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十一年前ー。
手の平にまだ生々しい感覚が残っている。今し方、生まれて初めて人を斬った。
父である国王に、まだ薄暗い早朝に呼び出され、向かった先は監獄だった。父の後ろについて行くと、とある牢の前で足を止めると見張りの兵士に鍵を開けさせた。中に入る様に促され、ヴォルフラムはそれに従う。
『な、何だ⁉︎離せっ‼︎』
兵士等に拘束され布で目隠しをさせた中年の男は、予期せぬ事態に混乱し叫び身動ぐ。だが確りと押さえ付けられ、今度は口も布で塞がれた。
『ヴォルフラム』
ガチャッン‼︎ー。
静まり返る牢に、金属の音が響いた。
父は名前を呼ぶと、ヴォルフラムの前に剣を放った。父を見遣ると、何時もと変わらず無表情だった。そして一言だけ言い放つ。
『斬れ』
その瞬間、全身が粟立つ感覚を覚えたが態度には出さない様に注意した。父に知られたら叱責される。何でもないフリをしながら、剣を拾い鞘から抜いた。練習用の木剣とは違って、重い。それは物理的な重さと精神的な重さだ。
ザシュッー。
ただ終わってみると呆気ないものだ。地べたに流れる血と壊れた人形の様に動かなくなった男をヴォルフラムは無表情で見下ろした。父は何も言わず踵を返し、ヴォルフラムも血の付いた剣を地べたに放り投げその場から去った。
その日、ヴォルフラムは何時も通りに過ごした。座学をこなし、剣術をこなし、気付けば夕刻だった。だが何時もと違い、疲労感が凄い。一人になりたくて、侍従等を追払い一人中庭に出た。
衣服が汚れる事など気にせずに木に寄り掛かると、そのままズルズルとその場に座り込み目を伏せる。
疲れたー。
毎日毎日、息吐く暇すらない。座学に剣術、礼儀作法など兎に角やる事が多い。常に監視され、ゆっくりと食事すら出来ない。少しの失態も赦されず、全てに置いて完璧でなければいけない。もし失態をすれば直ぐに父に報告され、罰を受ける。
ふと一つ歳下の弟が頭に浮かぶ。お気楽で莫迦な弟だが、たまに羨ましく感じる。アレの悩みなど意中の幼馴染の令嬢の気を如何に引くか、それくらいだろう。実に下らない。そもそもあんな我儘で性悪な娘の一体何処が良いのかヴォルフラムにはまるで分からない。確かに容姿は良いだろうが、性格の悪さが顔にすら滲み出ており正直視界に入るだけで気分が悪くなる。近い将来、自分か弟のどちらかと婚約するだろうが、もし自分の婚約者にでもなろうものならと想像するだけでゾッとする。
疲れたー。
下らない事を考えていたら、余計に疲労感が増した気がした。
『⁉︎』
そんな時、直ぐ側に気配を感じ伏せていた目を開いた。気付けば少しうたた寝をしていたらしく、近付いて来た気配に気付けなかった。何時ならこんな失態はあり得ない。慌てて立ち上がろうとしたが、気配の正体を見てヴォルフラムは目を見張り固まった。
『……』
何故ならヴォルフラムの前にいたのは、小さな少女だったからだ。一体何故こんな所に幼女がいるのか理解出来ず一瞬思考も止まる。
『お風邪、引いちゃったの……?』
大きな灰色の瞳が心配そうに揺れヴォルフラムを見ていた。戸惑いを隠しながら、貼り付けた様な笑みを浮かべる。
『いや、別に僕は風邪なんか引いてないよ。どうして?』
『だって汗がすごいの。それに、苦しそう……』
そう言うと少女は急にハッとした表情をしたかと思えば、あたふたとしながら自分の衣服を弄り出す。流石のヴォルフラムも訳が分からず呆然とした。ダラシなく口が半開きになっている事に気が付き慌てて閉じる。
『あった!』
嬉しそうに声を上げた少女は、ちょこちょこと更に近付いて来て手を伸ばして来た。思わずヴォルフラムは身構える。まさかこんな少女が刺客なのか⁉︎と懐に入れているナイフに手を伸ばすが……。
『は……?』
少女の手にはハンカチが握られていて、それをヴォルフラムの額に当てられた。そして優しい手付きで汗を拭われる。
『えっと……』
ニッコリと笑う少女に、一気に全身の力が抜けた。
『君は何処から来たの?お父さんやお母さんは?』
『お母さまとね、いっしょにきたの。でも、お母さまは大切なご用事があるから、お部屋で待ってたの。でもね、窓から鳥さんが見えてね』
少女は母親と登城したが用事があり、その間部室で待っている様に言われたそうだ。だが中々戻らない母親に退屈した少女は窓の外に鳥が見えて、それを追いかけて部屋を飛び出したらしい。
『全く、侍従等は一体何をしているんだ』
『?』
まさかこんな小さな少女を一人で部屋で待たせていた筈はない。となると勝手に持ち場を離れたのだろう。これは立派な職務怠慢だ。
『お兄さまは、だあれ?』
『お兄様って……』
何だか調子が狂う。それに無性に気恥ずかしさを感じた。
『僕は……』
素直に王子だと言おうとしたが、やめた。ヴォルフラムは少し意地の悪い笑みを浮かべる。
『正義の味方なんだ』
『せいぎの、みかた?』
『悪い人間から民衆を守る正義の騎士なんだよ』
『すご〜い!かっこいい!』
簡単に説明すると少女は大きな瞳を見開き、羨望の眼差しを向けてくる。次から次へと様々な質問をしてきた。それが可笑しくて微笑ましく感じて、思わず笑いそうになった。
『おいで』
少女を自分の膝の上に乗せると、それから少しだけ彼女と雑談をした。こんなに穏やかな時間を過ごすのは生まれて初めてだった。
『いいこ、いいこ』
『え……』
不意に少女がヴォルフラムの頭を撫でる。予想外の出来事に目を丸くすると、少女は得意げな表情をした。
『元気がでるおまじない。いつもね、ユスティーナが悲しいときとか、元気がないときね、お母さまにいいこいいこされると、直ぐに元気になれるの!』
『…… 僕、そんなに元気ないかな?』
お得意の貼り付けた様な完璧な笑みを浮かべるが、彼女は迷う事なく頷いた。
『うん。だってお兄さま、痛くて悲しくて、苦しそうだもん』
『そっか……』
『いいこ、いいこ』
彼女はまたヴォルフラムの頭を小さな手で撫でてくれた。
『君は、優しい子だね』




