其の弐 1
かくして、ベアトリクスは、図書館の前に立っていた。
場所はちょうど【智の塔】の隣。
いまだ朝靄も晴れない時間だというのに、アキコは図書館へと入って行く。それも通用口ではなく、正面玄関から堂々と。
「アキコさん、こんなに早くから開いてるんですか?」
「えぇ、ここ暫くの間はね。いまちょっと大変なのよ。もっとも、開館時間はまだずっとあとだけど。まぁ、入ればわかるわよ」
硝子製の扉をくぐり、そしてこれまた硝子製の内戸をくぐる。
とたん、図書館とは思えない喧騒がベアトリクスを襲った。
聞こえてくる音。それは、いわゆる街の喧騒そのものだ。
いや、このレベルではもはや喧騒ではなく騒音だ。
いったいこれは……なに?
「あー。まだ見つからないのね。まったくうるさいったら」
アキコがうめいた。
見つからないとはなんだろう?
「あぁ、来たか、アキコ。またミカカが行方不明になった。今度はどうする? また捜索隊を出すか?」
紺色のエプロンドレスを纏ったブルネットの女性が、アキコの姿を見つけるなり、パタパタと走ってきた。
ベアトリクスとリューマムは目を丸くした。
いや、彼女の恰好にではない。
確かに、図書館にメイドというのは、どう考えてもおかしい。だが彼女の口ぶりからして、彼女もまた、この図書館の職員であるにちがいない。
しかし、ベアトリクスとリューマムが驚いたのはそのことではない。
それは、彼女の目だ。
瞳のない黄色い目。
明らかに人間の目ではない。
これはどう見ても黄玉、いや黄水晶だ。
宝飾店で働いていたベアトリクスには一目で分かった。
彼女は……いったい?
「あーもう! 次から次へと。ベアトリクス、ごめんなさい。ちょっと待ってて」
「あ、はい」
反射的に答え、ベアトリクスはメイドとカウンターへと向かうアキコを見送った。
はぁ~……。
館内を見回す。
左を見る。十数ザス先にカウンターが見える。あそこで図書の貸出しを行うのだろう。アキコが髪を掻き毟っている。奥には引き戸。きっとあそこが司書室に違いない。
右をみる。なんだかずっと向こうに端がみえる。百数十、いや、優に二百ザスはあるのではなかろうか。ベアトリクスの立っている場所からその端まで、縦幅十数ザスの間の、吹き抜けとなった広い場所に、テーブルが整然とならんでいる。ここが来館者の読書スペースなのだろう。
「また物凄い広いわね」
ベアトリクスは目を丸くしていた。
そして正面を見る。
正面には、書架が整然と並んでいた。
少し上をみると、二階の書架の群れが見える。
そう、まさにこの数は群れだ。
「ねぇ、お嬢。ちょっと行ってみようよ!」
「そうね。ここでただ待ってるのもなんだし。ちょっとだけ見てみようか」
奥へ向かって歩き出し、せっかくだから二階に行く事に決めた。
だがフロア中央にある階段の手前でベアトリクスは足を止めた。
どういうわけだか地下への階段は手摺にロープが架けられ、立入禁止の札がぶら下がっている。
なんだか不穏な感じがしたが、ベアトリクスは首をぷるぷると振ると、階段をしっかりと踏みしめて登った。そして、眼前に広がる書架の群れに、しっかりと向かい合った。
正面を見た。突き当たりの壁が見えない。
右を見た。書架が整然と並び、やはり壁が見えない。
左を見た。……右側と同じだ。
って、ちょっと待ってよ。
「またなんて馬鹿げた広さなのよ、この図書館」
「……広っ!」
ベアトリクスとリューマムは目を丸くした。
いくらなんでも、これはないでしょう?
どうして壁が見えないの?
前も! 右も! 左も!
慌てて後ろを振りかえる。
よかった。ちゃんと階段がある。
気持ちを落ち着けると、ふたりは顔を見合わせた。
どう考えてもこの広さは異常である。
だが、それよりもなによりも、一番おかしいのはこれだ。
どどーん。
ぎゃー。
グガァァッ!
なんで爆発音が?
どうして悲鳴まで聞こえるの?
おまけにこの鳴き声(?)はなに?
だいたい、まだ開館時間前だ。だれもいないハズじゃ……?
「……こ、ここ、図書館よね?」
ベアトリクスが不安な面持ちでリューマムに問うた。
正直、疑わしくなってきた。
たとえ目の前に書架に本が詰まっているのを見ても。
「……図書館って、こういう所じゃないの?」
リューマムが尋ねる。
ぶんぶんと首を振って、ベアトリクスは慌てて否定した。
これは絶対に図書館でありえるような音ではない。
どうやらリューマムは、図書館は初めてであるらしい。
ベアトリクスは額に手をあてうなだれた。
ちょ、ちょっと戻ろう。
これは、さすがにこのまま進むのはためらわれる。
かくしてふたりは階段を降りはじめた。
「あぁ、よかった。戻ってきた。奥に行っちゃったら、どうしようかと思ったわ」
階段の袂で、アキコが胸に手を当ててホッとしていた。
その様子に、ベアトリクスはますます不安な気持ちになる。
自分は……選択を間違ったのではなかろうか?
「あ、あの、どうしたんですか? アキコさん」
「ここは危険な場所なの」
アキコの答えに、ベアトリクスは顔が強張った。
き、危険? だって、図書館でしょ?
もはや彼女の常識は壊されつつある。
「危険って、でも、ここは図書館……」
「えぇ、図書館よ。でも、あ~ゆ~のが普通のね」
そういってアキコは目を閉じ、耳を澄ます。
ずがーん!
また爆発音が聞こえてきた。
「……てこずってるみたいね」
ボソリとアキコ。
て、てこずってるって……いったい何?
ベアトリクスの口元が引きつった。
「その……いったいなんなんですか? これ? というか、その……」
ベアトリクスは言葉を途切らせると、ひとつ息を大きく吸いこみ、根本的なことをアキコに尋ねた。
「ここ、図書館ですよね?」
たちまちアキコの顔が曇る。
そしてやおらベアトリクスの肩をぎゅっと掴むと、しっかりと彼女の顔を見据えた。
「えぇ、図書館よ。でも、普通の図書館じゃないの」
そう云うや、アキコは突然、嫌そうに顔をしかめた。
「この私が管理している場所を、この私がこんな風にいうのはとっても嫌なんだけど、云っておくわね。どうせ、ここで働く以上、誰かから聞くことになるだろうから」
アキコはため息をついた。
「ねぇ、ベアトリクス、あなた、この図書館の名前、知ってる?」
「はい。中央図書館です」
ベアトリクスは答えた。これはパティから聞いたことだ。
「……パティから聞いたのよね?」
ベアトリクスとリューマムは頷いた。
「嫌味ね。いえ、そんな気はないんでしょうけれど。そう、ここは中央図書館。でも、誰もそんな名前で呼びはしないわ。私がここにいついて百余年。その呼び名を聞くのはせいぜい一年に一、二回というのが実情なのよ」
もはや諦めきったような口調でアキコが云う。
「ここはね、こう云われているの。読みたい本の見つからない図書館。必ず迷子のでる図書館。ってね」
それはわかるような気がする。
この異常な広さ。図書館の中央あたりにいたら、うっかりすると方向感覚などすぐに見失うに違いない。それに、この蔵書量。目当ての本を探すのは、それこそ砂漠に落とした針を探すのと同じことだろう。
「そのせいか、昔からここはこう呼ばれているのよ」
そして気を取り直すように息を深く吸い込むと、しっかりとベアトリクスの目を見つめ、その名を云った。
「人呼んで、迷宮図書館」