魔法使いだった母と……
真夜中になって、リーメイは目を覚ました。
やや薄暗いオレンジ色の光が、洞窟内を照らしている。炎ではなく、魔法で出された明かりだ。
おかげで洞窟内が真っ暗にならずにすみ、首を動かすと少し離れた所でゼキとカーデュが横たわって休んでいるのが見えた。
チカルが自分のすぐそばにいて、リーメイが目を覚ましたことを知ると、頬に顔をすり寄せてくる。
「チカル……」
その頭をそっとなでてやり、それからはっと思い出す。自分は何かとんでもないことをしでかさなかったか、と。
ここはどこなの。あたし、魔物に捕まってしまって……それから……。何かが起きた? でも、何があったのかしら。ここへ来るまでに、あたしは何かひどいことを……。
いやな思いが胸に広がり、リーメイはそっと起き上がった。
二人を起こさないよう、静かに洞窟の外へ出る。雨はすっかりやんでいて、満月の光が辺りを照らしていた。
あれは……何かしら。
月の光の中で、原形をとどめない何かの肉片らしきものが散らばっているのが見えた。空気が澄んでいるのに、かすかに異臭がする。
「……!」
最初はそれが何か把握しきれなかったが、正体を思い出したリーメイは思わず息を飲み、後ずさる。
悲鳴を上げないよう、口を手で押さえるが、身体の震えは止められなかった。一気に血の気が引いて指先が冷たくなり、歯がカチカチと鳴る。
かすかに残る、この山での記憶。それが一気に爆発した。
あの肉片は、食人鬼のものだ。証拠はないが、あれは間違いなく自分の仕業。自分があの食人鬼を殺したのだ。命乞いをする魔物を、惨いとも言えるやり方で。
あの二人の前で!
何てことを……まさかこんなに早く、魔性の自分が表に現れてしまうなんて。ううん、これはあたしのせいだ。あの時、はっきりと「魔力があれば」と願った。
もっと強い魔力さえあれば、こんな食人鬼なんか蹴散らせるのに。あたしも、あの二人も助かるのに。
そんな自分の意識が、願望が、魔性の自分を呼んでしまったんだわ。
今は人間の意識が勝っている。だが、次はいつ、どんなきっかけで魔性の自分が現れるだろう。一度出たら、この先ちょっとしたことでまた出るようになるかも知れない。
それからふいに、リーメイの頭の中を疑問がかすめた。
なぜ、あの二人は魔性になった自分を見ているのに、洞窟内にいたのだろう。眠っていると思っていたが、まさか自分が……。
そんな恐ろしい想像すら浮かんだ時。
ふと背後に気配を感じ、リーメイは振り返った。そこには、いつの間に来たのか、ゼキとカーデュが立っている。
確かに生きて、動いている二人が。
彼らを見て、最初はびくっとしたリーメイだったが、自分が命を奪ったのではない、とわかって少しほっとした。二人の表情はとても穏やかで……いつもと同じだ。
「リーメイ、起き上がって大丈夫かい?」
ゼキの優しい声を聞いて、何かがこみ上げてくる。
「ゼキ……ゼキ、カーデュ……あたし……」
何か言おうとして、それより先に涙があふれた。
「あたし……ごめん……ごめんなさい、あたしは……」
言葉にならない。気持ちを伝えたいのに、涙がそれを邪魔する。その場に立ち尽くし、子どものように泣きじゃくるリーメイ。
「リーメイ、泣かなくていい。きみのおかげで助かったんだ」
ゼキはそう言って、震えながら泣くリーメイを抱き締めた。その身体がひどく小さく感じられる。
「あ、あたし……ごめんなさい……ごめんなさい……」
同じことしか言えない。頭の中を、口を、言葉が素通りしてしまう。
目を覚ました時、周りに誰もいなくなっていたとしても仕方がないのに。文句など言えないようなことをしたのに。
二人はここにいて、ゼキはこんなにも温かく受け入れてくれる。驚いたけれど、それがとても嬉しくて、同時にリーメイは自分のしたことがとても悲しかった。
どうして……どうしてあなた達は、ここにいてくれるの? あたしのこと、怖いとか気持ち悪いって思わないの? 相手は魔物だったけど、あたしはあんなひどいことをしたのに。それでも……それでもあなた達は一緒にいてくれるの? そばにいてくれるの?
リーメイはゼキの胸の中で、大声を上げて泣いた。本当に小さな子どものように。
その間、ゼキもカーデュも何も言わなかった。
しばらくその状態が続いたが、泣くことでリーメイも色々な感情を発散できたのか、少し涙がおさまってきた。
「落ち着いたかい?」
何て……温かい声なのかしら。
ゼキの声が、頭から降ってくる。幼子をあやすように、ゼキの大きな手がリーメイの頭をぽんと軽くたたいた。その仕種は、リーメイの心と身体を優しく包み込む。
うなずいてからリーメイは、今更ながらに現在の自分の状況を把握した。
あ、あたし……今までゼキにすがりついて泣いてた? ど、どうしよう……。
落ち着いたかと聞かれてうなずいたものの、それ以上くっついていることも、かと言って離れて彼の顔を見るなんてこともできず、リーメイはそのまま固まってしまう。
涙の代わりに、今度は大量の冷や汗が出て来たような。
「中へ入ろう。いつまでも夜風にあたってると、身体が冷える」
ゼキがうまくリーメイを促し、リーメイはとても彼の顔を見られないのでうつむいたまま、洞窟へと入った。
「黙ってて……ごめんなさい」
それぞれが座って落ち着いた頃、リーメイが口を開いた。
「リーメイ。きみが話したくないなら、無理して話さなくてもいいんだよ」
まだ口が重い。そんなリーメイの様子を見てとったゼキが、静かにそう言った。
「うん……。だけど、あんな姿を見られたんだもん、今更隠すこともないから」
隠すこともない。いや、ちゃんと話すべきだ、とリーメイは思う。魔法使いである彼らなら、きっとだいたいの見当はついているはず。だからこそ、そばにいてくれたこの二人には、きちんと話すべきだ。
「母は魔法使いで、父はわからないって言ったでしょ。あれは本当。ただね、顔も知らないあたしの父は……魔性だったの」
☆☆☆
リーメイの母メイムは、どこか大きな街の魔法使いだったらしい。魔法を教えてくれた母の腕を思い出すにつけ、かなり高レベルに位置する魔法使いだったと思われる。
そんな彼女が魔性と関係を持ち、リーメイをみごもった。娘を産んでから、シャスラーの村へと移ったらしい。
なぜこんなさびれた村に身を置くことにしたのか、その理由は聞いていない。
その後は、どこかの街の魔法使いが彼女を訪ねて来るでもなく、メイム自身も村を一度も出ることはなく。
医者まがいのこともしていたが、ほとんど農業で生活をたてていた。魔法使いであった彼女は、どんな思いを抱きながら畑を耕していたのだろう。
リーメイが物心つく頃には、少しずつ魔法を教えられていた。メイムははっきりとは言わなかったが、リーメイが成長してどこかよその土地へ行っても生きていけるように、と考えていたのだろう。
村へ来て十五年。リーメイがゼキとカーデュに会う三日前、メイムは亡くなった。
まだ四十を過ぎたばかりだったが、色々と無理をしすぎたのだろう。肉体的にも精神的にも。
父親の方は、顔も名前すらもリーメイは知らない。両親が恋に落ちたのかどうかも、教えてくれる人がいない今では、何一つわからない。
確証はないが、母が父と会ったのは一度だけのようだった。父となった魔性は、リーメイの存在すら知らないと思われる。
推測が多いのは、母がほとんど話してくれなかったせいだ。たまに、ふと思い出の断片を語ることがあったが、それ以外ではリーメイがどんなにせがんでもしてくれなかった。
余程つらい思い出があったのだろうか。メイムは出身の街の名前すら、口にしなかった。
どんなひとだった? 髪や瞳の色は。背は高かった? 優しかった? かっこいい? それとも、怖い顔をしてた? どうして、今はここにいないの。やっぱり魔法使い?
幼い時、何度も尋ねた。しかし、メイムは淋しそうな顔をするだけ。父親は死んだ、としか教えてもらえなかった。
ただ一度だけ、リーメイの長い黒髪を見て「よく似ている」と母がつぶやいたことがある。だから、唯一の情報は、黒髪だった、ということだけ。
話のほとんどが、メイムのわずかな思い出話の断片からリーメイが推測したことと、想像でしかない。
シャスラーの村では、リーメイとメイムは異端視されていたようだ。さびれた村に乳飲み子を抱えた魔法使いの女が住み着けば、好奇の目で見られるのは仕方がない。
それでも、時が経つうちに周りも慣れてしまった。そうでなくても、他人のことばかり気にかけていられる程に村人も余裕がないのだ。
やがてリーメイも大きくなって、同じ年頃の子どもと遊ぶようになる。
リーメイが十歳になるかならないか、くらいの頃だったろうか。
ある日、子ども同士でいさかいが起きた。理由はもう覚えていない。子どものケンカだから、ほんのささいな、どうでもいいことだったのだろう。
その時に、リーメイは初めて魔法ではなく、魔性の力を使った。睨むだけで、ケンカ相手の男の子を突き飛ばしたのだ。
そのまま勢いにまかせていたら、どうなっていただろう。
たまたまその場にメイムが通り掛かり、彼女の魔法でそこにいた子ども達の記憶を消して何もなかったことにされる。
その後で、母はリーメイにも何か魔法をかけた。
リーメイはケンカしたことを覚えていたので、村の子ども達にかけられた忘却の魔法とは違う。だが、その時にはどういう魔法をかけられたのか、まるでわからなかった。
そのまま月日が経ち……。
五日前、母が倒れた。自分の命が長くないと悟ったメイムは、ようやくリーメイの父親が魔性であることを話したのだ。
子どもの頃にかけた魔法は、魔性のリーメイを抑えるものだ、ということも。
魔性の性格が表に出ると、魔力が人間の時よりも段違いに強くなるが、同時に凶暴にもなる。幼いリーメイでは、暴走するその力を制御できない。だから封じたのだ、と。
しかし、母が亡くなれば、力を封じていた魔法も解ける。そうなれば、いつ魔性のリーメイになるかわからない。
どうやらリーメイは、魔性の血を濃く受け継いでいるらしい。魔性になったらそれっきり、ということもありえる。
そんな真実を突き付けられ、当然リーメイは混乱した。自分は人間で、世間で言うところの魔法使いだ、と信じていたから。
そんな娘に、母は言った。
「私が死んで……魔を封じたいのなら、封じてくれる力の元へ行きなさい。人を封じたいなら、封じてくれる力の元へ行きなさい。あなたが望むように、生きたいようにすればいいのよ。何も封じるつもりがなければ……とにかくこの村を出て、違う所へ行きなさい。もっと大きな場所へ。きっとどこかで、あなたを受け止めてくれる誰かがいるわ」
どんな生き方をしてもいい。それはあなたの命だから。
母はずっと黙っていたことを、娘に詫びた。そして、亡くなる前に一つだけ、リーメイに頼んだ。
自らの存在を否定し、自らの命を断ち切らないでほしい、と。
「母が亡くなって……あたし、思い出したの。ケンカした相手がとても憎く思えて、死んでしまえって思った。次の瞬間には、見えない力でその子は突き飛ばされてたわ。……魔性の性格が表に出ると、あたしは残酷になってしまう。それを封じてくれていた母さんの魔法が解けて、またあんなことを誰にするかわからないと思うと怖くて……」
リーメイが盗賊に襲われた時、ゼキが現れるのがもう少し遅かったら。
リーメイは魔性になって、盗賊を……人を殺していたかも知れない。食人鬼を殺し、とりあえず今は人間の自分に戻っているが、いつまたあんなことをするような魔性になるか自分でもわからない。
魔性を閉じ込めていた部屋の扉に、もう鍵はかかっていないのだ。
「あくまでぼくの推測だけれど、リーメイのお母さんの出身ってガノー地方じゃないかな」
「ガノー……地方?」
聞き覚えのない地名に、リーメイは首を傾げた。本である程度の地理は知っているが、カーデュの言う地名は初めて聞いた。
「確かあの辺りじゃ、魔性と関係を持った人間はどんな罪を犯すよりも軽蔑されるらしいよ。魔物に魂を売り渡した、とか言ってね。その子どもに罪はないと言いながら、誰もが冷たい待遇しかしなくなる、と聞いたことがある」
魔力の少ない人間は、時として魔獣や魔性と契約することがある。彼らの力を借りて、何か大きな魔法を行ったりするのだ。
それはどこの街の魔法使いでもしていることだし、特に珍しいことではない。
だが、地方によっては、そうやって魔性と手を組むことを極端に嫌う所がある。まして、子どもができるなど論外だ。
人間の親も、半分人間の子も、そういう地方では人間として扱ってもらえなくなる。リーメイのように、いつ凶暴な魔性になるかわからない、という恐れから、そこにはいない存在にされてしまうのだ。
魔性の血を持てば凶暴になる、と決まった訳ではないのに、そうだと決め付けているのである。残酷な性格ではなく、理性的な魔性も多く存在しているのに。
「リーメイのお母さんは、リーメイにつらい思いをさせないために街を出たんだろうね。トアック地方まで来れば、きみ達親子のことを知る人なんて、まずいない。訳あり親子と異端視されることはあっても、人間扱いはしてもらえる。シャスラーの村を選んだのは、貧しくて人に構う余裕がない人が多いから……かな。本当にガノー地方から来たのなら……長い旅だったろうね」
ゼキ達が住むディミアッドの街や、これから行くバルザッグの街、リーメイが住んでいたシャスラーの村はトアック地方と呼ばれる。ここから見て、ガノー地方は北東に位置するエリアだ。
地図を見て、位置関係を言うのは簡単。だが、実際に赴こうとすれば、その地ははるか彼方だ。いくつもの街を通り、高い山を越え、大きな川を渡り……。
乳飲み子を連れた女が生半可な気持ちで行けるような、半端な距離ではない。魔獣の力を借りたとしても、つらい旅だったはずだ。
「今回、すぐに魔性の性格が引っ込んだのは、きっとおふくろさんの魔法がまだ効いてるんだよ。それとも、リーメイが成長して制御できるようになったか、だ。……で、リーメイは魔性の性格を封じてしまいたいのか?」
ゼキの問いに、リーメイは静かにうなずいた。