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雨があがれば

それから数日後、さよに身震いのするような感覚が走った。

 ベッドから飛び起き、急いで先日購入したメンズ用の肌着に袖を通す。



 見ると腕には鳥肌が立っていた。

 着替えていると部屋の扉が荒々しく開け放たれる。

 ノックして! と叫びたくなるが、そこに現れたジャージ姿の兄の顔に、出かかった言葉は引っ込む。



「さよ……いま、すごい、気配が、しなかったか?」



 その顔はひどく怯えているようだった。見ると脂汗まで浮かべている。



「うん、急ごう」



 あのお兄ちゃんが、ほとんどエナジーを持っていないお兄ちゃんでも、いまの強烈な気配を感じたのか。それってつまり。



「やばくないか」



 兄が呟く。

 慌ただしくしていたさよの部屋は、その一言で静寂に包まれ、秒針の音だけがうるさく聞こえる。



 その沈黙を破るようにさよの新しく買い直したスマホが鳴る。

 その着信は坂本豪からだった。



「藤宮妹、今の感じたな」

「はい」

「急いで現場に行け。俺と絃歩も向かってる。一番近くにいるのは俺たちだけだ」



 それだけ言うと一方的に電話は切られる。

 さよは耳元からスマホを離し「急ごう」と言って兄の横を通ろうとするが、その腕を掴まれる。



「お兄ちゃん……?」



 さよは自分の腕を掴む兄の顔を見上げる。

 するとそこには、先ほどまでの怯えた表情は消え去り、重々しい顔をした兄がいた。

 そして奥歯を噛み締めると、なにか覚悟が決まったようにこちらを向く。



「さよ、行こう」



低く力強い声。



「うん」



 二人は家を飛び出した。




 夜道を走っている途中、二人の男女が目の前に見える。



「あ、さよちゃぁ~ん、ゴキブリさーん」



 乃木絃歩が背伸びをしながらブンブンと腕を振る。



「おい! ゴキブリってなんだよ垂れ目!」

「間違ってないぞ絃歩」

「合ってるよ絃歩ちゃん」



 さよと豪に肯定された絃歩は嬉しそうに微笑む。

 レクは未だ文句があるのか口を大きく開いた時。



 乃木絃歩の眼光が鋭く光る。

 目にも留まらぬ速さで、レクの口の中に手を突っ込む。

 突然の出来事にレクを含めた三人は身動きができない。



「い、絃歩ちゃん!?」



 さよが驚きの声を上げる。

 見ると絃歩の手は、レクの上の歯、兄が毎朝気にしている八重歯を掴んでいた。



「ピザぁ~ピザぁ~」



 絃歩はもう片方の手でレクの肩を掴み、足を腹に押し当てレクの八重歯を引き抜こうとしている。



「ピザが生えてるでょぉ~」



 絃歩は口では気の抜けた声を発するが、その目は獲物を捉えた獣のようだ。



「ひはいっ! ひはいっ! あがっ! あうええええ!」



 レクは上手く話せない口で懸命に何かを伝えるが、さよにはどうすることもできない。



「抜けたっ!」



 ブチリ、という嫌な音ともに絃歩の体が離れる。

 レクは悲鳴を上げ、両手を口に当ててその場で転がる。



「さよ、痛い痛いよ、さよ」



 涙目のレクはさよの腰に抱きつく。

 さよは今目の前で起きた光景に驚きを隠せず、痛がる兄になんと言葉をかけていいか迷った末に「八重歯が、なくなってよかったね……お兄、ちゃん……」と口にする。



「あいつ、おかしいよ、頭おかしいよ……」



 レクの声は震え、その表情を恐怖が支配する。

 お兄ちゃん、それが普段から私があなたに抱いている感情だよ。



 今度はすぐにかけるべき言葉が浮かんだが、口にはしなかった。



「いただきま~す」



 絃歩は座り込み、手に入れたレクの八重歯を放り込もうと、大きな口に投げ入れる。しかし「チッ」と舌打ちが聞こえたかと思えば、その歯は豪の手元に収まっていた。



 手の甲に歯型をつけた豪は、そのまま隣の雑木林に尖った歯を投げ捨てる。



「お前ら、ふざけてんのか! これから敵と戦うんだぞ!」

「なんで俺まで怒るんだよ!? あの垂れ目が元凶だろ!」

「絃歩、あんなゴキブリの歯を食べようとするな、ビョーキになるぞ!」



 豪は地面に膝をつく絃歩に怒鳴る。すると彼女は豪の袖を引っ張る。絃歩の視線は、暗い夜道の先に向けられていた。鼻をピクリと動かす。



「ごーぉー、敵ならもうそこだよ~」



 皆の視線が一斉に前方へ集まる。



 すると闇の向こうから街灯に薄っすらと照らされ、少女が姿を現す。ローファーとアスファルトがぶつかる硬質な足音。さよは目をすがめ、闇に紛れる少女を凝視する。



 制服を着ていた。



 シャツは首元まで閉められ、スカートは膝小僧をすっかり隠すほど長い。長い黒髪を揺らしながら一歩ずつこちらに近寄る。

 


 そして街灯の下まで来て立ち止まると、少女の顔が照らされる。

 端正な顔立ちだ。顔のパーツがあるべき場所に配置されている。



 怖いほどに、美しい。

 さよは少女に抱いた印象に、どこか覚えがあった。



「安西……」



 腰に腕を回して抱きつく兄の声が漏れる。

 安西、その名前をさよは聞いたことがある。



「体調大丈夫か、心配したぞ。てか、こんな時間にどうした、あの、えっと。詳しくは言えないんだけど、ここは危ないから……」



 レクは立ち上がると、安西樹梨の元まで歩き出す。



「おい、やめろ」



 豪が制止するが、聞こえていない様子だ。



「まだ、怪我したところが、痛むのか。それか、お前のことだから国語の授業が嫌になって休んだのか? ハハッ、

それはねぇか」

「おい、聞こえねぇのか、止まれ!」



 怒気を隠さぬ豪の声が響いた。

 レクが話しかける少女、安西樹梨はきつく口を結んでさよ達を睨みつけたままだ。

 さよは記憶を探る。



 安西、確かその名前は。

 


 お兄ちゃんのクラスに遅れてやってきた転校生。

 なぜか、五月のこの時期に転入してきた少女だ。

 そう、確か、その理由は……。

 


 一ヶ月前、事故にあったから。

 一ヶ月前……。

 


 それは、私と兄が能力を継承した頃。

 さよの足が、勝手に動き出した。

 嫌な予感がした。スローモーションのように景色がゆっくりと流れる。



少し前に、急に兄から強いエナジーを感じたことがあった。そのとき私は、遅れて能力に覚醒することもあるのかと強く気には留めなかったが、結局あの日、兄は犬の罪獣に一撃でやられていた。

 


 そう、あの時は、確か。

 


 確か兄の肩口から強いエナジーを感じた。

 そのとき兄はワイシャツを着ていた。普段はジャージに着替えるのに。



なんでだ、なんであのとき兄は、制服のままだった。どうして脱いでなかった、どうして。

 


 そしてさよは、兄の言葉を思い出す。

 


 ―お前、嫌いな人間の肩に触るか?

 


 頭の中で、全てが繋がった。



「お兄ちゃん!」



 さよが叫ぶのとほぼ同時に。



「藤宮くん。こんばんは」



 安西樹梨の冷たい声。



「そして、さようなら」


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