第五音《紫紋の調》
【アバンタイトル】
雷の音が加わって、わたしたちの音はまた一歩、深くなった。
天音ちゃんの太鼓は、まるで嵐みたいに力強くて、でもちゃんと皆を支えてくれる。
四人での練習は、どこか“バンド”っぽくなってきた気がする。
でも――
(まだ……なにか、足りない)
音が浮いてしまう瞬間がある。
支えきれず、ぶつかってしまうような、わずかな違和感。
「……重さが、足りないんだと思う」
ぽつりと、天音ちゃんが呟いた。
いつものように無表情だけど、その声には芯があった。
「重さ?」
「……空間ごと、支える音。音場の軸になるやつ。……ベースの役割」
そんな言葉を天音ちゃんから聞けるなんて、ちょっと意外だった。
彼女も、わたしたちと同じように“次の音”を探してるのかもしれない。
澪ちゃんも、琴羽ちゃんも、黙ってうなずいた。
「じゃあ、その音も……学園のどこかに?」
わたしがそう言うと、ミヨリがポンと肩に乗ってきた。
「うむ。五つの音が揃って、初めて“契”は完成する。最後は……“紫”の音じゃな」
紫。
重さ。
支える音。
そのキーワードを胸に刻んだそのとき、
わたしは天音ちゃんの目線の先に、誰かの影を感じた。
無表情なその瞳が、一瞬だけ揺れた。
彼女は何も言わなかったけど、確かに何かを思い出していた。
「知ってるの?」
思わず聞くと、天音ちゃんはうなずいた。
「幼なじみ。昔からの、知り合い」
「仲良しだったの?」
「……一緒に音をやってた。わたしの太鼓と、あいつのベース。息は……合ってた」
「でも、今は……?」
「話してないだけ。音は……届いてると思う」
話す口調は淡々としているのに、どこか懐かしさを含んでいて。
わたしはふと、最後の音に会うのが少し楽しみになっていた。
* * *
【Scene.1 沈黙と支配】
神響女学院・高等部――
朝の校舎に、静かな時間が流れていた。
式部理央は、誰よりも早く教室に入り、窓際の定位置に座っていた。
手元の本を開いてはいるが、ページは進んでいない。
視線の先には、まだ誰もいないグラウンドと、校舎を渡る風の音。
「……騒がしい」
そう呟いたのは、外ではなく、自分の内側。
(昨日の……音)
放課後の旧演奏棟。吹き抜ける風の中で、確かに“雷”が鳴った。
轟音の中に、知った気配があった。
──火ノ宮 天音。
かつて隣にいた音。呼吸を合わせ、共に音場を作っていた存在。
今は……遠い。
「……何のつもりなの、あなた」
無言でページを閉じたその後、理央は席を立ち、教室を後にする。
* * *
その日の放課後。
詠たちは、天音に案内されて旧演奏棟のホールへ向かっていた。
「このあたり……ってこと?」
「……あいつ、よくここでベース弾いてた」
そう言って天音が案内した先――
重たい扉を開けると、薄暗い空間の中央に、ひとりの少女が立っていた。
紫の長髪。冷たい静謐。
その手に抱えているのは、艶のある深紫のベースだった。
彼女が、式部理央だった。
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【Scene.2 対峙と共鳴】
旧演奏棟のホールは、長らく使われていなかった。
でも、その空間には確かに“音”の残響が残っていた。
「……理央」
天音が名を呼ぶと、紫の少女がわずかに目を伏せた。
「来たのね、天音」
静かに、でも決して弱くない声。
まるで、空間そのものを支配するような、芯のある声音だった。
「……また、音をやるつもり?」
「やってる。……もう一度、じゃない」
詠たちは、息を呑んでそのやり取りを見守っていた。
「あなたの音は……私の隣にあった。でも、もう過去の話」
「今も響いてる。だから、来た」
理央が手元のベースをゆっくりと構える。
「なら、確かめて。あなたたちの音が、本当に“届く”かどうか」
その瞬間、空間が震えた。
足元から這い出すような“ノイズ”が、ホールの壁を這い始める。
「虚音……!」
ミヨリが警告を発する。
「理央がここで音を鳴らしたせいで、ヤツらが寄ってきた!」
「ふぉっふぉ……いや、それもまた運命の音じゃ」
理央はノイズの中で一歩も引かず、低音を叩きつけるようにベースを鳴らした。
雷鳴のようなドラム、風を切るような鍵盤、鋭く交差する二つのギター。
四人の音が理央の旋律に重なる。
共鳴──
虚音の波が押し寄せる。
だが、その渦中で、詠は確かに感じた。
理央の音が、今この瞬間、彼女たちの音と“ひとつ”になりつつあることを。
「まだ、終わらない……!」
全員で音を重ねる。四人目を迎える準備が整うその瞬間、
理央が小さく呟いた。
「……届いたわ」
一撃のベースが、虚音の中心を打ち抜いた。
音が、沈黙を取り戻す。
* * *
崩れ落ちるように、理央が一歩下がる。
詠が駆け寄り、そっと手を差し出す。
「……わたしたちと、音を重ねてくれる?」
一瞬の沈黙。
だが理央はその手を取った。
「音が、導いたのなら。……それに従うまでよ」
五人目の契が、今、結ばれた
【Scene.3 式部理央、静かなる覚悟】
夜の帳が下りた神響の街に、微かにベースの低音が溶け込んでいた。
それは式部理央の部屋──
整然と整えられた書棚と譜面棚、窓際の月光に照らされた譜面台、
そしてその中心に立つ彼女の静かなシルエット。
私室には、余計なものがない。
散らかりはなく、すべてが機能的に並んでいる。
だがその静けさは、どこか寂しげでもあった。
手にしたベースが、彼女の胸の奥を撫でるように共鳴する。
「……確かに、響いたわ。あの子たちの音」
淡々とした声に、微かな揺れが混じる。
式部家──格式ある名門。
大学教授の父、文化人として有名な母。
幼い頃から理央に求められてきたのは、完璧な言葉、姿勢、そして結果。
けれど“音”だけは、違った。
音は、理屈ではない。
揺れる感情、戸惑い、不確かさ。
それらすべてを“そのまま”受け止める場所だった。
天音との再会。
過去の旋律がよみがえる。
「……天音、あのときの音を……まだ覚えていたのね」
詠の真っ直ぐな視線。
澪の静かな気配。
琴羽の柔らかな音色。
天音の熱い鼓動。
そして自分自身の、低く深い、支える音。
彼女は初めて、自分以外の“音”に素直に耳を傾けた気がした。
「支配ではなく、調和……か」
月明かりの下、ベースの弦がそっと鳴る。
それは誰に聴かせるでもない、心の中の“音合わせ”。
彼女の中で、確かに何かが変わり始めていた。
そしてその夜、もう一つの“音の気配”が、遠くで微かに響いた。
* * *
ピアノ。
桜の香りとともに舞う、優しくも芯のある旋律。
それは、理央の記憶に残る“あの部屋”から聞こえていた音だった。
(……次の“音”が、動き出す)
理央は静かに目を閉じた。
その耳には、仲間たちの音が、今も続いて響いていた。
──そして数日後。
五人の初めての音合わせが、静かに幕を開ける。
※次回:第六音《虚音:揺らぐ五線、心の断絶》