破滅への近道
「死ね」
その言葉が耳に届くのが先か、樹梨の爪が襲う。
そして、刃物が肉を捉えた生々しい音が立つ。
目を閉じたさよの頬にポツリと液体が溢れた。
え、生きてる……。
自分の心臓がまだ動いていることに動揺しながら、瞼を開ける。
目の前には、自分を目がけた刃の先端があった。
しかしそれは、さよに到達する直前で止まっている。
「え……」
状況が飲み込めないさよの顔に、また一滴、ぽつりと溢れる。
さよは、恐る恐る顔を上げる。
そこには身を呈して樹梨の一撃から自分を守った兄の姿があった。
「さよ……よかった、無……事……」
兄は最期にそれだけ呟くと、被さる様に倒れる。
「そんな、どうして、藤宮くん……」
手を下した樹梨でさえ、戸惑っていた。
さよの心臓が激しく鼓動を打つ。
全身は麻痺した様に震えだした。
兄の体を腕に抱く。
「許さない……」
ぶっ飛びそうな意識の中、歯を食いしばり憎しみの込もった声を発して。夜の広場に、少女の咆哮が響く。
藤宮さよは覚醒した―。
鋼鉄のような筋肉の層を体に纏う。しなやかに引き締まった上半身。岩のように盛り上がった下半身。先ほどまでの、小動物のような華奢な体型は面影もなくなっていた。
身長は四〇センチほど伸び、一八〇センチをゆうに超えていた。今まで覚醒したさよの瞳は凛然と輝いていた。しかし現在のさよの瞳は大きく見開かれ血筋が浮かんでいる。憤怒に染まっている。
そのエナジーは可視化できるほどに膨れ上がる。その衝撃波で体勢を崩した樹梨の足首をさよは掴むと、そのまま石造りの噴水に叩きつける。
水しぶきが雨の様に降り注いだ。そのまま樹梨の頭を何度も地面に叩きつける。
十回ほど打ち付けると、そのまま片手で樹梨の体を夜空へ投げ飛ばす。
そしてさよは荒れ狂う暴風をその手に宿し、落下してくる瞬間を狙って、チョップを繰り出す。
かまいたちの様な一撃が放たれる。樹梨は全身を斬りつけられ、力尽きた様に膝をつく。
しかしさよの波状攻撃は終わらない。腰ほどの高さにあるその頭を、サッカー選手顔負けな綺麗なフォームで思い切り蹴りあげる。
さよは蹴り飛ばされた体を追いかけ、踵を落とす。
その威力を受け止めることができず大地が割れた。陥没した地面をゆっくり歩きながら両手の拳に灼熱の炎を宿す。
さよの顔がうっすら炎に灯される。
その面持ちは感情を失ったようだ。
樹梨の上に跨ると、マウントポジションをとったまま殴りつける。燃え盛る炎を拳に乗せて、我を忘れた様に打つ。
無我夢中になって。
もはやさよは、樹梨の存在は忘れていた。ただただ、拳を振り抜くことだけを考えていた。
真下の地面を砕くこと、自分と地面との間に何かあるが、お構いなしにそれごと砕くこと。
それでだけに集中していた。
明確な理由は思い出せない。
しかし、そうしないと気が済まないのだ。自分の中にある獣の様な衝動が、収まらないのだ。
「アアアアアアッッッッ!」
夜を切り裂く様なさよの叫び声。
振りかぶった右手。最大級の炎が暴れる様に揺れる。
膝を立てて、腰をひねりながら、今までと比にならないくらいの一撃を放とうとした時だった。それまでずっと無抵抗だった樹梨の赤い瞳が、一瞬鋭く光る。
「―――――ッ!」
さよは、反射的に身を仰け反る。
その頬を、強靭な爪がかすめる。
もう片方の手でさよは殴り飛ばされる。
鈍い音が響いて腹のなかのものが飛び出しそうになるが、なんとか堪え体勢を整える。自分が殴りつけたせいで、陥没した地面から、むっくりと樹梨が立ち上がる。全身から蒸気を漂わせている。
「どうして……」
樹梨の体を包んでいた煙が晴れ、さよは言葉を失った。あれだけの猛攻を、あれだけの暴力を一方的に浴びせたにも関わらず。
漆黒の体には傷一つなかった。さよは幅跳びのように飛び上がると、体をひねりながら樹梨の頬を殴りつける。
拳に、鋼を殴ったような感触がした。
さよの顔が絶望に染まる。
そこには、渾身の殴打を放ったにも関わらず、直立したまま攻撃を受け止めた無傷の樹梨がいた。殴りつけた頬からは、煙が生じている。
樹梨の笑顔から殺意を感じる。
次の瞬間、槍のような爪が、さよの厚い肩を貫通する。激痛が走り血を吐き出すも、その爪をへし折ろうと殴りつける。
しかし、鋼鉄のようにビクともしない。
さよから爪が引き抜かれ、強烈なヒザ蹴りを浴びると視界が揺らぐ。そして追撃の回し蹴りが炸裂し、茂みまで飛ばされる。肩から溢れる血を手で抑えながら、なんとか体を起こす。樹梨の一撃で気絶しそうになるが、なんとか持ちこたえる。
そして、目の前で起きている事態を理解しようと頭を働かせる。
攻撃が、まるで効かない。
自分の威力が足りなかったのか? いや、そんなはずはない。私の全力を放った、全ての攻撃、一つ一つが強烈な一撃だったはず。それが通用していないのか、いやおかしい、そんなことあるわけがない。そんなことは絶対に―。
「『ありえない』って顔してるわね」
冷たい声が響く。嘲笑うような眼差し。
「そんなに落ち込まないで、さよちゃん。とっても痛かったわよ」
クスクスと小馬鹿にするように笑う。
さよはただ睨みつけることしかできない。
「そんな怖い顔しないでよ」
「どうして……なんで無傷のままなの!」
樹梨は一つ息を吐くと、一瞬さよから視線を外す。そして何かに気がついたように眉を動かす。
「そうね……かわいそうなさよちゃんの為に教えてあげるわ」
さよは依然として睨みつけたまままだ。
「私の能力は……『適応』それだけよ。全てに適応するの、環境にも運命にも、能力にもね……」
樹梨は意味ありげに含み笑いをする。
「簡単よ。一度知覚さえしてしまえば、あなたの攻撃なんてどうということもないの、私にとってはね」
さよの表情に動揺が見られる。
「言ったでしょ。そんな顔しないで。おとなしく私にあなたのエナジーをちょうだい」
「なんで……」
出掛かった言葉を一度、飲み込み、十分な声量でもって言い直す。
「なんで、なんであなたたち罪獣は、人間のエナジーを狙うの! なんで、何が目的で私たちを襲うの!」
「さよちゃん、そんな話をする時間はないんじゃない?」
「答えて!」
さよは時間を稼ぎたかった。なんとか樹梨の能力を攻略する糸口を見つける為、そして豪と絃歩が戻って来るための時間を稼ぎたかった。
その魂胆はもしかして相手にバレているかもしれなかった。
いや、知能の高い相手のことだ。きっと気がついているだろう。
しかし樹梨は余裕がある為か。
意外にもさよの願いに応えた。
「いいわ、私の話をしてあげる」と言ってから。
「私は、この人間界とは違う、別の世界。魔界と言っていいかもね。そこに生まれたの。それが悲劇の始まり、罪獣は魔界での罪を償う為にこの人間界に送り込まれるの。私の罪は、生まれてきたことってところかしらね」
皮肉げに口角をあげて微笑する。
「この人間界でより多くのエナジーを集め自ら命を断てば、魔界に転生できるの。上級貴族としてね。できなければ、永久にその魂ごと消滅する。……私の一族は世界から憎まれていた。子供の、ただ本を読んで、動物と戯れることしか知らない私でさえ、刑を執行されるほどにね」
樹梨は目を細め、虚空を見つめる。
ありし日々に想いを馳せるように。
「……じゃあ、あなたの望みは、その魔界で新たな生活を送ることなの?」
さよは反応を伺うように尋ねる。
すると今まで穏やかな表情を浮かべていた樹梨の顔が、激しい憎悪に歪む。
「違うわ、さよちゃん。私は決めたの。私のことを、私の父、母、一族を虐げた全てのやつらを処刑するってね。簡単には殺さない。そいつらが一番苦しんで死ぬように痛めつけるのよ、ね。とっても素敵でしょ?」
いびつな笑みを向ける。
今までとは比にならない樹梨の殺気。
「一言で言えば復讐よ。だからさよちゃん、私の願いに協力して。お願い」
笑顔を作り小首を傾げる。
言葉が出ないさよは、ただただ自分の恐怖を隠すように睨みつけることしかできない。
「もぉ、そんな顔しないでってば。さよちゃん……」
そして樹梨は、再びさよから視線を外し、ニヤリと口角を上げる。
「…………それにさよちゃん、敵は、私だけじゃないんじゃない?」
さよは、その言葉の意味がわからなかった。
しかし猛烈に嫌な予感がして。樹梨の視線の先を追う。
まさか。胸騒ぎが治らない。浮かんだ最悪の考えが頭から離れない。
倒れていたはずの、兄の指がピクリと動く。
さよは呼吸を忘れる。
絶句してしまう。
「……うぅ……んっ……」
あぁ、最悪だ。
最悪の事態だ。
「ここは……どこだ……さよ……」
一秒が永遠に感じた。
藤宮レクが、目を覚ました。




