コーヒーカップとソーサー
「ふふん♪ ふーんふん♪」
「あら、最近はなんだかご機嫌ねぇ。」
転入から二週間が経った最初の土曜日。
今日は久々に感じるアルバイト。
最初の一週間は、友達と遊んでおいでと叔父さん達が気を遣って休ませてくれた。
奈津希叔父さんが、足りなくなった牛乳を買い足しに行っている間、暇な店内を千鶴さんと二人で掃除していた。
「はいっ! なんだか毎日が楽しいんです。お友達もできて、授業は難しくなって来たけど……。あ、でも今度、七海ちゃんと部活見学に行くんです。」
「いいわね、部活見学。青春ねぇ。」
「千鶴さんは何部に入っていたんですか?」
「んー、内緒にしてくれる?」
そういうと、千鶴さんは人差し指を唇に当てて、少女のように笑った。
私は静かに、こくこくと頷いた。
すると、千鶴さんはちょいちょいと手招きをする。
そして、優しく耳打ちをしてくれた。
「恥ずかしくって、あんまり大きな声で言えないんだけど。私、柔道部だったの。」
「……えっ。」
正直、意外だった。今の千鶴さんの華奢は体躯からは、失礼ながらも運動経験者とは思えなかった。
それに、柔道は激しくて男の人のスポーツという印象がとても強かった。
「マネージャーとかではなく……。」
一応聞いてみるが、千鶴さんの反応的にもたぶん違うのだろう。
予想通り、千鶴さんは首を振る。
「ええ。こう見えてインターハイに出たこともあるの。」
「すごっ!」
申し訳なさそうではあったが、そんなことは気にならないほど充分衝撃的だ。
インターハイはかなり強くないと出れないはず。
「千鶴さん、すごいです。なんか、なんだか、カッコいいですねっ。」
素直に思ったことが口から出てしまったけれど、千鶴さんはすぐにやんわりと笑う。
「ありがとう。でも、不純な動機だったのよ?」
「不純、ですか。」
「私の持ちネタになってるんだけどね。当時は私も若くって、部活なんて適当でいいやって思っていたのよ。それなのに、私は友達の応援で行った柔道の県大会で一目惚れしちゃって。」
気恥ずかしさからか、頬が薄ピンクになって見える。
こういう時の千鶴さんは、女の私が見てもものすごく可愛らしい。
それにしても、学生時代の千鶴さんだなんて、今が若いからか、とても想像しやすいかもしれない。
「そんなにカッコよかったんですか?」
「ううん、顔は綺麗ではあるけど、目立つようなタイプじゃないの。でも、すごく一生懸命で、誰よりも頑張っていて、それがとてもカッコよかったのよ。」
へぇ、と反射的に返事が出る。
でも確かに、頑張る人っていうのはカッコいいかもしれない。
「それで、他校の人だったから会いたくて柔道部に入部。不純でしょう。」
あはは、と照れながら笑う千鶴さん。
「不純じゃないですよ、純粋です。」
そんな、好きな人に会いたくてなんて素敵な理由は、私にはない。
ほんの少しだけ、千鶴さんが羨ましく思えた。
「ふふっ、ありがとう。でも、頑張ってインターハイまで行ったけど会えなかったのよね。」
「もしかして、負けちゃったとか……。」
「残念。その人は先輩で、私が見に行った試合が引退試合だったみたいなの。いいオチでしょ?」
うふふ、と楽しそうにしている。
そっか、引退試合。
ちょっぴり残念だったな、だなんて考えたことは千鶴さんには内緒。
「あははっ、それは確かに残念ですね。」
そして丁度のところでお客さんが入ってくる。
「いらっしゃいませ。」
まだまだ忙しくなりそうだ。
☕️
「そうだ、萌果ちゃん。この間考えてくれたコーヒーたっぷりのケーキ。ようやくできたんだよ。」
落ち着いた辺りで叔父さんが帰ってきた。
「わ、本当ですか?」
「うん。休憩の時までに作るから、味見してくれるかな。」
「ぜひっ!」
コーヒーたっぷりのケーキ。
自分で言うだけ言ったけど、どんな味になったんだろう。
苦味のあるケーキ、あんまり想像つかないかも。
それから、お客さんが二巡しそうになった頃。
ちょうど16時になり、客足が途絶え始める。
「ちょっと落ち着いたかしら。」
「そうだね。この辺で休憩にしようか。」
二人の会話が聞こえて、ついついワクワクしてしまう。
ケーキが食べられると思うと、前のめりになりそうなほどだ。
「萌果ちゃん、こっちにおいで。」
叔父さんに呼ばれて厨房へ。
そこには、桜の花びらを模った大きなケーキと、生クリームにホワイトチョコソースがかけられたカフェオレがセットされていた。
「うわぁ……! かわいい! コーヒーもトッピング付きだ!」
「喜んでもらえて何よりだよ。じゃあ頼むよ、試食担当さん。」
「任せてくださいっ。」
まずはケーキから。
桜みたいに綺麗なピンク色をしていて、食べるのが勿体なく感じてしまう。
それでも試食担当として、仕事は果たさねばならない。
私は意を決して、ひとくち、運んだ。
「どうかな。」
叔父さんはどことなく緊張しているようだった。
そんなの、心配いらないのに。
「これ、すごく、すごくっ、美味しいっ!」
「あはは、よかったよ。」
奈津希叔父さんはほっとため息をついて、千鶴さんは胸を撫で下ろしている。
二人ともそんなに心配しなくていいのに。
誇張なんてしなくとも、このケーキはとっても美味しい。
「もしかして、ホワイトチョコとコーヒーですか?」
「さすがだ。よく分かったね。」
「ミルクコーヒーっぽく、でも甘さを抑えたスポンジを作るの、難しかったのよ。」
ふふ、と千鶴さんが笑う。
一個なら考えてたけど、こんなに材料を合わせても美味しいなんて不思議。
「コーヒーのスポンジに、少し濃いめのエスプレッソを軽く塗って、コーヒーを使ったホイップクリームとホワイトチョコのムースを薄めに挟んであるの。」
「そうそう、それで、ギャップを作りたくてデコレーションはピンク色にしたホワイトチョコのクリームを、ほんのり塩味にしたんだ。」
二人が楽しそうに説明してくれる。
このケーキに、そんなにたくさんの工夫が込められているだなんて……。
やっぱり、叔父さんも千鶴さんもすごい……!
「萌果ちゃん、ぜひカフェオレも合わせて食べてみて。」
千鶴さんに言われた通りに、コーヒーも一緒にいただく。
生クリームが溶けて、柔らかいカフェオレがよりまろやかになる。
(それでも、普段のカフェオレより少し苦いかも。)
そしてまたケーキをひとくち運ぶ。
「…………!」
思わず目を見開いた。
カフェオレを飲んだからって言うこともあるかもしれないけれど、それにしても甘く感じる。
と思えばすぐに、ふんわりと桜の香りが広がる。
「なんだか、さっきとは違うケーキみたい。」
「おや、気づいてくれて嬉しいよ。」
奈津希叔父さんはニコニコとしている。
一体、どうして作った味なんだろうか。
「ケーキとカフェオレ、どちらも同じコーヒー味なんだけど合わせるミルクを変えているんだよ。」
「えぇっ、うそ、全然気が付かなかったです。」
「ふふ。ケーキにはアーモンドミルクを、カフェオレには乳脂肪分が高めの牛乳を使っているの。」
千鶴さんの解説を聞いて、私はまたケーキをひとくち食べて、カフェオレを飲む。
ケーキを後に食べると、香ばしさが強いチョコレート感たっぷりな味に。
カフェオレを後に飲むと、濃厚なクリーミーさのあるコーヒーの味に。
最後にあと引く香りが違うから、味も変わっているように感じるんだ。
「すごい、なんだか楽しいですっ。」
私はそう伝えると、美味しいケーキとコーヒーを何度も食べ比べる。
「気に入ってもらえたかな。」
「もちろんです!」
間髪入れずに答えると、叔父さんは深く頷いていた。
「これなら、お店に出せるかな。」
「えぇ。早速明日からお店に出しましょう。」
「よし、じゃあ仕込みは頑張らないとね。」
その答えを聞いて、私はたまらなく嬉しかった。
お客さんにも喜んでもらえたらいいな。
☕️
「あらぁ、新メニューですって。」
「なになに。桜とコーヒーのデザートセット?」
翌日のティータイム。
常連の夫婦が、早速新メニューに興味を示してくれた。
「ケーキとカフェオレのセットなんです。あえてどちらも同じコーヒー味なんですけど、アクセントのホワイトチョコがすごく美味しかったんです!」
一瞬、キョトンとされた気がしたが、すぐに顔を見合わせて笑っていた。
「うふふ、こんな可愛い子におすすめされたら、頼まないと損ね。」
「ああ。店員さん、このデザートセットを二つお願い。」
「かしこまりましたっ!」
嬉しくてスキップしたい気持ちを抑えて、カウンターに戻る。
伝票にデザートセット2と書き込み、叔父さんに渡す。
「デザートセット二つ、お願いします。」
「お、早いね。これは腕がなるなぁ。」
奈津希叔父さんは軽く腕まくりをして、コーヒーを淹れはじめる。
私が最後まで考えたわけじゃないし、作るわけでもないけれど、新メニューってなんだかワクワクしてしまう。
喜んでもらえたら嬉しいな。
☕️
それから、今日はひっきりなしにお客さんが訪れて、落ち着いたのは閉店間際だった。
コーヒーサーバーを洗いながら、奈津希叔父さんが言う。
「お疲れ様。なんだか忙しかったね。」
丁度テーブルを片付けて戻ってきた私と千鶴さんは、少しだけ見つめ合って笑い出す。
「あはは、忙しかったですけど、嬉しかったです!」
そう言って、下げて来た食器を洗う。
千鶴さんのも受け取り、全て食洗機に入れてボタンを押す。
「新メニュー、喜んでくれるお客さんがいっぱいいて、みんな笑顔で帰っていく様子を見ていたら嬉しくなっちゃったんです。」
「萌果ちゃん、ニッコニコで接客していたものね。ふふふっ。」
「楽しくなっちゃって、えへへっ。」
食洗機が洗い終わり、ピピーっとブザーが鳴る。
と、同じタイミングに一人お客さんがやって来た。
「あ、今日はあと30分で閉まっちゃうんで……。」
言いかけて、止まってしまう。
お客さんではなく、珠綺さんが来ていた。
「いらっしゃい、ませ……?」
「今日はお客さん。」
「え、あっ、そうですね。」
するとおもむろにカウンターへ向かう珠綺さん。
厨房に行くかと思ったが、意外にもカウンター席の端に座った。
「新メニューが始まったって聞いたんで。新しい試食担当さんの舌は信頼できるかテストに来ました。」
そう言うと、私の方を見てにこりと笑う珠綺さん。
新しい試食担当?
テスト?
首を傾げていたみたいで、奈津希叔父さんがくすくすと笑う。
「今回は萌果ちゃんにお願いしたけど、いつもは華君にお願いしているんだよ。」
「でも萌果ちゃんの方が素直で表現豊かで作り甲斐があったわ。」
からかう千鶴さんに、奈津希叔父さんは苦笑いを返している。
「千鶴ねえさんはひどいなぁ。」
「だって華君はあっさりコメントだもの。」
「簡潔なんです。」
珠綺さんは口を尖らせて明らかに不満そうにしていた。
その姿がどうしても幼く見えてしまって、微笑ましく思う。
「テストの合格率はどれくらいですか。」
「んー、10%くらい?」
「わぁ。」
手厳しい、とは言わない方がいい気がした。
珠綺さんは本心が見えないところもあるから、実際厳しいのだろう。
アルバイトが長く、私よりもペチカの味を知っているのは事実だ。
そんな珠綺さんに、認めてもらえるまたとないチャンス。
緊張もするけど、今は自信しかなかった。
それからしばらくして、珠綺さんの前にケーキとコーヒーが置かれる。
「召し上がれ。」
奈津希叔父さんが言うと、珠綺さんはいただきます、とケーキをひとくち運ぶ。
そしてもうひとくちケーキを食べると、カフェオレを飲む。
終始叔父さんと千鶴さんはにこやかに見ていたけど、私はその空気感に緊張してしまっていた。
珠綺さんは少し手を止めて、少し笑ったのかと思うとーー
「美味しい。」
ーーとだけつぶやいた。
そしてまた、ケーキとコーヒーに戻る。
(えっ、それだけ?!?!)
目をぱちくりさせていると、奈津希叔父さんが耐えられなくなったように大口を開けて笑い出す。
「あははっ、分かっていたけどこんなに差があるって思わなかったなぁ。」
釣られて千鶴さんもうふふと笑い出している。
珠綺さん、いつもこんな感じなんだろうか。
「華君、いつもこんな感じなのよ。わかりにくいけどとっても美味しいってことなの。」
「萌果ちゃんは美味しい美味しいって嬉しそうに食べてくれていたから、なんだかギャップを感じるなぁ。」
二人の話を聞いて、私は若干驚いていた。
もっと、こう、感想を言うものではないのだろうか。
その間に珠綺さんはぺろりと平らげていた。
「ごちそうさまでした。」
私自身、ゆっくり味わって食べるタイプなのでそのスピードにも驚いてしまった。
「合格。」
どことなく満足げに言う珠綺さん。
私は置いて行かれたような気持ちで、きょとんとするばかりだった。
☕️
「美味しかったですか?」
「うん、美味しかったよ。」
お皿を洗う珠綺さんに、聞いてみる。
ただ、相変わらず淡々と返ってくるばかりだった。
「百名さんのアイデアじゃないか。」
「いや、それはそうですけど……。」
「不思議な百名さん。」
それはこっちが言いたい。頭で考えていても言い返せないでいた。
どことなくモヤモヤが残る試食担当さんだ。
「でも、萌果ちゃんも華君もありがとう。案もくれて、試食もしてくれて、すごく頼もしいよ。」
奈津希叔父さんがそう言ってくれて、チョロいかもしれないけれど嬉しくなった。
「任せてくださいっ! 私、美味しいもの好きですしっ!」
「それじゃあ、これからも頼もうかな。」
「はいっ。」
少しでも叔父さんの力になれることは、嬉しかった。
お店のことも、もっと頑張って色々できるようになりたいな。
珠綺さんは、看板を下げに行く奈津希叔父さんを見つめながら言った。
「俺も、頼ろうかな。」
「えっと、誰に……?」
「百名さん。」
目元は笑っていたけれど、どうにも本心に思えなかった。
「百名さんっていい子だし。」
「いい子って何ですか。」
「いい子はいい子。奈津希さんが頼るほど優秀なら、頼りになるなぁって思ったからさ。」
楽しそうに話しているが、私には何が楽しそうなのかが分からない。
そもそも、私はそんな大それたことはしていないし。
いまいち何を考えているのかが、分からない。
それでも珠綺さんは、私が悩んでいるのも知らずに、蛇口をきゅっと締めてこっちも見ずに言う。
「頼らせてよ。」
なんでそんなに。
頼ることにこだわるんですか。
考えはしたけど、珠綺さんの雰囲気に押されて、何も言うことはできなかった。
でもどうしても首を縦に振るにはいかなくて、精一杯、気を遣った言葉を選ぶ。
「私に頼らなくても、珠綺さんの方が優秀ですけど……。」
「あははっ、当たり前でしょ。」
なんなんだ。
その言葉しか浮かばなかった。
そしてお皿を洗い終わった後、カバンを持ってまた明日、と帰って行ってしまった。
「それじゃあ、僕たちも店を閉めようか。」
どことなく、心の隅がモヤモヤしたまま、その日は眠ることにした。
☕
「ねえ、華。」
「なに。」
「なんかいい事でもあったの。」
向かいに座ってパンを千切っている廣瀬が、ぶっきらぼうに聞いてくる。
聞きたくないくせに、正直に言ってもふてくされるくせに聞いてくる。
「あったよ。」
「……どんな。」
「いい事があったよ。」
今日のことを思い出して、つい笑ってしまいそうになる。
でもここで笑ったりしたら後で面倒になるのは分かっていた。
「教えてよ。」
「んー、いい子に会った。」
「いい子って誰。」
「いい子はいい子。面白くて、優しい子。」
それから、廣瀬は黙ってご飯を食べていた。
パンを千切っては、口に放り投げ、無くなればパスタを食べる。
廣瀬が何を言いたいか、何を考えているのか、なんで怒っているのか、分かっているけど言わなかった。
それは、彼女の同じだろう。
二人で黙々と食べて、デザートが来た時。
ようやく廣瀬が重い口を開いた。
「……ロリコン。」
「なんとでも言えば。」
真っ白な陶磁器のコーヒーカップとソーサーには、それぞれ色違いのワンポイント模様が掘られていた。
ほわぁっと湯気が立ち、鼻腔をくすぐる。
思わずカップを手に取り、一口含む。
「これは……素晴らしい。」
甘くて爽やかな香りの奥に、深く色濃く独特の香ばしさがある。