其の陸 2
「う、嘘、やっぱりキャットマン?」
「なにそれ?」
「背骨に住んでる猫人間よ。自分たち以外の種族を皆殺しにする、危険な種族だわ」
首を傾ぐシビルにベアトリクスは答えた。
「そんなのいるんだ。でも、この子たちは違うわよ。だって、この本の登場人物だもの。ほら、ご挨拶」
「はじめまして。私、ネネと申します」
灰色猫、ネネがペコリと頭をさげた。
「あとひとりが……」
シビルが開けっ放しの入口に目を向けた。そこには、そろそろと、手に持ったトレイのお茶をこぼさないように、必要以上に慎重に歩いてくる黒猫の姿。上下黒づくめの恰好は、いわば執事といった感じだ。
「ロロ! はやくしなさいよ!」
ネネが急かした。だが、ロロは答えない。
……あまりに慎重すぎて、答えるどころではないようだ。
「遅いわね。寄越しなさいよ」
ズカズカと無造作に近寄ると、ネネはロロから容赦なくトレイを取り上げた。そしてテキパキとテーブルにお茶を並べる。彼女の背丈からすると、このテーブルは高いだろうに、実に器用だ。
ロロはというと、ネネのその姿を見て、がっくりと肩を落としていた。
「あれがロロ。主人公よ」
「……頼りなさそうね」
「頼りになったら、竜を出し抜かずに真っ向勝負してるわよ」
なるほど。もっともである。
「そうだ。さっきの背骨ってなに?」
「大陸を縦断している大山脈よ。北方は魔物共の棲まう魔境ともなってる危険な場所」
「そんなの知らないなぁ。なんだか、時の隔たりを感じるわね」
実感し、シビルはうんうんと頷いた。
「と、それよりも、物語について話さないとね。
物語はこのふたりが、伝説に謳われる、虹の泉に棲む魚を捕まえにいくところからはじまるの。その魚を食べると、願いが叶うといわれているわ。だからふたりは向かうのよ。森を越え、湖を越え、そして谷を越えて、いざ虹の泉へ。
虹の泉には一匹の竜が棲んでいるの。草食性の竜。その竜の好物は、虹の泉の周囲にだけ生える、虹色西瓜の実。その虹色西瓜は、虹の泉の水でなくては育たない。だから、そのことを知っている竜は、虹色西瓜を守ることはもちろんのこと、虹の泉を荒らす者を追い払っているの。その蒸気吹き竜を如何に出し抜いて魚を捕るか。それがこの物語のクライマックスよ。そして結末は、もちろんハッピーエンドよ」
ピンと人差指を立てて、シビルが得意そうな笑みを浮かべた。
だがベアトリクスは釈然としない顔。
「竜が二頭足りないわよ」
「だから、最初っから一匹だけだったんだってば。誰かが書き変えたのよ! この本は、普通の本じゃないから、文字で綴るものじゃないわ。だから、私、この手の本専用のペンを創ったのよ。世界を綴るペンを。きっと、誰かがそれを使って書き変えたんだわ。だって、私、体感者に危険が及ぶような生物なんて、設定してないもの!」
ピンと立てた人差指を、今度はベアトリクスに突き付けてシビルが憤慨した。
「どうやら、悪意ある第三者が介入しているのは確かだな。だが、シビルをこの世界に放り込み、その竜と対峙させようとしたのなら、これは明らかな殺人計画だ」
ヌンが静かに云った。
それは実に単純な推理だ。
「さ、殺人?」
たちまちシビルの表情が恐怖に彩られた。その大きな翠の瞳が、オドオドと左右にかすかに揺れる。
きっと彼女は、そんなことをちっとも考えもしなかったのだろう。
ベアトリクスはいまにも泣き出しそうな彼女を抱きしめた。
「だ、大丈夫よ! 私たちがシビルをちゃんとここから出して上げるから。お姉ちゃんたちに任せときなさい」
「まったく。あんな子供を殺そうとするなんて! なんて酷い!」
ベアトリクスはいまだに腹を立て、ぶつぶつと文句を云っていた。
シビルたちはというと、出発のための準備をしている。いろいろと持っていくものがあるのだそうだ。
「ベアトリクス」
「なに? ヌン」
「ひとつ、重大な事実がある。それを話しておこうと思う」
ベアトリクスは怪訝な顔をすると、しっかりと席に腰を落ち着け、ヌンの顔をじっとみつめた。
いつも単刀直入にズバズバいう彼女がこんな前置きをするのだ。きっと、本当に重大なことなのだろう。
「ロゴスダウ大帝国が滅亡するのは知っているな?」
「えぇ。もちろん」
「その滅びの原因は、帝国の魔術師たちが行った、世界再生術の失敗のためだ。シビルが云っていただろう。精霊界崩壊により、世界が荒廃したと。彼らは世界の再生を行おうとし、失敗したのだ。……いや、失敗するのだ。シビルの生きる時間から見れば」
ヌンは言葉を切り、じっとベアトリクスの反応を待った。
「そ、それじゃ……シビルは……」
「彼女の話から推察するに、精霊界崩壊から数年は経っている。恐らく、彼女が帰ってより、数年と経たずして、その計画は発動されるはずだ。そして彼女は有能な精霊術師、大導師級の術師と思われる。まず間違いなく、その計画に組み込まれることだろう」
ベアトリクスは椅子を蹴倒し立ち上がった。
彼女の足元に椅子は倒れ、転がる。
「それじゃ、それじゃ、シビルは……」
「残念だが……。彼女は、彼女の時代に戻る事になるからな」
ベアトリクスは真っ青な顔のまま腰を降ろし、盛大に引っくり返った。
椅子を蹴倒した事にも気が付いていなかったのだ。それほど、ヌンの推測したことは、衝撃的だった。
ベアトリクスはノロノロと椅子をちゃんと立てると、その上に腰を降ろした。
「ヌン、どうにかして、助けられないのかな?」
「見当もつかぬ。だが、可能性としては……」
「なにかあるの!」
ベアトリクスは身を乗り出した。
ヌンは答えた。
「私たちの時代に連れてきてしまえばいいと思う。だが、それができるのかどうか、私にはわからぬ」
ベアトリクスはがっくりと椅子に腰を降ろした。
確かにそうだ。自分たちとウィランにきてしまえば問題はない。だが、それができるのか? なんといっても、彼女がこの本に入ったのは二万年前なのだ。そしてこの魔法具は、入った者の入った時間を覚えており、物語の経過時間後に入った者を元の世界にもどす代物だ。
果たして、この魔法具を出し抜く方法はあるのだろうか?
「準備ができたわよ。それじゃ行きましょ!」
真紅のドレス姿のままもどって来たシビルが、ふたりに云った。唯一の違いは、腰に巻かれた革帯だ。帯には小さな袋がいくつかぶら下がっている。
そのシビルの隣に控えるように、メイド姿のネネ。彼女もまた服装に変化はない。だが前掛けのポケットが膨らんでいる事から、なにかしら詰め込んできたのだろう。
そしてロロはというと……。
「ロロ、なんなのよ、その恰好は」
ベアトリクスがなんとも表現しがたい顔で尋ねた。
ロロは黒装束に身を包んでいた。足には草履に脛当て。両手には手甲。そして頭には目以外を覆う覆面。どこからどうみても、三文小説の暗殺者という恰好だ。
「正装です。やはり、出し抜くためには隠密行動に優れた恰好でないと」
ロロは答えた。
だが、お陽様が照っているこの時間帯にその恰好は、返って目立つというものだ。




