
平凡なサラリーマン晴はお腹を空かせた青年千景にご飯をあげたことから始まる恋愛ストーリー。
2人の恋の行方は…
※BL小説のため抵抗ない方のみお読みください。
イケメン美大生(千景)✖️平凡サラリーマン(晴)
1
東京の片隅、駅から徒歩15分、築古アパート「潮見荘」——。
木造二階建て、壁はところどころ風雨に剥がされ、玄関の鍵は微妙に回しにくい。けれど、風通しだけが良いこのアパートに、30歳手前の平凡サラリーマン神林 晴は住んでいた。
平日は会社と自宅を往復し、夕食はコンビニかインスタント。趣味らしい趣味もなく、同僚との飲み会も断りがち。そんな日々に慣れきっていたある夏の夜——。
「ん……?」
会社から帰ってきた晴がアパートの前へと差し掛かったとき、階段下の陰に人影が見えた。
「おい、大丈夫……!?」
思わず駆け寄る。
そこには、長い手足を折り曲げて座り込むように倒れている、見知らぬ青年。
ぐったりとしながら目をこちらに向ける。
「……お腹、空いた……」
呆気にとられて見つめ返すと、その青年は身長190センチはありそうなスラリとした体に、美形すぎる顔をしていた。パジャマがわりのジャージすら、モデルのように着ている。
「え?」
「……お腹空いて、動けなくて……」
「ええ? あ、じゃあ……これ、とりあえず」
晴は買い物袋から朝食用に買っておいたコンビニ弁当を取り出して差し出した。
「ありがとう……!」
スッと受け取ると
「……うまっ……! うっま……!!」
想像を超える勢いで弁当が彼の胃に吸い込まれていく。
「そんなに……?」
「うん。俺、引っ越しでお金、使い切っちゃって……明日バイトの給料日だからなんとかなると思ったんだけど、甘かった……」
すでに空になった弁当を前に、彼は申し訳なさそうに笑った。
「あ、俺 天津 千景 って言います。今日、上の角部屋に越してきました。お兄さんは?」
「神林晴。上の302号室…隣ってことになるのかな。 でも、そんな無理するなよ。危ないぞ、ほんとに。」
「気をつけます!ほんと、ありがとうございます!明日、給料入ったら、お礼させてください!」
「いや、いいよこんなの。たかだかコンビニ弁当だし」
「いや、絶対お返しします!ほんと、ありがとうございました!」
そう言って、千景は深く頭を下げ、軽く手を振って階段を駆け上っていった。
翌日。いつもより少し遅く帰宅すると、アパートの前に誰かがいた。
「あっ、晴さん!」
大量のスーパーの袋を両手に抱え、笑顔でこっちに駆けてくる高身長の青年、それが千景だった。
「昨日のお礼に、ご飯作ります! だから今日は外食禁止です!できたら呼ぶので、待っててください!」
「え、あ、うん……」
一方的に決意を伝え、袋を片手に階段を上っていく背中を見送りながら、晴は小さくつぶやいた。
「……なんなんだこの子……」
しばらくして、ドアをノックする音がした。
「できました!ぜひうちに来てください!」
部屋のドアを開けると、絵の具の匂い、乾いた風、そしてこなれた調味料の香りが混ざっていた。
「どうぞー!」
案内された六畳一間の室内は、思いのほか居心地が良かった。壁際には大きなスケッチブック、キャンバス、油彩や筆が散らばり、床には美術系の専門書が積まれている。
食卓には炊きたてのご飯、豚の生姜焼き、具だくさんの味噌汁、彩り豊かな副菜の数々。
「え……これ、ほんとに君が?」
「もちろんです!バイト先、カフェ兼定食屋なんで! 食材も割引してもらえました!」と誇らしげに胸を張る。
「……うまっ」
ほろりと柔らかい肉に、しっかり染みた生姜の風味。味噌汁の出汁もちゃんととっているのがわかる。
「えへへ、うれしい」
千景は満足そうに晴の反応を見て笑った。
その笑顔に、晴はついハシを止めた。
普段の静かな暮らしが、この数日で少しずつ色づいていく予感がした。
—きっとこの青年は、ただの「隣人」では終わらない。
気づけば、そんな予感がしていた。
2
千景と晴の距離は、その夜を境に少しだけ縮まった。
とはいえ、急に親しくなれるほど、晴は器用な人間ではなかった。
「……うまい料理なんて、久しぶりだったな」
ある日曜の遅い朝、インスタントコーヒーを淹れながら晴はつぶやいた。
あれから何度か「ごはん食べに来てください」と千景に誘われ、その度に「悪いな」と言いながら、ちゃっかり千景の部屋で夕食をごちそうになっていた。
「ねえ、晴さんって美術とか興味あります?」
ある日、千景が煮込みハンバーグを皿に盛り付けながら、ぽつりと尋ねた。
「んー……学生のときは美術の成績落とした記憶しかないなあ。ああいうの、センスがなきゃ無理でしょ」
「まぁ、そう思ってる人、多いですよね。でも、見るのはどうですか?美術館とか」
「……美術館、か。中学の遠足以来じゃないか?」
「じゃあ、今度一緒に行きましょうよ!」
目をきらきらさせて笑う千景の姿は、どこか犬みたいで、断る理由が思いつかなかった。
「……休み合えば、考えとく」
「やったー!」
無邪気に喜ぶ千景を見ながら、晴は何とも言えない気持ちになっていた。
こんな風に嬉しそうに笑いかけられたのは、いつぶりだっただろう。
毎日を「無難」に生きて、「波風立たず」が最優先だった自分の部屋に、爆風のように入り込んできた青年。
晴はふと、千景の部屋にある一枚の絵に目を止めた。キャンバスには何人かの人物が描かれていたが、どれも輪郭が曖昧で、表情もよくわからなかった。
「これ、描きかけ?」
「ん……完成はしてる。けど、タイトルが決まらなくて。『何者にもなれなかった人たち』って仮にしてます」
「……ずいぶんヘビーだな」
「うん、自分のこと。僕、いろんなものになりたくて、美大に来たけど……結局、どれも中途半端なんですよ。絵も、勉強も、人付き合いも」
いつになく静かな声で千景は言った。あの明るさの奥に、こんな陰を抱えていたなんて——と、晴の胸がちくりとした。
「……でも、晴さんとこうして話したことで、少しラクになったんです。なんか、ああ、ちゃんと生きてる人っているんだなって。」
「俺なんて、“ちゃんと”生きてるってほどじゃないけどな。仕事行って、帰って、寝て、の繰り返し。趣味も夢も、何もないし」
「でも、ちゃんと人を心配できるし、ちゃんと…優しいっすよ」
そう言われて、晴の胸が熱くなった。
なぜか、目が千景と合うと、言葉が喉に引っかかるように詰まるのだった。
次の週末、晴は「じゃあ土曜、昼から空いてる」とLINEを送った。
すぐに「了解です!上野でどうっすか!待ち合わせ何時にします?」と返ってきた。
千景と出かける約束をしたのは、大人になってから初めての「友達」としてか、あるいは——もっと特別な感情としてか、自分でもまだよくわからなかった。
ただ、その日が来るのが楽しみで、ひとりきりの部屋が、なんだか以前より少しだけ、色づいて見えた。
3
土曜日の上野。風が柔らかく、陽射しは眩しいけれど暑すぎず、ほどよく過ごしやすい春の午後だった。
待ち合わせは東京都美術館前。
晴は少し早めに着いた。美術館前は休日らしく人が多く、カップル、親子連れ、一人でスケッチブックを広げて風景を描いている人までいた。
「うわ、ほんとに晴さんって先に来てるんですね」
その声に振り返ると、そこには私服の天津千景がいた。身長190cmは目立つ。
白いシャツにグレーのゆるいカーディガン、ダークデニムにスニーカー。シンプルなのに、モデルのページから抜け出たように潔いおしゃれさ。
「待たせるの好きじゃないからな」
「ふふ、真面目ですね。じゃ、行きましょ?」
美術館の中は、静かで涼しく、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
ちょうど「印象派」展をやっていて、モネやルノワール、ドガの作品が何点も並んでいた。
「これ、すごい光の描写だな……」
晴が知らず口にすると、千景が横で小さく笑っていた。
「うふふ…晴さん、雰囲気のあること言うじゃないですか」
「べつに狙ってないから……」
「でも、本当にそうですよ。モネって、対象そのものじゃなくて、“その瞬間の空気”を描いてる感じしません?」
千景は楽しそうだった。
絵の前に立つと、その真っ直ぐな視線はキャンバスに吸い込まれるようで、彼自身が絵の一部みたいだった。
晴は気づけば、千景の横顔ばかりを見ていた。
ふと、美術館の一角に展示された習作用のクロッキーの前で彼が立ち止まる。
「……これ」
「どうした?」
「高校のとき、こういうのばっかり描いてました。線を正確に引く練習。上手く描けるようになる=認められる、って思ってて。でも、形だけ綺麗に描けても、“何か”が足りなくて、いつも評価は微妙だったんです」
「……自分では納得できてたのか?」
「できてなかった。うち、両親とも美術にうるさくて、兄も賞とか取ってて、だから僕だけ“普通”でいるのが怖かった。絵で何かになろうとして、でも、何にもなれなかったの」
晴は、返す言葉が見つからなかった。
ただ、横に立って、彼の疲れた瞳の先を同じように見つめた。
「……今描いてる絵、“何者にもなれなかった人たち”って言ってたな」
「うん。あれ、多分、過去の自分を描いたんだと思う。“上手くやらなきゃ”って思ってた頃の」
「……今は?」
「いまは……素直に描いてます。何者かじゃなくて、“自分”に近いやつを」
そう言って千景は笑った。眩しいのに、どこか切ない笑顔だった。
その帰り道、アパートへの坂道で千景がポツリと言った。
「ねえ、晴さんってさ、付き合ってる人いないんですか?」
「……いないよ。まあ、別に、意識して避けてるわけでもないけど」
「ふーん。じゃ、たとえば」
千景が急に立ち止まり、晴の方に向き合った。
「例えば――自分より年下で、ちょっと変で、料理上手で、たまに不器用だけど真っ直ぐな男と付き合う、ってどう思います?」
「……」
少し強く吹いた風に、千景の前髪がふわりとなびいた。
まるでモネが描いた風景画の中に立たされたような、不思議な揺らぎのある時間。
冗談…かもしれない。
でも、この一言をなぜか冗談だと受け取れなかった。
「真剣に聞いてんのか?」
「もちろん」
千景の目は、笑っていなかった。
「……考えさせろ。ちゃんと考えたい」
「うん」
返事はそれだけ。だけど千景は、満足そうにうなずいて、再び横に並んで歩き出した。
その夜、晴は布団の中で眠れなかった。
千景の言葉、横顔、モネの光、静かな風景……。
なんだか、ずっと「自分には似合わない」と思っていた色彩が、自分の世界にじんわりと差し込み始めていた。
これが恋かどうか、まだわからない。
でも、千景といるとき、“呼吸する自分”が、確かにそこに在る気がした。
その日から、晴の中で何かが、静かに、確かに変わっていった。
4
その日、東京には朝から雨が降っていた。
しとしとと降り続ける静かな雨。グレーに染まった空を見上げながら、晴は傘を斜めに差して出勤の坂道を歩いていた。
頭の中はずっと、あの言葉が巡っていた。
「例えば――自分より年下で、ちょっと変で、料理上手で、たまに不器用だけど真っ直ぐな男と付き合う、ってどう思います?」
あれから千景は、特に何も言ってこない。
けれど、ごはんの誘いは変わらずで、まるで何事もなかったように接してくる。
それが、逆に意識させられる。
その夜、会社から帰宅すると、隣の部屋からは包丁の音と、煮込み料理の香りが漂っていた。
部屋の鍵を開けたところでちょうど千景が扉を開けた。
「あ、晴さん。今日、肉じゃがです」
「そっか……悪いな。いつも作ってもらってばっかで」
「んー別に。楽しいし、それに……」
千景は言いかけて、ふと口を閉じた。そして小さく笑う。
「……来てくれるの、ちょっと嬉しいから」
その言葉に、晴は息が詰まるような気持ちになった。
何気なく言われたのかもしれない。でも、心の奥がさざなみのように揺れた。
夜、食事を終えて、いつになく静かな雰囲気になった。
千景がガラス窓に寄り、指でポツポツと水滴をなぞっていた。
「……子どもの頃、雨の日が怖かったんです」
ぽつんと、千景は言った。
「え?」
「兄が……とても優秀で、両親も厳しくて、静かにしてないと怒られてた。特に雨の日は、兄の絵に集中できないとかで、家の中がピリピリしてて……自然と、“雨=家にいてはいけない”って、思うようになった」
初めて聞く、千景の過去。
「じゃあ、外に出てたのか? 雨の中」
「うん、傘さして、びしょびしょになりながら公園とか。誰もいないのが好きだった。見上げると空が灰色で、ああ、自分って誰にも見られてないんだって思えて、なんか……安心した」
「それは、安心って言わないだろ」
晴は、そっと横に腰を下ろした。
「お前が見えてないと、つまんない奴って、結構この世にはいっぱいいるよ」
千景の肩が、わずかに揺れた。
「晴さんは、こういうときめちゃくちゃ優しいですね……」
「いや、別に…自分のことを雑に扱ってるやつ見ると、腹立つだけだ」
沈黙が落ちた。雨が、少し激しくなった。
そして千景が、ぽつりと。
「もし、俺が…全部投げ出したくなったら、そのとき、晴さんのとこ来ても……いいですか?」
それは、冗談ではなく、本気の声だった。
晴は言葉を選びながら、静かに答える。
「俺の部屋は狭いぞ。コンビニ飯とソファと洗濯物しかない」
「それでも……」
千景が目を伏せながら、続けた。
「晴さんがいるだけで、そこ、俺にとっては安全地帯な気がする」
沈黙が、また落ちる。
けれど今回は、それを壊すように、晴がそろそろと口を開いた。
「……お前さ」
「はい」
「“付き合うってどう思いますか”って言ってた件、考えた」
千景がゆっくりこちらを見る。
その目に、わずかに光が宿っていた。
「俺、不器用だし、年下の相手とか慣れてないし。恋愛だってまともにしてこなかった。……でも」
「でも?」
「……お前が俺の部屋に来るの、別にイヤじゃない。むしろ、来てくれたら嬉しいと思ってる」
千景が、静かに目を見開いた。
「それって……」
「だから、たぶん、俺……好きなんだと思う。まだはっきりわからないけど……関係、ちゃんと考えたい。ふざけてより、真面目に進めたい」
ほんの数秒、言葉が降りてこなかった千景が、ぽつりとつぶやいた。
「……すごい。晴さん、ちゃんと正面から答えてくれるんですね。すごく、真っ直ぐ」
そんなふうに言われたのは、人生で初めてだった。
「だから、今日、雨の日、俺にとっては怖くなくなりました」
そして千景が、ふわっと笑う。
その頬に、さっと紅が差していた。
「晴さん、俺、けっこう本気ですからね?」
「わかってるよ」
2人の間に落ちた静かさは、安心の静けさだった。
窓の外ではまだ雨が降っている。
けれど、心の中には、確かに少しだけ――光が差していた。
5
それは、まるで時間の流れが少しだけ変わったような感覚だった。
「付き合う」とははっきり言葉にしていないけれど、互いに気持ちは伝え合った。
あの夜を境に、千景との距離が少し変わった気がした。
けれど、何がどう変わったのか──それを言葉にするのはまだ怖かった。
「じゃあ今日は和風パスタにしよっかな〜」
ある日の夕方、いつものように階段を駆け上がりながら千景が振り返る。
変わらず自然体で、あの日の雨に濡れた感情なんてなかったかのように、明るく笑っていた。
晴もまた、いつもどおりのような顔で「助かる」と答えた。
なんでもないことのように、いつもと同じ夕飯を食べ、他愛ない話をして、部屋を出る頃には「じゃあ、また」と言って笑う……。
だけど、それだけでは足りなくなっていた。
その夜、晴は寝る前にスマホを見たまま、指を止めた。
天津千景
連絡先はずっとフルネームだった。
画面を眺めながら、ふと思う。
──下の名前で呼んだこと、ないな。
思い返せば、向こうは「晴さん」と呼んでくれていた。最初からずっと。
敬意を含んだ、でも少しだけ親しみのこもった呼び方。
──名前で呼んでみたい。
そう思っても、口に出す自信がなかったのは、自分の気持ちが揺れ始めていた証拠だった。
数日後。日曜の午後。
千景が自分の部屋で作品の仕上げに取り組んでいた。
「なあ」
ひょいと顔を出すように、隣のベランダから晴が顔を出した。千景は手を止める。
「めずらし〜。どうしました?」
「いや……えっと、その、さ」
「……?」
少し居心地悪そうに首をかく晴を見て、千景がくすっと笑う。
「急に改まるってことは、何か聞きたいとか?」
「あー……そうかも」
一呼吸置いてから、晴は口を開いた。
「名前、呼んだら困るか?」
千景が一瞬だけ、目を丸くした。
「……俺の?」
「ああ、上手く呼べるかわかんないけど」
そのときの千景の顔は、どこか子供みたいだった。目の奥がきらきらして、頬は少し赤くて。
「ぜ、ぜんっぜん困らない!ていうか、むしろ……呼んで、ほしい」
照れ笑いと本音の混ざった声。
ああ、この子は、強く見えて、すごく臆病なところがあるんだなと、晴は思った。
「……千景」
その名前を呼ぶと、たしかに空気が揺れた。
絵の具の香り、少しぬるい室温、古びた床鳴り──その中で、大事な音だけがくっきりと響いていた。
「今呼ばれたの、ちょっと心臓にくるんだけど」
「じゃあ、やめとくか」
「やめないで。もっと呼んでください」
そして、何気ないように笑った。
千景。
ただそれだけの名前に、こんな温度が宿るとは、思っていなかった。
数日後の夜。
千景が急に料理を失敗した。焦げたオムライスに頭を抱えている。
「もしかして、何かあったか?」
晴がそう声をかけると、千景はぽつり。
「大学の指導教授に言われたんです。“お前の描くものは、まだ甘い。誰にも伝わらない”って」
「それで?」
「ちょっとだけ、悔しくて。……自分は変わったと思ってたけど、何ひとつ届いてない気がして」
沈んだ千景が、いつになく小さく見えた。
晴は、言った。
「作品の価値って、人が決める部分もあるけどさ。お前の絵を観て、“立ち止まりたくなる”人間は、少なくとも俺一人はここにいる」
その言葉に、千景は何も言わず、ただまた目元をゆるめた。
「……なにそれ、反則」
「これぐらいなら、俺だって言えるよ」
返した晴の顔には、ほんの少し照れが混じっていた。
部屋に戻って一人きりになっても、晴の胸の奥はまだじんわりと熱かった。
名前を呼ぶ距離。
それだけで、心に触れるような気がした。
それはまだ「恋人」とは呼べない、けれど確かな関係。
一歩ずつ、一歩ずつ、お互いの心の影に色を重ねていく。
淡く、だけど強く。
6
それは唐突な感情だった。
自覚した瞬間、心の奥がざわついた。
それは──やきもち、というやつだった。
「晴さーん、今日ちょっと遅くなりますー」
ある雨上がりの夕方。
階段をのぼる途中、上から千景の声が降ってきた。
肩からキャンバスバッグを下げたその姿は、学校帰りの大学生というより、何かに急かされているアーティストといった雰囲気だった。
「教授との面談長引いちゃって。あ、でも今一緒に帰ってきたやつがいて──」
そのとき、千景の後ろから、もうひとりの男が現れた。
長袖のシャツに斜めがけのトート、少し癖のある髪に眼鏡。
見るからに「美大生男子」とわかる、柔らかくて頭の良さそうな印象。
「ごめん駅まで送れなくて!今日は話聞いてくれてありがとう!」
千景がその男に笑いかけると、彼も朗らかに手を振って去って行った。
「同期なんです。デザイン科で。ちょっとだけ相談にのってもらってて」
千景は悪びれもせずに笑う。
それはあくまで自然で、理由も納得がいく。
なのに。
胸の奥がすっと冷たくなった。
他の人と話す千景。
他の人にだけ見せる顔があること。
自分が知らない千景の世界が、こんなにも近くにあること。
──それが、妙に胸に引っかかった。
その夜の夕食は、いつもより少しだけ静かだった。
ピーマンとじゃこの炒め物。炊き立てのご飯。出汁のきいた味噌汁。
千景はいつも通り楽しそうに話していたけれど、晴は思ったよりうまく相槌が打てなかった。
「あれっ、もしかして……」
「ん?」
「ヤキモチ、やいたりしました?」
心臓が跳ねた。
「妬いてねぇよ」
「おお〜即答!」
「……多少……な」
「うわっ、言った!!」
千景が、机に突っ伏すようにして笑う。
その笑い方が、本当に嬉しそうで。
晴は、ご飯を噛みながら、視線をそらした。
「正直いうとさ」
千景が少し真面目な顔をして口を開く。
「晴さんがちょっとだけ妬いてくれたり、気にしてくれるのって──すごく、安心する」
「安心?」
「うん。自分だけが好きで、一方通行な感じがずっと怖かった。でも……晴さんが俺のことでちょっともやもやするって、ああ、好きでいてくれてるんだな、って思えるから」
「……」
どう返したらいいかわからず、晴は黙った。
ただ、手元の茶碗を置いて、正面の千景に向き合った。
「――なあ」
「はい」
「お前、俺に何か隠してねえ?」
千景の笑みが、かすかに翳った。
しばらくの沈黙のあと、千景が壁際のスケッチブックをそっと手に取った。
「……これ、見せていいかわかんなくて、今まで隠してました」
開いたページには、何枚もの“人物画”が描かれていた。
だが、そのどれもが……見覚えのある顔だった。
──晴だった。
読書している横顔。眠っている表情。歩いている後ろ姿。
どれも、驚くほどリアルで、美しかった。
「俺、何回も描いてたんです。晴さんを。気がついたら描いてて、感情が乗ってくると、筆も止まらなかった」
千景の指が、ページをめくるたびに震えていた。
「でも、自分の感情を絵に持ち込むなんて、学生としては未熟だって言われて。だから、本当は誰にも見せたくなかった。隠してました」
「……お前、これ全部、俺か?」
「うん」
正直、驚いた。
こんなふうに、自分が誰かの見つめる対象になったことなんて、今までなかった。
「なあ、千景」
「はい」
「……なんで俺だったんだ?」
千景は少しだけ笑って、それから真剣な眼差しで言った。
「晴さんが、自分を嫌ってないからです」
「え?」
「俺、自分自身をどう扱ったらいいかわからなくなることが多いんだけど、晴さんは僕を“そのまま”にしてくれる。踏み込んだり、過剰に持ち上げたりしない。でも、そのままでいていいって、思わせてくれる」
「だから、傍にいたくなるし、描きたくなって、好きになるんです」
その言葉に、もう何も隠す意味はなかった。
晴はゆっくりと立ち上がり、千景の前に近づいた。
「じゃあ、もう誤魔化すのやめよう」
「え?」
「『好き』って、俺の方からも言わせろよ」
言い終えた直後。
千景の瞳が、ゆっくりと潤み始める。
「………聞けて、よかった」
「バカ、泣くなよ」
「泣いてねぇもん」
「泣いてるじゃねえか」
そして。
自然な流れで、気がつけば千景との距離はほんの数センチだった。
……唇が触れ合う。
ゆっくりと、確かめるように、痛みのないやさしい口づけ。
しばらくして離れたあと、千景がぽつりと言った。
「こういうの、夢に見てた」
「夢、現実になったな」
「うん。……ほんとに」
その夜、ふたりは初めて手をつないで眠った。
言葉は多くなかった。けれど、互いの手の温度は、すべてを語っていた。
7
風がやわらかくなった。
アパートの前の桜が、ほんの少しだけ芽吹いている。
淡い桃色の蕾が風に揺れるなかで、晴は洗濯物を干しながら空を見上げた。
隣の部屋からは、絵具の匂い。
そして、鉛筆の走る微かな音。
それが当たり前になっていた。
「ねぇ、晴さん」
「ん?」
「卒業することになりました」
唐突に告げられた。
でも、表情は柔らかく、声も明るかった。
「おう。……そっか、卒業か」
「春からはフリーで絵を描くつもりです。バイトもしながらだけど、ちょっとだけ勇気出そうかなって思って」
「ちゃんと生活できんのか?」
「晴さんがいてくれるなら、ギリいけそうです」
「おまえ、人を親かなんかと勘違いしてないか?」
「ちがうよ、好きな人です」
すっと、自然に言われる。
とっさに言葉が詰まってしまった。
この数ヶ月で、千景は確かに変わった。
どこか影をまとっていた彼は、今や凛とした顔で夢を語る。
けれど、それは誰かのおかげではなく、彼自身が自分を選び続けてきたからだ。
晴はそれをそばでずっと見てきた。
「……なあ」
「ん?」
「そろそろ“恋人”って言っても怒んねぇか?」
千景は驚いた顔をしたあと、ゆるく笑った。
「むしろ、やっと言ってくれたって感じですけどね」
「なんだよそれ」
「でも……そうやってちゃんと口にしてくれるのが、晴さんっぽい」
春の風がふたりの間を通り抜け、少しだけカーテンが揺れた。
その日の夕方、千景がふと晴の部屋に来て言った。
「ねえ、ちょっと外、歩きません?」
アパートの裏手は、小さな公園に通じている。
ブランコや滑り台があるだけの、普通の場所。
でも、そこにふたりで立つと、過ぎてきた時間がすべて浮かび上がってくるようだった。
「……ここのベンチ、冬は冷たかったけど。今はもう、ちょっとあたたかい」
「春が近いな」
「うん」
沈黙が心地よかった。
けれど、千景は少しだけ表情を曇らせた。
「俺、たぶんこの先けっこう苦労すると思う」
「だろうな」
「バイト生活だし、売れないし、自分に才能あるかどうかもよくわからないし」
「知ってる」
「それでも晴さん、隣にいてくれますか?」
その問いは、ずっとずっと聞けなかったやつだ。
晴は短く息を吸って、小さく笑って答えた。
「今さら隣以外の空間、落ち着かねぇしな」
千景は目を伏せて、ちょっとだけ涙を我慢して、うなずく。
「じゃあ俺……頑張って、隣から晴さん守れるくらい、ちゃんと“自分”になります」
「俺のことはいい。お前が自分を好きでいられるなら、それで十分だよ」
風が吹く。
春の匂いだった。
数日後、千景は美大を卒業し、卒展に出品した「何者にもなれなかった人たち」は、思いがけず好評を得た。
そこには、前と少し違う人物たちがいた。
輪郭が、ぼやけていない。
光が、差し込んでいた。
そして真ん中に立っている一人だけ、輪郭がくっきりとしていた。
まるで、“今の自分”がそこにいるかのように。
「何者にもなれなかった僕たちは」、
「何者かになる必要はなかった」と、
「ただ、ここで、生きていてもいいんだ」と、
そんなメッセージが滲んでいた。
春。
潮見荘のベランダに、二枚の布団が並ぶ。
「同じアパートなのになんで俺の部屋に入り浸ってるんだよ」
「晴さんと同じ空間のほうが、ごはんあったかいうちに食べられるから」
「……まあ、それは大事だな」
笑い合う声が風に乗る。
洗濯物が並び、絵具の匂いが混ざり、食材を切る音がする。
なんてことない「隣人」の関係から、ほんの少しだけステップを進めて。
いま、ふたりは「隣同士」じゃなくて、「隣にいるひと」になった。
そしてきっと、これからもっと似合っていくのだろう。
暮らしも、会話も、未来も。
End
お読みいただきありがとうございました!