第一音・桜咲く刻
【Scene.1 はじまりの音(JS6の春)】
夢を見ていた。
火花を散らすギター。雷のように響く太鼓。風を巻き起こす鍵盤。そして、すべてを包む静かな低音。
それぞれの音が、まだ見ぬ仲間を探すように、夜明けの空へと溶けていった。
その光景は、まるで物語の予兆――
そして、わたしの運命の始まりだった。
ジリリリ……
「……ん、今日から……神響……」
目覚ましの音に瞼を開ける。
詠はベッドの上でしばらくぼんやりと天井を見つめ、深く息を吐いた。
夢の余韻が、まだ胸の奥でかすかに鳴っている。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、淡い桃色の光で部屋を照らす。
窓の外では桜の蕾がゆるく揺れ、春の風が静かに吹いていた。
今日から新しい生活。
神響女学院――音の都と呼ばれるこの街にある、由緒ある音楽学園。
詠は、そこの初等部六年に転入することになっていた。
「うーん……緊張する……」
そうつぶやいて、詠は布団をはねのける。
制服に着替え、いつものように髪をサイドアップにまとめる手つきは、ほんの少しだけ震えていた。
だけど、胸の中には不思議と高鳴る何かがある。
(うまくなじめるかな……でも、音があるなら……)
詠の視線が、部屋の隅に立てかけられたギターケースに向く。
祖母の形見――祝華。
中にあるのは、音が鳴らないはずのエレキギター。
けれど、なぜか最近、その中に“ぬくもり”を感じている。
それが、何かはまだわからない。
だけど今日――何かが変わる気がしていた。
彼女の名は――**花咲 詠**。
クラスは六年三組。学年末を目前に控えた詠の赤いサイドアップの髪が、春風のなかで軽やかに跳ねている。
「ふぁ~……またコード間違えたぁ。ギター、ほんとムズい~!」
詠はそうぼやきながら、**部屋の隅でギターを構え、指先が弦の上をさまよった。何度か繰り返した後、ようやく納得いかないまま手を止め、**ギターケースを背負う。木の引き戸を静かに閉め、足元のお気に入りの白いインラインスケートを履いた。
「いってきまーす!」
声をかけると、奥の台所から祖母の「行ってらっしゃい」が返ってくる。母はすでに職場へ、父は庭の倉庫で朝から何かを組み立てていた。
ゆるやかな坂をスイスイと滑りながら、詠は春風を受けて前傾姿勢をとる。
背中のギターが揺れるたび、音のぬくもりが背中に伝わってくるようだった。
祖母ゆかりのこの街――桜都。
ここで新しく始まる“音の物語”に、胸が少しだけ高鳴っていた。
母は早朝の仕事で出ており、今朝も直接見送ってくれたのは祖母だけだった。それが少しだけ心細くて、だけど、自分が“音でつながっている”という不思議な実感が、詠を支えていた。
坂の上にある転入先の神響女学院へ向かう道――
まだ見ぬ仲間と、まだ知らない音に出会うための、最初の一歩。
春風が舞い、桜がふわりと踊る朝だった。
神響女学院・初等部六年の制服に身を包んだ詠が、坂道を駆け下りる。
その背には、少し古びたギターケースがくくりつけられていた。
詠はカーブを抜け、やがて神響女学院の初等部校舎が見えてきた。
重厚な門と校名のレリーフ、その先には桜並木と石畳の中庭が広がっている。
スケートを脱ぎ、玄関脇の靴ロッカーへと滑り込む。
「今日から……よろしくね」
独りごちるように小さく呟き、詠は上履きに履き替えた。
教室の前には担任らしき女性が待っていた。
「花咲 詠さんね。じゃあ、入って」
深呼吸。扉が開く。
「今日から六年三組に加わる転校生を紹介します」
視線が、一斉にこちらを向く。
緊張と好奇の入り混じった空気。
詠は思わずギターケースのストラップを強く握りしめた。
(やっぱり……少し、こわい)
だが、そんな中。
教室の最後列、窓際で静かに眠っている男子がひとり。
それ以外は、皆どこか興味津々といった面持ちでこちらを見ている。
(……とりあえず、変な人はいなさそう?)
詠は少し安心し、担任の指示で自己紹介を始めた。
「花咲 詠です。ギターが好きです。よろしくお願いします」
軽く頭を下げたあと、拍手が起こる。中には「ギター?」「かっこいい!」という囁きも聞こえた。
そのとき、心の奥でギターが微かに鳴った――
【Scene.2 放課後と、黒き音】
日が傾き始めた神響女学院。
転入初日を終えた詠は、教科書や配布されたプリントを鞄に詰めながら、大きく息を吐いた。
(ふぅ……なんとか無事に終わった……よね)
クラスメイトたちは思ったよりも優しく、自己紹介後に話しかけてくれる子もいた。
けれど、どこかでまだ「よそ者」としての距離感を感じてしまう。
ギターの話題になると、一瞬だけ空気が変わる。憧れと、ほんの少しの“異物感”。
(仕方ないか。祝華は、普通のギターじゃないもんね)
帰り支度を終えた詠は、スケートを履き、昇降口を出てゆるやかな坂を滑り出す。
夕暮れの光が、桜並木の影を長く伸ばしていた。
そのときだった。
ふと、空気の密度が変わった。
スピーカーから流れていたはずの校内放送のBGMが途切れ、足音も風の音も消える。
――無音。
「……また、これ……」
あの朝の感覚。
耳ではなく、肌で感じる異常。
ざっ……
校舎の裏手。倉庫と体育館のあいだの路地に、黒い影が揺れている。
輪郭があいまいで、ノイズのようにチカチカと瞬く。
人のようで、人ではない。
(あれが……虚音)
背中の祝華が、びり、と震えた。
ケースのロックがひとりでに外れ、光が漏れ始める。
「……なんで……でも、わかる。これが……」
祝華のネックに手が触れる。
次の瞬間、制服が紅白の装束へと変わり、ギターのボディに桜の紋様が刻まれる。
「――奏装、起動……祝・華!」
祝音が鳴った。
詠の第一の音が、世界に放たれた。
ギターをかき鳴らす。高音の旋律が風を切ると同時に、桜色の光が弧を描いて舞う。
虚音は形を変え、長い腕のような影を地面から伸ばして詠に迫った。
「こ、こわ……でもっ!」
詠は一歩踏み込み、ギターを大きく振り下ろす。
「――奏・一閃桜!!」
ピンクの斬撃が空を裂き、虚音を貫いた。
影の身体が砕け、黒いノイズが四散する。
光が満ち、音が戻る。
……チャイムの音。
風のざわめき。
夕暮れの空。
「やった、の……?」
ギターはすでに静かになっており、衣装も元の制服へと戻っていた。
祝華だけが、ほのかにぬくもりを帯びたまま、詠の胸元に抱かれていた。
そのとき。
「ふむ、案外早かったな。初めてにしては上出来じゃ」
聞き慣れない声。
振り返ると、体育倉庫の屋根の上に、ちょこんと座る不思議な存在。
丸い体にふさふさの耳、ぬいぐるみのようなその姿は、明らかに現実のものではなかった。
「ぬいぐるみ……? じゃない、よね……?」
「拙者は音の理を守る式神、ミヨリと申す!」
軽やかに跳ね降りると、ふかふかの着地音と共にお辞儀をする。
「……なにそれ、かわ……いや、よろしく!」
詠の中で、何かが始まりかけていた。
【Scene.3 夜の部屋と、ぬいぐるみ疑惑】
夜。家に帰った詠は、夕食を済ませて部屋に戻ってきていた。
祖母が用意してくれた煮物の香りが、まだ鼻に残っている。
ギターケースをいつもの位置に立てかけ、制服を脱いでルームウェアに着替える。
(……今日の、あれは……夢じゃないよね)
ベッドの上で考え込んでいると、突然――
「ふむ、なるほど。こうして見ると、やはり布団というものは文化的であるな」
「……はあぁあああっ!?」
振り返ると、机の上に例のぬいぐるみ――ミヨリが、腕組みしながら座っていた。
「な、なんでついてきてんの!?!? 校舎にいたじゃん!」
「お主の祝具が覚醒した以上、拙者も共に行動するのは道理。心配無用、姿は人には見えぬ」
「いやそういう問題じゃなくて! 勝手に家入ってくるとか、ぬいぐるみ勝手に喋るとか、そういうのが問題なの!」
「ふむ、確かに勝手に押しかけたのは事実。だが、音の契約とはすなわち縁……」
「説明は明日でいいから寝かせてよ! ていうかその場所、私のスマホ充電スペースなんだけど!」
「うむ。ではその隣に移動するでござる」
「かわいい!……じゃなかった、なにこのノリ!」
――賑やかな夜が始まった。
詠の部屋には、確かに一人ぶん以上の音が満ちていた。
* * *
ミヨリは詠の膝にちょこんと座り直すと、小さく咳払いをした。
その姿は、子狐のような愛らしい輪郭に、桜色の耳と紫がかったしっぽ。
眉間には音を模した印が浮かび、左の耳には桜の花びら飾りがひとひら。
ふさふさの尾には五線譜と音符がきらめき、歩くたびに鈴のような音を奏でる。
まるで和風のマスコットキャラが命を宿したような、ちょっと可愛すぎる精霊。
「さて、詠よ。今夜こそ本格的に話すとしよう。我が名はミヨリ、音の理を司る式神にして、“祝音”の守り人じゃ」
「守り人……?」
「この世界には“虚音”と呼ばれる負の旋律が存在する。心の歪みや絶望、過去の痛みが音となって形を取り、現実を侵食するもの……それが、そなたが戦った黒い影の正体じゃ」
詠は神妙に頷きながら、ベッドに座り直した。
「じゃあ、祝音ってのは?」
「祝音とは、音に祝福を宿す者の力。正しき旋律で虚音を祓い、人々の想いを調和へ導くもの。祝具を媒介として、選ばれた者――祝巫女のみが奏でられる音じゃ」
「……私が、その祝巫女?」
「うむ。そなたの祝具“祝華”が覚醒した今、すでに選ばれておる。そして――」
ミヨリはくるりと宙に跳ね、詠の目の前でくるくる回る。
「祝音少女《五色ノ契》を結ぶ五人が、そなたを含めてこの地に現れる運命にある。今はその“はじまりの音”にすぎぬが、いずれ五つの音がそろうとき、この世界の音は新たなかたちへと導かれるであろう」
「五人……」
詠はそっと祝華を撫でながら、小さく呟いた。
「……なんだか、少しワクワクするかも」
「それでこそ、祝音少女の器よ」
こうして詠の静かな夜は、音と秘密に満ちたものへと変わった。そして、まだ見ぬ旋律が、すぐそこに響こうとしている。