1-2 的外れな人事案
はっ!?
――夢か……。
という展開であってほしい時は、人間なら誰しもあることだろう。井上幸樹にとってまさにそれは今である。しかし、いくら頬をつねろうが目覚めることはない。残念ながら目下の緊急事態は、現実に起きている。
「しかし、なんで俺たちなんです?」
井上が意識を戻すと、田中が疑問をぶつけているところだった。
「実行委員長も係長も、文化祭前でほぼ決まってたじゃないですか。あれはどうなったんです」
「うん、それだが――」
実行委員長の飯田友則は重い口調でこう説明した。
坂本悠人含めもともとの係長候補たちは、文化祭幹部としての自覚が足りない。夏休みには仕事中に持ち場を離れること数回に上った。
さらに彼らは生徒会長・前田健のシンパである。このまま係長候補を据えれば、前田の傀儡になることは必至で、そうなれば文化祭が生徒会主導になりかねない。
また、彼らの掲げる“文化祭改革”は実現性が無く、容認するわけにはいかない。
――というものだった。
「最初のはともかく、文化祭改革云々は俺たちの代の問題でしょう。先輩方が気にすることは無いんじゃないですか?」
田中が問うたが、飯田の返答はあっさりしたものだった。
「他の高校は知らないが、里高では我々にも任命する責任がある。無関係じゃない」
近隣の高校では、文化祭人事は当事者たちが立候補して投票により決する所が多い。だがここ里原高校では、前任者が推薦し、前の代の役員会で決定される指名式である。だからこその飯田の発言ではある。
「そうは言っても、前田と坂本はうちらの代で大きな支持を受けてるんです。あの二人を排除して、文化祭が成功するとは思えませんね」
大畑も田中に加勢する。
「彼らに任せて成功する保証もない」
「我々に任せても成功はしないでしょう。外された側からしたら、俺たちは目の敵だ。サボタージュを決め込むかもしれない」
「そうなれば、彼らには出て行ってもらうしかないな。実行委員会はあくまで、文化祭のために仕事をする場だ」
「そこまでしますか……」
さすがの大畑も呆れを隠せなかった。三人とも、実行委員長たちがここまで強権的になるとは思っていなかったのである。
「いかに状況が変転しようと、我々は文化祭を守っていく責任があるんだ」
飯田の言葉に、鈴木も隣で頷いている。これでは話し合いも何もない。三人は目くばせをし、緊急脱出する意を決した。
「それなら俺たちは……」
「断る、とでも言うか」
口を開いた田中を先回りして、飯田が威圧するように封じる。そして三人は、最後の切り札がジョーカーになったことを悟った。
「君たちが断ったら、別の人間を立てるだけだ。坂本に任せるつもりはない」
断固たる意志だった。
「来週水曜に、生徒会へ報告することになってる。それが終われば正式に次の委員会がスタートだ。それまでに準備をしておいてくれ」
「準備って……なにすりゃいいんだよ」
会議室からの帰路、井上はそうこぼした。
今回のことは、同じ代の人気者二人を敵に回すことになる。
いや、それだけではない。生徒会長の前田健と、実行委員長候補だった坂本悠人は、生徒から絶大な支持を得ている。先の人事を受け入れれば、二人を支持する他の生徒も井上たちを目の敵にするだろう。考えるだけで末恐ろしい。
三人にはすでに廊下の人目が厳しいものに感じられた。
「で、どうだった」
三人を教室で迎えたのは、剣道部の佐藤宏だった。彼も井上や大畑たちと同じひょろっと冴えない族の一人である。だが日々鍛えているだけあって、体幹はしっかりしている。だがモテはしない。
幸い放課後で、教室から生徒は出払っていた。
「どっかの馬鹿が俺たちを適任だとよ」
大畑は呆れるように言い放った。
「それにしてもまずいことになった」
と井上。田中も表情が厳しくなる。
「前田や坂本に嗅ぎつかれる前になんとかしないと、目の敵にされるよな」
「そのことなんだが……」
三人の様子を見て、佐藤は気まずそうに告げた。
「前田と坂本はもう、カンカンだぞ」
「そりゃよか……」
言いかけた大畑はふと我に返った。
「バカ野郎! それ先言え!」
廊下まで響かせる勢いで怒号が飛ぶ。慌てて四人は声を潜める。
「さっき発表だったろ。知らなかったのかよ」
「知るも何も、今まで会議室行ってたんだぞ」
大っぴらに慌てる大畑に、他三人の緊張は自然と和らいだ。
「まあ、三人とも頑張ってくれ」
にやけ顔で言った佐藤だったが、田中は呆れ声で返す。
「何言ってんだ。お前も当事者だろ。広報係長なんだから」
「は? え? 広報……マジ?」
「さてはお前、俺たちの名前だけ見つけて、その先見てねえな?」
その通りだった。
「おいおい、勘弁してくれよ……。そもそもなんで俺たちなんだ」
佐藤の愚痴るような疑問は至極当然のものだったが、大畑はもはや投げやりに答える。
「明らかに前田派じゃない奴っていうと、他に思いつかなかったんじゃないのか。年とってボケてんだよ」
「間違ってるとはいえ、一応先輩だ。抑えとけ」
田中がたしなめるが、大畑の憤激は止まらない。
「これでも昨日まで飯田さんたちに尊敬はしていたさ。でも今日ので株はストップ安。なんなら上場廃止まである」
「それにしても、山本さんはあの人事をみすみす飲んだのかな」
井上の疑問ももっともで、あの人事が通れば、工作部の最上級生三人が全員文化祭に出払うことになってしまう。部としては痛手だ。
「さあな。だけど文化祭ヒエラルキーでは製作係が一番下だ。部長が何言ったって聞かれっこない」
苦い顔で言う田中は、役員会での製作係の冷遇ぶりを知っている。製作係だけは工作部からの編入とあって、やる気はともかく、志願して実行委員になっているわけではない。その分肩身が狭いのである。
「やれやれ、このままじゃ文化祭を守るどころか、二束三文で質に入れるようなもんだぜ、まったく」
大畑は先ほどの飯田の発言を思い出して呆れかえっていた。今回の人事は明らかに失敗への最短コースであって、文化祭を守るという趣旨とは矛盾している。
「守りたいのは文化祭じゃなくて文化祭の体制そのものだろうな。それも軋轢を生んでまで守ろうとしている」
田中の指摘は的を射ていたが、それを認識したところで始まらない。
「いずれにしても、とんでもねえお鉢が回ってきたもんだ」
大畑がため息交じりに呟くと、井上が真剣な表情で返した。
「そのお鉢、ぶっ壊すわけにはいかないのか」
「残念ながら回ってきた鉢は鋼鉄製だ。ちょっとやそっとじゃ壊れない」
「じゃあ元の奴に返すしかないな」
井上の言葉に、他の三人も頷いた。人事を辞退するだけでなく、元の奴に返す。すなわち、坂本を実行委員長に据える。それが当面の目標となった。委員会は誰かが回さなければならない。だがそれには人望が必要だ。
「それは俺たちにはないからな」
「堂々と言うな。悲しくなるだろ」
「まあそう怒るなよ幸樹。短気は損気だぞ」
叱られた大畑は茶化したが、そう笑ってもいられない。
四人は仮にも文化祭実行委員。自分たちの危機を回避すればそれで済む問題ではない。最良の人事を下してもらわなければ、結局は損をする役回りなのだ。
だが少なくとも、全校生徒の総スカンだけは避けねばならない。
「とにかく来週水曜、人事が生徒会に上げられる。それまでに、先輩たちを説得するしかない」
田中の言葉で、四人の顔は一瞬引き締まった。
「まあ、もうみんなご立腹なんだけどね」
佐藤の言葉で、他の三人は一斉に崩れた。
次回、「1-3 前坂の夢破れる」