いらっしゃいませ、コーヒーペチカへようこそ。
第一部ですが、ほぼプロローグです。
高校一年生の三学期。
3月も半ばで進級間近のこのタイミング。
私、百名萌果は両親の都合から余儀なく転校と引っ越しをすることになった。
「えぇーーん、萌果あぁぁ~~っ。」
「そんなに泣かないでよ。ゆず子も遊びに来てね。」
「うぅ……。私とずっと友達でいてよ、絶対、絶対だよぉ。」
今日は引っ越しの日。
駅のホームまで見送りに来てくれたゆず子は顔を真っ赤に腫らしながら、ずっと泣きじゃくっていた。
保育園から一緒にいた親友だからか、私もつられて涙が込み上げてくる。
電車を5本は見送った頃、ようやく二人で涙が落ち着いてきて。
ゆず子はぐしぐしと涙を拭いた。
「インスタとかメールとか、いっぱい送るから。電話もするから。」
「うん。」
「夏休みには遊びに行くから。」
「うん。」
「電話もするし、お誕生日もお祝いするし。」
「うん。」
とめどなく出てくる言葉がこんなに愛おしく感じるとは思わなかった。
一生会えなくなるわけではないが、今の私達にとって三百キロの距離は月に行くよりも遠く感じる。
私はそっとゆず子の頭を撫で、そして両手を取った。
「ゆず子は私の一番の友達だよ、ずっと、ずっと友達。私も夏休みとかには会いに行くね。」
「萌果……。」
「ばいばいだけど、またね。私、ゆず子のこと大好きだよ!」
「っ……! わ、私も萌果が好き~~~!!」
今日一番大きな声で泣き始めてしまった。
あはは、と笑いながら最後にハグをして電車に乗る。
ゆず子はホームぎりぎりまで走ってくれた上に、電車が行ってすぐにメッセージをくれた。
『もかがんば!!』
☕
居候になるのは親戚の叔父の家。
自宅を兼ねたカフェを経営しているが、小さい頃に行ったことがあるくらいであまり覚えていない。
長くて短い旅を終え、叔父の家に真っすぐ向かう。
コーヒー ペチカ。
薄い茶色に濃い抹茶色の屋根が目印で、思っていたより迷わずに来れた。
どきどきと一緒にインターホンを鳴らす。
「久しぶり、萌果ちゃん。」
「お久しぶりです奈津希叔父さん。」
「遠かったでしょ、よく来たね。」
すぐに玄関が空いて、綿のシャツにジーパン姿の奈津希叔父さんが出迎えてくれた。
優しい笑顔はおぼろげな記憶の中でもはっきりと覚えていた。
「これからお世話になります。」
「こちらこそよろしくね、萌果ちゃん。」
「はいっ!」
お辞儀をしようとして、緊張から勢いよく頭を下げてしまい、少しだけ頭がくらっとした。
さっきまでゆず子といたのに、もう新しい生活が始まるんだ。
顔を上げると、叔父さんが小さく手招きをしてくれた。
「ここではなんだから。さ、あがって。」
靴を脱ぎ玄関先でどぎまぎしていると、叔母にそっと背中に手を添えられた。
奈津希叔父さんと似た優しい笑顔で笑いかけてくれた。
「ようこそ乾家へ。ここが今日から萌果ちゃんのおうちよ。」
「ありがとうございます千鶴さん。」
背が高い奈津希叔父さんはペチカの店主で、絵にかいたような紳士だけど、お父さんの弟。
その奥さんの千鶴さんは、ペチカのパティシエールで綺麗なストレートの黒髪が綺麗な人だ。
最後に会ったのはいつだったか覚えていないけど、優しく出迎えてくれる本当にいい叔父さん夫婦だ。
挨拶もほどほどに、部屋に案内される。
「階段を上がって廊下の端が萌果ちゃんのお部屋だよ。」
部屋の中はベッドとラグと勉強机、それに三段のカラーボックスのシンプルな内装。
部屋備え付けのクローゼットの前には、既に届いていたらしい段ボールが山と積まれていた。
千鶴さんが窓を開けると、心地よい風が吹き込んできた。
「何か不便があったらなんでも言ってねぇ。」
千鶴さんの声にはっとする。
「お部屋まで用意していただき、本当にありがとうございます。千鶴さん、叔父さん。」
二人はにこやかに笑うと、ごゆっくりと言って一階へ降りていった。
私は慣れない電車のせいか肩が重く感じてしまい、ちょっとだけ弱音が出てしまった。
「ゆず子。私、頑張れるかなぁ……。」
言霊というものなのか、思わず不安に襲われる。
居候暮らしということで迷惑かけないかな、朝起きれるかな、大丈夫かな。
考えれば考えるほどに一周回って現実味が増してきた。
くよくよ悩んだって仕方ないし、ここはひとつ気合をいれないと。
「よしっ! 心機一転、色々あったけどこれからがんばるぞっ。」
小さな声とガッツポーズを心に、途方もない荷ほどきを始めることにした。
☕️
こんこん、と控えめなノックで目が覚めた。
思わず居眠りしてしまっていたらしい。
「萌果ちゃん、そろそろ起きた? 千鶴です、夜ご飯食べれるかしら。」
(千鶴さん……?)
我に返る。
乾家に着いて、荷ほどきしていて、それから……。
一体、今は何時だろう。
時計を見ると、短針が半周しようとしていた。
「寝てましたっ。夜ご飯、いただきます。」
思わず自分じゃないような声が出る。
一体私は初日から何をしているんだ。
恥ずかしさと悔しさで顔から火が出そうだ。
「そう、よかったわぁ。一階で待っているわね。」
「はい、すぐ行きます。」
ほどき終わっていない荷物を横目に、ぼさぼさになった髪を手ぐしで整える。
軽く服をはたいて階段を降り、左手奥のダイニングに向かった。
ダイニングに入るといい匂いと共に、お皿が並んだテーブルが目に入る。
真っ白なお皿に、綺麗に盛り付けられたハンバーグがとても美味しそうだ。
「わぁ、すごい。美味しそう。」
思わず声が漏れてしまい、奈津希叔父さんにくすくすと笑われてしまった。
「美味しそうで、つい……。」
なんだかもどかしくなって、そそくさと空いている席に着いた。
「そうか、それはよかった。腕を振るった甲斐があるよ。」
「えっ、これ奈津希叔父さんが作ったんですか?」
冷静に考えれば奈津希叔父さんはカフェオーナーなのだから、料理ができて当たり前だ。
ただ、なんだか、高級レストランのような美しさと匂いに驚いてしまう。
「あぁ。これでも料理の腕には自信があるんでね。」
「すごい…! さすがマスターですね。」
「さあ、冷めないうちに食べましょうね。」
千鶴さんからお茶のグラスを受け取り、三人で手を合わせた。
いただきますをして、早速ナイフとフォークを握る。
そっとフォークを差しただけで肉汁が滲み、湯気からも挽肉と胡椒のワイルドな香りがした。
おなかはキュルキュルと早く食べたいの合図を出す。
ナイフを入れると、じゅわぁっと肉汁が溢れてこぼれ落ちた。
やわらかくもボリュームのある肉の感覚を感じたのに、するすると溶けるように切れた。
切り進めるたびに、はじけ溢れるスープが喉をゴクッとうならせる。
口に運ぶ時にさえ、スープはぽたぽた落ちてしまうので放り込むように食べた。
もぐ、もぐもぐもぐ。
肉は柔らかいのに弾力があって、口の中でどんどん崩れて溶けていく。
脂のうまみがいっぱいに広がると、あめ色に香ばしく炒めた玉ねぎの甘い香りが抜けていく。
粗びき胡椒をかみ砕いて独特な香りに胃までも包まれる。
喉を通れば肉の重厚なうま味がどっしりと残る。
なのに、胡椒の後味が爽やかでもう一口食べたい、という衝動に駆られる。
「……っ、すっごい、美味しいですっ! 奈津希叔父さん!」
「あはは、そうか。喜んでもらえてよかったよ。」
そう言うと奈津希叔父さんも一口味わう。
「奈津希さんのハンバーグ、美味しいでしょう。」
「とっても、とっても美味しいです。こんなに美味しいハンバーグは初めてです。」
千鶴さんが優しく微笑む。
でも今は、そんなことは気にも留めず、ジューシーなハンバーグと甘くて芳醇な人参がハーモニーをひたすら味わった。
(これから毎日こんなに美味しいご飯が食べられるんだ。)
温かな食事と誰かの手料理は久しぶりで心が安らぐものだった。
その日の夜はおぼろげながらも優しい夢を見た。
内容は、よく分からなかったけど。
というか覚えていないんだけど。
久しぶりに、お父さんとお母さんと一緒にいたような。
あたたかくて、優しい手に抱かれているような、そんな心地良さだった。
☕️
翌朝、私は奈津希叔父さんに連れられて、足りない家具や日用品、お洋服を買い足しに来ていた。
着いたのは家から車で15分ほどの距離にある大きなショッピングモール。
服から食料品、家電まで何でもそろうことで全国的に有名な場所だ。
「ここがニャオン! こんなに大きい場所初めて来ました!」
駐車場から入ってすぐの場所から沢山の人で賑わっていた。
タイムセールを知らせる女性の声や、はしゃぐ子供たちの声が聞こえる。
人が多くて明るくて賑やかな場所って、どうしてこうもわくわくするのだろう。
「萌果ちゃんは何を最初に見たいかしら。服? 家具?」
「えっと、服は悩んで時間がかかっちゃうから、家具を最初に見たいです。」
「よし、わかった。」
エスカレーターで三階へ上がった目の前にインテリアショップが見えた。
店頭では新生活シーズンとして、様々なレイアウトが展示されていた。
「まずは萌果ちゃんの部屋に無いローテーブルと、クローゼット用の収納棚を見ようか。」
奈津希叔父さんに案内されて、テーブルやチェストを見て回る。
あれもいい、これもいいと迷う私を後押しするように、相談に乗ってくれる千鶴さんと見守ってくれている奈津希叔父さんに甘えて、好きに選ばせてもらった。
少し時間がかかってしまったが無事に目的のものは全て買えた。
奈津希叔父さんがお祝いにとリボンのついた座椅子を買ってくれたので、車はかなりパンパンになってしまった。
「そういえば萌果ちゃん。うちの店でアルバイトするかい。」
奈津希叔父さんはシートベルトを締めながら言う。
確かに高校生でアルバイトさせてくれるなんて、かなりありがたい。
でも私は、半年間コンビニでバイトしたくらいで、カフェの店員なんて全くの未経験だ。
「うふふ、心配そうだけど大丈夫よ。焦らなくていいし、歳の近いバイトの子もいるわよ。」
「アルバイトしてる人いたんですか、全然気づかなかった……。」
「今日はお休みだからね。」
一人長くアルバイトしてくれている男の子がいるらしい。
奈津希叔父さんが言うには、中学生から働いていて今は大学生。
そんな長続きするだなんてかなり真面目な人なんだろうか。
優しい人だといいな。
そうしてアルバイトの話をしているうちにいつの間にかペチカが見えてきていた。
☕
「ただいまぁ。」
買い物は私のものだけじゃなく、二人が欲しかったという新しいミキサーと掃除機も購入した。
ついでにお菓子も少し買っちゃった。
その上、服を選ぶのにかなり時間がかかってしまって着いた頃には空が薄紫に染まっていた。
「千鶴、荷物のこと頼めるかい。」
「ええ。お店を見てきてください。そろそろ上がりの時間でしょう。」
奈津希叔父さんはリビングまで荷物を運ぶとエプロンを持ってお店へ向かった。
「萌果ちゃん、運ぶの手伝ってもらえるかしら。」
「もちろんです。」
私と千鶴さんはたっぷり買った荷物を一つ一つ運び出す。
細々とした袋たちと掃除機の段ボールを車から運び出し、机の段ボールを取り出そうとしたその瞬間、突然千鶴さんが手を止めた。
「あら華君。どうしたの?」
下で支えていた私は急に重くなった段ボールにびっくりしてうぐ、と声を出す。
すんでのところで支えられた自分に更に驚いたのも束の間、一人の男性がこちらに向かって来ていた。
「お邪魔します。」
艶やかでまっすぐな栗色の髪をした背の高い青年だった。
低くて穏やかな声と裏腹に、どことなく人相の悪い顔が不思議な雰囲気を醸し出し、なぜか目が惹かれてしまった。
「奈津希さんに頼まれて手伝いに来ました。やれることあったら言ってください。」
青年は軽く頭を下げる。
近くで見ると意外としっかりした体格で、ほんの少しだけ怖かった。
「奈津希さんが? ごめんなさいね、面倒でしょう。」
「いえ、千鶴ねえさんだけでは心配なんで。」
そう聞こえると、大きくてどうやって運ぶべきかと悩んでいたテーブルの入った段ボールが持ち上がる。
組み立て前で薄いとはいえ、あんな重たくて大きなものを軽々と運ぶ姿に、ぽかんと口を開けて見ることしかできなかった。
叔父さん達の子どもだろうかとも思ったけど、私に従妹はいないはず。
なんとなく、帰りの車での会話を思い出した。
「あ! アルバイトの!!」
響きそうなほど大きい声で叫んでしまった。
パズルが解けたような感覚に飲まれはしたが、すぐに自分が失礼な声を出したことに気づいた。
「すみません……。」
「いいのよ。紹介していなかったわね。」
千鶴さんが段ボールを置いて戻ってきた青年を呼ぶ。
やや表情が訝しげに見えるが、今は気のせいだということにしておこう。
「彼が長いことアルバイトをしてくれている珠綺華君。あまり口数は多くないけど、優しいから色々聞いてみてね。」
「あ、はい。えっと……叔父さんの家に居候になった百名です。」
軽く頭を下げたけどもじろじろと見られるばかりで、その沈黙がやたらと緊張した。
こういう時はいつもゆず子に助けてもらったことを思い出し、自分のコミュ力のなさに余計に泣けてきてしまう。
しかも大声で叫んだり黙りこくったり明らかにやばい奴なのが明白で、どうしたらいいか分からなくなり口から心臓が飛び出しそうだ。
「百名さん? 珠綺です。よろしく。」
「……あ、はい。珠綺……さん。」
「はい。」
何を話せばいいのか分からなくなってつい目を逸らしてしまった。
「なんか大声で呼んだりして、こう、すみません。」
「いーえ。」
こういう時何を話せばいいのか分からない。
どうしようが頭の中を埋め尽くしてしまい、言葉が詰まる。
きっとおろおろしているのがバレたのだろう。
そっと差し出された珠綺さんの手を見て、ようやく顔を上げることができた。
目が合うと、珠綺さんはほんの少し口角をあげて目を細めてみせた。
その綺麗で優しい笑顔に、どこかきゅんと来た。
(意外と優しい人だ……。)
感動している場合じゃない! と、我に戻り慌てて両手で握り返す。
千鶴さんはそんな私の慌て様が面白かったらしい。
「華君、大きいから少し怖いよね。」
くすくす、と手をあてて笑う。
そこでやっと、自分のことを恥じた。
「あ、わっ、えと、ごめんなさいっ!」
私こんなに人と話すの苦手だったっけ。
自分があまりに挙動不審に思えて、冷や汗が止まらない。
もうとにかく真っ白で、半分振り払うように手を放してしまった。
「あ、その……。」
「いいよ。とって食べたりしないから安心して。」
そんな珠綺さんの優しさが、今はうんと心に響く。
ズキズキする。
(どうしよう…最悪だ…)
そのあとの記憶は息苦しくて思い出したくもないものだった。
珠綺さんに気を遣われてしまった挙句、怖かったら近づかないようにするから、などと言わせてしまった。
千鶴さんや奈津希叔父さんにも、きっと迷惑をかけた。
私と珠綺さんの初対面の思い出は苦いものになった。
ただ、叔父さんの作ったミートソースパスタがとてつもなく美味しかったことだけは確かだった。
「いらっしゃいませ、コーヒーペチカへようこそ。」
品のいい笑顔の店主がカウンターから挨拶をした。ぺこりと頭をさげて指を一本立てた。
「おひとりさまですね。こちらへどうぞ。」
案内されて、カウンターの端の席に座った。