2-2 第42回実行委員会、始動せず
中間試験最終日。
生徒立ち入りが解禁された昼の職員室は、いつも通りの喧騒を取り戻している。その入口で一人、立ち尽くす姿があった。井上幸樹である。
彼はあまりここに縁がなかった。成績は常に低空飛行であったが、一度として墜落させたことはない。なので呼び出しということはない。一方で教師との交流を持ちたがる質でもなかった。結果として職員室は、彼の数多あるアウェー空間の一つになっていた。
しかしここでこまねいていては、後で惰眠の時間が少なくなるのは明白である。仕方なく、ちょうど来た生徒に続いて、井上は部屋に入るのであった。
扉から二ブロック目の窓際。そこに目当ての人物は座っていた。
「渡辺先生」
そう呼ばれた教師、渡辺博之はこの年二十九歳。社会科教諭。
ものぐさを煮詰めたような人物で、年相応以上に老成した趣がある。生徒からの評判を有体に言えば、時間割に載っていても誰も言及はしない、といった具合である。特別嫌われてもいないし、好かれてもいない。
「文化祭副実行委員長になりました、二年F組の井上幸樹です。今日はひとまず、ご挨拶に来たのですが」
「そりゃご丁寧にどうも」
ものぐさ教師は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「今日からだったっけ」
「そうです……」
お互いに軽い自己紹介をしたところで、渡辺は井上に問いかけた。
「顧問について、どう思った?」
「実のところ、この時期に変わっちゃうか、って感じですね」
「全く同感だ。前任が任期満了とはいえ、時期が悪い。何か前世でやらかしたかな」
渡辺は新任の文化祭顧問である。難しい時期に顧問を引き当ててしまったのは、持ち前の運の悪さだろうか。
「文化祭の事情をご存じなんですか」
「小耳に挟んだだけだ。正直、今の文化祭はよくわからん」
渡辺は首を振ってさじを投げた。
「俺から提供できるのは、お前さん達より十二年分だけ勝った経験と、あとは事務処理ぐらいなもんだ。後のことは任せるよ」
「丸投げってわけですか」
「分をわきまえていると言ってくれ。あと信頼もしている」
「丸投げですね」
井上幸樹に頭痛の種が増えた、その瞬間であった。
それから教室に戻った井上であるが、そこに待っていたのは安眠ではなく、大畑松雄と佐藤宏であった。二人から放たれる邪の空気を感じて、井上は一瞬怯んだ。
「なに嫌な顔してんだよ。こっち来て話そうぜ」
大声で呼びかける大畑は、完全に酔っ払いのそれである。そして井上には何の話かも大方想像できた。文化祭人事のことだ。だから余計に面倒であった。
「幸樹はどう思う」
座りかけた井上に、大畑は乱暴な質問を投げる。
「どうって?」
「女子二人だよ。富田さんと望月さん」
「誰だっけ。お前の彼女か?」
「二人もいてたまるか。いや、たまらねえな。……って、そうじゃなくて、新しい係長だよ。会計と渉外の」
会計係長の富田沙代と、渉外係長の望月里奈。八人いる次期文化祭役員の中で、その二人だけが女子であった。
「ああ……」
「反応うっすいなお前」
副実行委員長という大役を前に、それどころではない井上。だが大畑の方は文化祭役員どころではなかった。
「二人ともどんな子かなあ」
大畑が高ぶるのも無理はない。なにせ井上や大畑のいる工作部は女っ気が少ない。成果物はむさ苦しいものばかりで、女子向けには手芸部もある。そういうわけで、同じ歳の華には飢えているのである。
しかし井上の方の反応はあくまでも冷たい。
「そんなに気になるなら、調べりゃいいじゃねえか。自称情報屋さんよ」
「それが二人は交友関係が広くないらしくて、なかなか辿れない」
「騙されるなよ幸樹。こいつさっき『当日までのお楽しみだ』って言ってたぞ」
佐藤が口を差し挟むと、大畑は顔をしかめた。
「それは言うなよ。人によって方便ってのがあるんだ」
「まあでも、係長に選ばれるぐらいだからさ、俺たちと一緒で周りとも疎遠なんじゃないの」
佐藤が私見というより偏見を挟むが、大畑は二人の肩を持つ。
「俺たちと一緒にするな。あの二人は違うだろ」
「企画係長の木下は?」
井上が問いかけると、大畑よりも先に佐藤が口を開く。
「そいつもどうせ一緒だろ」
「お前本当に第一印象だけで語るなあ。気を付けろ」
大畑は佐藤に釘をさす。佐藤は頑固で言い方にトゲがあるのが玉に瑕、いやただの傷物であるか。
「悪かったな」
「木下は係長候補の中でも一番まともな奴だ。そこそこに顔も広い」
「どうだか」
佐藤はまだ納得しきっていない様子であるが、大畑は先を進める。
「まあ実際のところ、花形の本部企画班を束ねるには、俺じゃ役者が足りないからな。能力と、あとは抑え役としてってところだろう」
「それじゃ一番の貧乏くじだな」
井上が呟くと、大畑はそれを否定した。
「いや、一番はやっぱり坂本だろ。なんせ、今挙げたの以外は、しけたツラーズ五人だぜ」
「なんだその腑抜けた名前は」
佐藤は不快感を顔に出すが、大畑は応じない。
「工作部政権と言われるよりウィットに富んでいていい」
「でも確かに坂本も大変だよな。このメンツで文化祭を乗り切るってんだから」
憐れむように井上が言い、大畑はほんの少し反抗する。
「お前それ言ってて悲しくならないか」
「しけたツラーズが言うな」
井上の返しがうまくはまったらしく、大畑は話を切った。
「……まあそれもこれも始まってみりゃわかる」
それから数時間。所は変わって文化祭準備室。
第42回文化祭実行委員会は、今まさに――始動しそびれていた。
「って、アイツはまだか!」
井上のボルテージは最高潮に高まっている。
「お、俺に訊かれても……」
なだめる田中も精一杯といったところか。
「工作部ってのは、時間に甘いんだな」
企画部長の木下浩二は皮肉を飛ばす。
部屋中の見えない圧で、井上は破裂せんとしていた。
と、そこに当事者が現れる。
「あ、アイムソーリー……」
「バカ野郎、どこ行ってたんだ」
遅刻者――大畑松雄はすぐには応えず、井上の隣の席に座った。
「ちょっとコーヒーを買いにな。幸樹も飲むか」
「げっ、めちゃくちゃ甘い奴じゃねーか。そんなんだから時間に甘くなるんだ」
「関係ねえ。俺は無実だ」
「現行犯だ。とっとと座れ」
ただでさえ、生徒の間で“工作部政権”と揶揄されている現状。
実行委員長の坂本悠人ら前田派が、これを意識しないわけはない。
井上たちが少しでもボロを出せば、坂本側は必ず乗じてくるであろう。
「ちぇっ、そんなことわかってらぁ……」
大畑にもその理屈は分かっている。しかし大畑に言わせれば、それは邪魔な派閥意識である。だからこそわざと遅れてきたのだ。
「俺は文化祭のために良かれと思って……」
「聞こえてるぞ。余計なお世話だ」
「はい」
――こうして最初の会議は封切られた。
次回、「2-3 第42回文化祭実行委員会、始動」