其の壱 4
翌朝。ベアトリクスは夜明けと共に起きると、身支度をし、テキパキと荷物をまとめた。
そして朝食を簡単にとると、まだ朝靄が漂う中、ふたりは【智の塔】へと歩き始めた。
やや湿った、冷たい空気が眠気を醒ます。
まだ薄暗いというのに、通りにはチラホラと人が出歩いていた。
ゴミを収集してまわる、清掃局の馬車も見える。
朝靄が半ば晴れ、足元を流れる程度になったころ、ふたりは塔へと着いた。
門をくぐると、ちょうどパティが大扉を開けているところだった。
「おはようございます」
「あら、おはよう。また思ってたより早く来たわね。朝ご飯は食べた?」
「はい」
「うん。それじゃ、寮のほうにいこうか。こっちよ」
そういうとパティはふたりを促し、ちょうど【智の塔】の正面、この中央広場沿いの建物に向かう。
「ここが【智の塔】の女子職員寮よ。とはいっても、ここに住んでるのは五人しかいないんだけどね。ま、みんなとの顔合わせは今晩にしましょう。まずは部屋に案内するわ」
パティはそういうと、扉を開いて中に入っていった。
玄関を入ると、正面に階段。右手には引き戸の部屋が見えた。
「ここは食堂。朝はみんなここで食べてくわね。一応、部屋で自炊することもできるけど、みんな水汲みが面倒で、やってないわね。階段脇を抜けた奥が洗面所と大浴場、それにトイレね」
そして階段を登り、二階へ。
「右側の一番奥からふたつ手前の部屋があなたのお部屋」
パティに促され、ふたりは部屋に入った。
正面に大きな窓のある部屋。広さは、宿屋のふたり部屋と同じくらいだろうか。右手には炊事場。左手には寝台。扉のすぐ右脇には、造り付けの棚がある。
そして、ワックスで磨き上げられた、綺麗な板張りの床。
思っていたよりも、ずっと広くて綺麗だ。
「はい。見とれてないで入った入った。ちょっと手狭かも知れないけど、とりあえずはここで良いわよね」
「はい。ありがとうございます。十分です」
ベアトリクスが礼を云った。
「月単位で寮費を払ってもらうことになるんだけど、それはお給料から天引きされるから、気にしないで良いわよ。ま、たいした額じゃないから。せいぜい二万リープ程度よ。詳しくは、あとで書類を渡すわね。はい、それじゃ、これが鍵。まぁ、誰も鍵なんて掛けてないんだけどね」
鍵を受け取りながら、ベアトリクスが不思議そうな顔をした。
「物騒じゃないんですか?」
「ここの防犯は完璧なのよ。もしそれが破られるようなら、こんな鍵なんて掛かってても掛かってなくても同じってこと」
「はぁ」
なんだか釈然としない面持ちで、ベアトリクスは手の中の黄銅製の鍵を見つめた。磨きあげられたそれは、まるで黄金のようだ。
「ま、この部屋の主って証みたいなものよ。あ、そうそう。寮長は私ね。なにか困ったことがあったら云ってちょうだい。私の部屋は一番奥だから」
パティは入り口に立ったまま、奥を指差した。
「はい。お世話になります」
「うん。それじゃ、荷物置いて。あなたのボスに会わせるわ」
ベアトリクスは背負っていた荷物を慌てて寝台に放り出すと、廊下へと出た。
そして向かうは隣の部屋。
トントン。
パティが控えめにノックをした。
「アキコ~。起きてる~?」
「んー。ちょっと待って~」
はっきりとした返事が返って来た。この部屋の主はしっかりと目覚めているようだ。
ややあって、ベアトリクスと同じ、長い蜂蜜色の髪を赤いリボンで束ねながら、彼女は部屋から出てきた。どうやら着替え中だったらしい。
タイトな深い紅色のスカートに、フリルのついた薄手のブラウス。胸元には落下防止の鎖で繋がれた眼鏡がぶら下がっている。
そして彼女もまた、パティ同様にエルフだ。
「パティ、また随分と早いわね。どうし……」
「お、おはようございます」
「ございます」
ベアトリクスとリューマムが、しゃちほこばるようにアキコに挨拶をした。
アキコはきょとんとしている。
「はい、おはよう。……えっと、どなた?」
「このふたりが昨日話した娘よ。あんたの新しい部下」
パティがふたりの代わりにアキコに答えた。
「う、嘘。あれ冗談じゃなかったの?」
「冗談って」
「……どうやら、相当、ひどいことになってるみたいね」
これからの仕事場となる図書館の惨状を思い、ベアトリクスは不安になってきた。
「あ、ごめんなさい。あぁ、でも助かるわ。まともな人材が欲しかったのよ。私はアクィウェラコーリーンよ。よろしくね」
にっこりと微笑み、アキコがベアトリクスに右手をさしだした。
「あ、アクィ……」
その手を握り返し、名を発音してみようとするが、どうもうまく行かない。
「あぁ、無理して云わなくて良いわよ。舌噛むから。アキコって呼んで頂戴」
「わ、わかりました。アキコさん。あたしはベアトリクスです」
ベアトリクスが名乗る。
「ベアトリクス?」
「はい」
「……セカンドネームは?」
「色々と事情がありまして、いまはベアトリクスだけです」
「そうよ。可哀想だから、根掘り葉掘り聞いちゃダメよ」
パティが腕組みをしながらうんうんと頷いている。
きっと、いや、絶対なにか勘違いしているに違いない。
「うん。ただのベアトリクスね。でも、なんだかしっくりしないわね。私たちみたいに長いわけじゃないし」
「大丈夫よ。あんたのところで働くんだもの。すぐになにかくっつくわよ」
のほほんとパティが云った。
「くっつくって……」
ベアトリクスが苦笑いを浮かべた。
名前は決してソースの染みの類ではない。
「だって、ただのベアトリクスのままってことは、一般的な、尊敬する人とか、身内の名前、故郷の名前をセカンドネームに付ける気はないんでしょ?」
「え? あ、そうか。そうだった。普通はそういうものなのよね」
なんだか感慨深気に呟くベアトリクスに、パティとアキコは顔を見合わせた。
「……もしかしてあなた、貴族?」
「だから、聞いちゃダメだって」
パティがアキコの口を塞いだ。
「いえ、あの……」
「いーのよ。云わなくて。お姉さんは分かってるんだから」
ぎぎゅっとパティがベアトリクスの肩を掴んだ。
リューマムが慌てて指定席から逃げ出した。
えーと……どうしたものかしら……。
苦笑いを浮かべたままオロオロしていると、いきなりベアリクスはアキコに抱きすくめられた。
「あぁ、なんだか可愛いわね。私と同じ髪の色だし、妹みたいでうれしいわ」
「う、うわ。あ、あの、アキコさん?」
アキコの胸に埋もれ、ベアトリクスがうろたえた。エルフにしては、ふくよかな胸をしている。
妖精族たるエルフは、往々にして華奢な体つきなのだ。それは、パティをみればよくわかる。そして彼等は非常に長命な種族でもある。
「ちょっとアキコ、あんた寝惚けてない? それとも徹夜でもした? なんか変よ?」
アキコの反応に、パティがあからさまに胡散臭げな顔を浮かべた。
「パティも知ってるでしょ、図書館の有様。あれでまともにいろって云うのが無理よ。いつもの混乱と騒ぎはなれてるけど、今回のアレは洒落になってないのよ。私の九十年が一瞬で無駄になったのよ! 一瞬で、九十年が!」
「き、九十年?」
ベアトリクスが思わず声を上げた。
「あぁ、アキコ、図書館で司書をはじめて九十年になるのよ。もっとも、いついてからは百年くらいになるけど。いわば、図書館の主ね」
「そーゆーあんたは、塔の受付の主じゃない」
かくて、じろりんと睨みあうはふたりのエルフ。
「ねぇねぇ、お嬢。エルフってみんなこんなんなの? 面白いねー」
「いや、面白いって、あんたね」
果たして、どう答えたものか。
脳天気なリューマムの姿に、ベアトリクスは顔をしかめた。
するとパティとアキコはベアトリクスとリューマムをじっと見つめたかと思うと、疲れたように、ふたり同時にがっくりと項垂れた。
「それじゃパティ、この娘、もらってくわよ」
「もらってって……まぁ、いいか。ちょっと待ちなさいよ。私も塔に戻るんだから」
パティは慌てて三人を追いかけた。