序
ベアトリクスは口元に歪んだ笑みを浮かべたまま、どうしたものかと困っていた。
原因は、彼女の目の前にいるこれだ。
「このあたしを知らないとは、さてはあんた、モグリね!」
その小娘はそうのたまうなり、ずびしっと目の前の兵士に指をつき付けていた。
この小娘は、ベアトリクスの連れである。
長い銀髪を後ろに束ねた、綺麗な白い細面の顔。アーモンド形の目に尖がり耳。この特徴だけ見れば、彼女はエルフといえる。だが、決定的な違いがふたつあった。
それは、背に生えた蝙蝠羽。そして……。
「小っちゃいからって、馬鹿にしてんじゃないでしょーね!」
小娘が喚いた。
そう、彼女は小さかった。
それこそ、このウィランの大門脇にある、衛士の詰め所の机の上に乗るくらいに。
身の丈二十ミザスといったところか。
だが迫力は十分だ。
要所を覆うのみの黒革の衣装に身を包み、その左眼も、これまた黒革の眼帯に覆われている。まるで、鞭で誰彼構わずしばきそうである。
ここはウィラン大門の前に仮設設営された検問所。ここで全ての者が、徹底した荷物検査を受けている。
木製の壁の無い建物から街道に沿って、多くの人が長蛇の列を築いている。
本来、こういった荷物検査、検閲というものは、隊商や行商人などに行われるものだ。にも関わらず、修行者や観光客にまで徹底して行っているからには、きっとなにかしらの事件が起こっているに違いない。
実際、この目の前に座っている兵士はやたらとピリピリしている。
……まぁ、ピリピリしている原因は、別にあるのかもしれないが。
兵士のおじさんは、口元をピクピクとさせていた。
ベアトリクスはため息をついた。
「リュー。あんた、そんな有名なの? 違うでしょう」
疲れきった口調で、小娘、リューことリューマムに云った。
無駄だとわかってはいるが、云わないわけにはいかない。なにしろ、入都管理をしているこの兵士の顔が、みるからに怖くなっているのだ。
一応、注意をしておかねばなるまい。
ベアトリクスは蜂蜜色の髪を掻き上げ、そこで手を止めた。
これは、彼女が考え事をするときの癖だ。
とにかく、どうにかしてリューマムを止めなくては。とはいえ、こんなところで実力行使にでるわけにもいかない。
いくらなんでもそれはみっとも無さ過ぎる。
リューマムは少女に振り向くと、考える様に腕組をしてベアトリクスをじっと見つめていた。そして、やおら手をぽんと叩くや、再び兵士をずばびしっと指差した。
「このあたしの一族を知らないとは、さてはあんた、モグリね!」
ベアトリクスは額に手を当て天を仰いだ。
蜂蜜色の長い髪が、薄青色のワンピースに流れる。
あぁ、ダメだ。やっぱりこの程度じゃリューマムは止まらない。
とりあえず、『あたし』から『あたしの一族』に変わった。その進歩は認めよう。
だがしかし。
ベアトリクスの緑色の目が細まる。
「だからリュー。あんたねぇ。まぁ、さっきよりはマシになったけど。だいたいモグリってなに? なんのモグリなのよ」
「それは、このおっさんが身を持って分かっているハズよ!」
リューマムが三度指をつき突ける。
リューマムの桃色頭脳は、今日も絶好調だ。
「誰がおっさんだ! 誰が! 俺はまだ二十歳だ!」
「「嘘!」」
信じがたい事実に、ふたりの声が重なった。
どうみても、この無精髭を伸ばした兵士は、四十がらみのおじさんに見える。
たちまち自称二十歳の兵士の顔が真っ赤に変わっていく。
あ、ヤバ……。
ベアトリクスの愛想笑いに、冷や汗が加わった。
「お前らぁ……。えぇい。貴様ら牢屋にぶちこんで、きっちりと取り……」
ぼぐぅっ!
ものすごい鈍い音がして、自称二十歳の兵士が頭を押さえてうずくまった。
彼の背後から、髭面の大柄なおじさんが容赦なくぶん殴ったのだ。
「私情で勝手に犯罪者をでっちあげるな、この馬鹿者が!」
あまりの大音声に、詰め所が震えた。
周りにいた他の兵士や、入都審査を受けていた人たちが皆、手を止め、何事かとこちらを見つめている。
リューマムに至っては、驚きのあまりに尻餅を付いていた。
「し、しかし、隊長! こいつら……」
「隊長などと呼ぶな! この儂が貴様の上司と思われるだけでも恥ずかしいわ」
げしっ。
うずくまる兵士の背中を、隊長は容赦なく踏みつけた。
なにもそこまでしなくても……。
「罰だ! 腕立て伏せ二百回!」
「えぇっ! そんな! なんで俺が!」
「……五十回追加」
隊長がボソリというと、馬鹿たれ兵士は慌てて腕立て伏せを始めた。
「さてと。悪かったな、嬢ちゃん。まぁ、あんたの種族とは滅多に顔をあわすことがないからな。許してやってくれ。かくいう儂も、こうして会うのははじめてだ。インセクトウィングとは会ったことはあるがな」
「インセクトウィング! あの虫羽根の連中、なんでだかあたしたちを毛嫌いしてんのよ。あたしのことを嫌う奴はあたしも嫌い!」
噛み付くようにリューマムが喚いた。
だがその剣幕を隊長はくすくすと笑いながら眺めている。
よかった。このおじさんなら、リューマムをうまくあしらってくれそうだ。
ベアトリクスはほっとした。
「さて、じゃ、こっちも済ませるか。エレン。荷物は?」
「えぇ。問題ないですよ」
エレンと呼ばれた、白いローブの女性が答えた。肩の部分には、紋章が綺麗に刺繍されている。
「よし。それじゃ、これで終わりだ。ようこそ、ウィランへ。悪かったなぁ、必要以上に引き止めちまって」
「いえ。でも、随分と細かな審査をするんですね。なにかあったんですか?」
「このところ隣のファル・ノークの街で麻薬が出回っていてな。その関係だ」
厳しい顔で隊長が云う。
「もし、道端で薬を売るような輩がいたら、教えてくれ。いまは、かなりの数の兵士が街中にでているからな。辺りを見回せば、ひとりふたりはすぐ見つかるはずだ」
「はい。わかりました」
ベアトリクスは荷物を受け取った。
「さてと。それはさておきだ。嬢ちゃんはこのウィランへはなんの目的で? やっぱり塔での修行かな?」
「いえ。えーと、なんといいますか、仕事を探しに。できれば定住したいなと思ってるんですけど。あ、でも当面は宿屋暮らしか。あの、お薦めの宿屋さんとか教えていただけませんか?」
「宿屋か。それならいい所がある。ほら、そこ」
隊長が門の向こう。広場を隔てた正面にある通りを指差した。
「あそこの真ん中の通りをずっとまっすぐ行くと、右手に【ユニコーンの尻尾】っていう宿屋がある。そこが一番のお薦めだ。もし満室でも、ニーナ……そこの娘が、他のいいところを紹介してくれる。行ってみな。それと、仕事探しなら、まずは【智の塔】へ行くといい」
「ありがとうございます」
「ありがとー」
少女がペコリと会釈し、リューマムが千切れんばかりにぶんぶんと手を振った。
詰め所から出ると、ベアトリクスは荷物を担ぎなおした。
そしてリューマムは、指定席たるベアトリクスの肩に乗る。
「さて。やと着いたわよ。神都ウィラン」
「うん。着いたわよ。お嬢」
ふたりは目の前にそびえる、開け放たれた門を見上げた。
この門をくぐれば、そこは彼女たちが目指した新天地だ。
ふたりは仲良く大きく息を吸うと、目を瞑り、静かに吐き出した。
そしてゆっくりと目を開く。
門の向こうに見える、白い街並み。遠くに見える、三つの塔。
自然と顔がほころんでくる。
「さぁ、いくわよ」
「さぁ、いこう!」
かくしてふたりは、ウィランへと足を踏み入れた。