#7
砂浜に腰を下ろした僕たちの上には月が出ていた。やわらかい月の光がリシェリアの涙の跡を光らせている。
僕のうそに嘆き悲しんでいるハニーに謝らくてはならない。
長い間、記憶をなくした振りをしていた。どんな理由があったとしても、だましていたことに変わりはないのだから。
「すまない。記憶がないなんてうそをついて、君を泣かせた。でも、君とポーリーンを愛しているのはうそじやない。それだけは信じて」
「そんなことわかってる。でも、あなたがそこまでわたしたちのことを思っていてくれたなんて、、知らなかった。。知らなかったのよ・・・・
わたしは、、なんてことをしてしまったの!」
再びさめざめと泣きだしたリシェリアの顔は蒼白だ。
「あなたのやさしさに付け込んで、甘えて、あなたの人生をめちゃくちゃにしてしまった!!」
ついにはガタガタと震えだした。
「そんなことはないよ。僕は幸せなんだから」
なぐさめようとしたつもりだった。なのに彼女は顔をゆがめている。
「違う! あなたはここにいてはいけなかったのよ。わかっていたのに! わたしは、わたしはっ!!」
今にも倒れそうなハニーの背に、腕をまわして支えようとしたが拒まれてしまった。動揺と興奮をしずめようと何度も深呼吸を繰り返している。
やがて覚悟を決めたように立ち上がり、つられて立った僕の顔を見た。
「・・・これを。」
リシェリアが差し出したものに目をやり、息が止まった。
なくしたはずだ
声も出ない僕の手に押しつけられたのは、ドッグタグだった。細いチェーンには2枚のプレートとペンダントヘッドが下がっている。
プレートに刻まれた文字を指でなぞる。
マクシミリアン・オースティン
もう二度と、名乗ることはないと思っていた僕の本当の名前だ。
突き上げてくる懐かしさをかみしめながら、ペンダントヘッドに指をかける。ひとつ息を吐いてふたをあけると妖艶に微笑む美女が現れた。
「ファラムリッド・・・・」
溜息のような声がもれていた。
「うそつきはわたしの方だわ。あなたが誰なのか、どこに帰るべきなのか、知っていたのに知らないふりをしていたのだから」
リシェリアはもう、泣いてはいなかった。
「あなたをだまして、取り返しのつかないことをしてしまった。本当にごめんなさい。
でも、まだやり直せるわ。あなたはそのひとを愛しているのだから」
僕の目をまっすぐに見つめる彼女は、必死に涙をこらえている。
「帰って。あなたの帰るべき場所へ」
それでも、声が震えるのはどうすることもできない。
「わたしなら大丈夫。今までありがとう」
素っ気ないほどの別れの言葉は余裕がない証だ。逃げるようにその場を立ち去ろうとする。
「どうして行ってしまうの? 君が謝る必要なんかこれっぽっちもないのに」
「わたしの話を聞いたでしょう」
足を止めたリシェリアは振り返らない。
「君も僕の話を聞いたよね。僕は最初から記憶をなくしてなんかいないって。君とポーリーンのそばにいることを選んだのは僕自身なんだよ」
「あなたにはその写真のひとがいるじゃない!」
いらだだしげに叫ぶ彼女は半狂乱だ。
「そうだよ。僕にはフィアンセがいるとわかっていてここにいると決めたんだよ。
振り出しに戻ってしまうけど、僕は君とポーリーンを愛しているんだ」
「あなたが帰らなかったら、そのひとはどうなるの? 以前のわたしのように愛しいひとの帰りを待ち続けているのよ。毎晩、涙で枕をぬらしながらね」
その通りだ。それでも僕の決意は変わらない。
「ファラムリッドには申し訳ないと思っている。でもね、君には僕がいたように、彼女にも支えてくれるひとがいると思うんだ。実は心当たりがある。だからきっと大丈夫だよ」
ゆっくりと振り返ったリシェリアは、途方に暮れた子供のような目をしていた。
「フィアンセがいながら心変わりするなんて、ひどいひとね」
「それは違うよ。僕は今でもファラムを愛している。それはこの先もずっと変わらない。そして、同じように君のことも愛している。それはこの先もずっと変わらない」
「そんなの、、ずるい」
「そうだね。それでもこれが僕の真実だから。こんな僕を許してくれるなら君のそばにいさせてほしい」
声もなく涙を流すハニーが愛しくてたまらない。
リシェリアは月のようだと思う。ひっそりと夜空にあって、やわらかい光を投げかけてくれる。彼女がそこにいてくれるだけで安心できるんだ。
ファラムリッドは太陽だ。直視できないほどまぶしくて、まわりにいる者たちを強烈に照らしだす。彼女にはいつも元気をもらっていた。
月と太陽を比べることはできない。どちらも美しくて、どちらも愛おしい。
「愛してるよ」
ファラムの写真にキスをしてふたを閉めた。右手を振り上げて力いっぱい放り投げる。宙を舞うペンダントヘッドとドッグタグは、月光を反射してキラリと光り海に落ちた。
もう、僕の手に戻って来ることはない。
「本当に、いいの?」
ためらっているハニーの手を取って抱き寄せ、腰に腕をまわす。
「もちろん」
ゆっくりとリシェリアの目から暗い影が抜け落ちていった。これでいい。これでいいんだ。
「帰ろう。僕たちの家に」
砂浜についたふたりの足跡を波がさらって消していく。
そこに誰もいなかったかのように。
あるのは音もなく降り注ぐ月の光だけ