あの味をもう一度
「君へ贈る言葉」に登場した医師による、一人称の話です。
前作を読まれた上でお読みになるよう、ご注意願います。
「愛人がいるなんて話、珍しいことではないだろう?」
その返事を聞くなり、忠告した彼は無言で首を横に振り席を立つと、去った。
「……いいのか?」
「なにが?」
黙ってことを眺めていた私の言葉の意味を、友人は分かっていない。
君は今、一人の友人を失ったのだよ。
私だって、いつ君を見限るか分からない。君はそれだけ、人として最低な振舞いの日々を送っている。
恋に溺れたと言えば、多少聞こえはいいかもしれない。だけど私に言わせれば、ただの愚か者だ。
妻を持ちながら、愛人を作る話は珍しくない。だが君のように、結婚前から妻より早く愛人を新居に住まわせ、結婚後は一向に妻と向き合わない人間など、そうはいない。
しかも妻の家からの支援により、実家は没落を免れたというのに、感謝の念すらない。
侯爵家が男爵家に助けられたことに、プライドを傷つけられたのかもしれない。だけどあの支援がなければ、君の家はどうなっていた? それだというのに……。
君が目を覚ますのが先か、僕が君のもとから去るのが先か。どちらが早く訪れるだろう。
◇◇◇◇◇
「続きは私の家で飲まないか?」
今夜は城で建国記念のパーティーが開かれている。ぼちぼち帰宅する人が出始める頃、親しい友人の一人が皆を誘う。
それを受けた皆、連れに声をかけて断るか、一緒に行こうと誘う中で、例の友人は連れのいない独身の私同様、動こうとしなかった。
「いいのか?」
「なにが?」
本気で言っているのか? 一から説明しないと分からないのか?
◇◇◇◇◇
彼との友情に終止符を打った人物と会った日、彼は驚くべき話を語った。
「いや、驚いたよ。あの男、結婚記念日を覚えていないんだ。その晩、愛人と外食していたし」
結婚記念日に当たるその晩、たまたま料理店で出くわしたそうだ。結婚記念日を匂わせながら話をしても、全く思い出す気配がなく、呆れたと語る。
妻には結婚前に仕立てたであろう、流行遅れのドレスでパーティーに出席させるのに、愛人には流行りの新しいドレスを仕立てていた。
これを聞き、私も愛想が尽きた。
それでも数日後、約束をしていたからと、件の友人の家へ足を運ぶ。
きっとこれが最後の訪問になるだろう。今日を以って、私も彼との友人関係を絶つ。そう決めて。
彼の待つ部屋に案内されている途中、驚くべき使用人の恰好をした女性に、廊下で頭を下げられた。
「来てくれたか」
部屋の中から彼が出て来ると、頭を下げている女性に、紅茶を持って来るように指示を出す。
「かしこまりました、旦那様」
『旦那様』とはっきり言ったが、ニュアンスが違う。あれは夫への言葉ではなく、使用人が主人に向ける言葉だ。
「お、おいっ。彼女……っ」
「メイド長が辞め、新しく雇われた女性だよ。まだ若いのによく働いてくれ助かっている。それに彼女の淹れてくれた紅茶は、とても美味しくてね。ぜひ君にも味わってほしい」
にこやかに言うが……。
彼女は君の妻ではないか。なにを言っているんだ? 一体この家でなにが起きているんだ?
使用人の恰好をした妻が紅茶を持って現れた時、開いたドアの向こうから、友人曰く、最愛の恋人が、妻を睨んでいると気がついた。
彼らは一体どうなる?
付き合いを絶つつもりだったが、好奇心が勝った。もう少しだけ、彼との友人関係を続けることに決め直した。
◇◇◇◇◇
それから月に何度か、理由をつけては彼の家を訪れる。
そのたびに振る舞われる、彼女の淹れた紅茶は美味しく、癒される。
日に日に『妻』を見る彼の目が、優しいものに変わっていると気がつく。そこに愛情が加わることは、間もなく訪れることも。
今の『恋人』は気が強そうな女だが、『彼女』は話し方も動作も落ちついており、正反対と言える。好みががらりと変わったようだ。
彼の館を後にしようと玄関を出ると、『恋人』の女に話しかけられた。
「ねえ、どう思う?」
無礼な言動に眉をひそめながらも答える。
「どう思う、とは?」
「奥さんよ! 急に使用人の恰好をして、あの人の気を引こうとしているに違いないわ! 私があの人の実家で、使用人として働いていたことを知って、対抗しているのよ! そう思わない⁉」
「思わないね」
冷たく突き放すように答える。全く、つまらぬ用件で呼び止めないでもらいたい。
だが酔狂な好奇心が生まれた。もう少し相手をすることにしよう。彼女もそれを望んでいるのだから。
「仕えていた家の息子と恋仲になり、新居で愛人として平気で暮らせる神経は理解できない。だが、これだけは分かる。君、焦っているのだろう?」
「あ、焦る? 私が? ど、どうしてよ」
動揺したように視線をせわしなく動かし、どもる。分かりやすい女だ。
「彼は自分の妻と気がついていないが、彼女に惹かれ始めている。そのことに焦っているのだろう? それとも捨てられる恐怖を、味わっている最中かな?」
「馬鹿なことを言わないで! あの人が愛しているのは、私よ!」
胸元に手を当て否定の言葉を吐くが、それは私に向けてというより、自分に言い聞かせているようだった。認めたくはないが、心の奥底では分かっているのだろう。
「哀れな女だな……。質問するが、彼が離縁したらと考えたことはあるか?」
「あるわよ」
「ならば、不安にならないか? 妻を蔑ろにする男と、一生幸せになれるのかと。彼に他に愛する人が出来たらどうなる? 立場は逆転だ。本当に今の生活が、永遠に続くと信じているのか?」
もし彼が、『妻』と『使用人の彼女』が同一人物だと知れば……。
邪魔になるのは、この『恋人』だ。
妻を蔑ろにする男が新たな恋に溺れ、『元』恋人を邪険に扱うことなど、容易に想像できる。きっとこの家も追い出されるだろう。
「よく考えたまえ」
私はそう言い残し、帰宅の路についた。
私は夫婦の味方ではない。ただこの身の程知らずの女を好いていないだけ。
◇◇◇◇◇
間もなくして、『恋人』から別れを告げられ、家を去ったと聞かされた。そう言う彼に悲しんでいる様子はない。
愛されている。それだけで贅沢な暮らしが出来ていたが、それが揺らいだことで、ようやく現実に目が覚め、見切りをつけたのだろう。
あの女は田舎に帰り、親が探した相手と結婚した。
だが仕えていた家の息子と恋仲になり、愛人として一緒に暮らしていたという破廉恥な噂は、田舎にも広まっており、簡単に縁談相手は見つからなかったそうだ。
ようやく見つかった相手は、妻と死に別れた孫子のいる男で、金持ちでもない。その男の介護要員になるための結婚。幸せになれるとは思えない。
彼女にとって『恋人』の期間とは、なんだったのか。結局なにも残らない、虚しい時間だったのではないだろうか。私が彼女なら……。
「残ったのは、思い出だけか……」
「なにが?」
「いや、なんでもない」
今夜は女性から接待を受ける店で、彼と飲んでいる。
どの女性も酒の匂いを隠すためか、やたら強い香水を身にまとっている。隣に座られただけで、香水の匂いは服に染みつくほどだ。
「それで? これからどうするつもりだ?」
「……妻とは、別れようと思う」
「そうか」
支援がなくともやっていけられるほど、彼の家は持ち直した。
彼の家を訪れても、あの紅茶を飲めなくなる。そのことは残念だ。
それからほどなく、彼は妻を領地へ送った。その間に、離婚の手続きを進める。
「……あの紅茶を淹れるのが得意な使用人が、いつの間にか辞めてしまってね」
いつもの店で飲んでいると、残念そうに彼は言う。
それはそうだろう。君が『彼女』を領地へ送ったのだから。
そして離婚が成立。
祝杯なのか、悲劇への乾杯なのか。分からないまま、いつものように酒の入ったグラスをぶつけ合う。
「実はあの使用人、元妻に付いて領地へ行っていたんだ」
「……へえ」
「もう一度こちらで働かないかと声をかけたが……。戻って来ないということは、彼女は元妻の実家から送られてきた人物だったのかもしれない。もう一度彼女に会いたいものだ」
寂しそうな顔で酒をあおる。
君が自分で招いたことだ。君が傷ついていい話ではない。それなのに君は……。
この夜、私はなぜかいつもの酒量で、ひどく酔った。そのせいか怒りがこみ上げ、止められなかった。
「……ふざけるな! 全部君自身が悪いからだろう! 家の為の結婚とはいえ、妻になった女性を少しも見ようとしなかった! 恋仲の女性ばかりに目を向け……! 蔑ろにした挙句、君は妻の顔さえ知らないのだからな!」
「いや、顔くらい覚えては……」
突然の剣幕にうろたえながらも、彼は反論するが、余計に怒りは燃え上がる。
「いいや、覚えていない! 覚えていたら、あんな酷い言動を取れる訳がない! いいか⁉ 君が会いたがっている使用人の女性はな、君の妻だった人だ! 彼女が黙っていたから私も黙っていたが! 例の一緒に暮らしていた君の愛人も、気がついていたことだぞ! なぜ夫であった君だけが気がつかない! 顔を覚えていないからだろう!」
◇◇◇◇◇
それから彼は、私の言葉が事実かを調べ始めた。
まさかという疑いを抱いても仕方がないだろう。それほどあり得ない話なのだから。
使用人たちは最初、なかなか口を割らなかったが、最後には二人が同一人物であることを認めた。
こっそり元妻の実家を張り込み、その姿を見て彼は愕然とした。
「私は……。なんてことを……」
「あまりに君は彼女を蔑ろにしすぎた。今なら分かるだろう? 周りを見たまえ。君の周りに、どれだけの人が残っている? 多くの友人を失っただろう? 我々の忠告を無視し、恋に溺れ、一人の女性を省みなかったからだ」
彼から反論はなかった。
生まれ変わろうと、彼は頑張った。失った信頼を取り戻そうとより仕事に精を出し、友人関係を絶った者たちにも謝罪して回った。もちろん一度だけで許してもらえるはずがなく、何度も通った。
建国記念パーティーで再会した彼女には、多くの人の前で謝った。彼なりに考えた、誠意の形だ。
それを受け彼女は彼の元へ戻ったが、『妻』ではなく、『使用人』として。
これが己の罰なのだろうと悲しそうだったが、泣き言は言わなかった。自らが招いた結果だと分かっているからだ。
◇◇◇◇◇
「彼女が亡くなって三年か……」
あれ以来、友は人に淹れてもらった紅茶を絶対に飲まないようになった。いつも自分で淹れるか、別の飲み物を口にしている。
理由を尋ねれば、彼女と約束したからだと答えられた。
「彼女と向き合っていれば、違う未来を迎えられただろうか……。今でも悔む。私が愚かだったばかりに……」
知っていながら、長く同一人物だと教えなかった私も罪人だ。だが彼がそれを責めることはない。時々それが辛く、苦しい。
「……ずい分と紅茶を淹れるのが上手になったな」
友の淹れてくれる味は、彼女に比べるとまだまだ。それでも上達している。
きっと友は、彼女の淹れてくれた味を目指しているのだろう。
私も死ぬまでにもう一度、あの味に出会えるだろうか。
愚かな私たちは日の当たる部屋で、紅茶を飲みながら思い出話と、最近の出来事について今日も語り合う。
お読み下さり、ありがとうございます。
愛人(恋人?)も絡めながら、完成となりました。
続編を書くにあたり、三人称か一人称か、どうする?と、かなり悩み、完成まで日数がかかりました。
いろいろ設定を決めてあったので、大まかな話の流れは出来ているのに、妙に難しかったです。
タグを確認頂けると分かりますが、医師である友人は……。
そういうことです、はい。
作品には関係ありませんが、自分で淹れたお茶が美味しい時、すごく嬉しくなり、不味い時は失敗したあ!癒されない!と思うのですが……。
いつも同じ淹れ方なのに、どうして味に違いが出るのやら。不思議です。