古歌 ~翠浪の白馬、蒼穹の真珠 外伝3~
「……妹はもう寝たようだ」
「それはそうだろう、レツィンは今日都に来たばかりなのに、王宮で明徳太妃さまに拝謁したばかりか、我が光山府に来たのだから。元気一杯の彼女も、さすがに慣れぬ長旅と異郷での緊張とで疲れたはず」
「ふふ。精一杯大人っぽく背伸びをしているが、まだまだ子どもだな、あいつも」
ひそひそと、邸宅の片隅で言葉を交わすのは二人の若い男。灯りのともった書房の窓際、酒肴を並べた卓の上に差し向かいになり、それぞれ盃を手にしている。
精悍な顔つきで浅黒い肌をした青年はサウレリといい、烏翠国の北方に住まうラゴ族を統べる族長代理である。若草色の肩掛けをかけたもう一人の名は弦朗君、柔和な面立ちと澄んだ細い眼が印象的な貴公子で、この烏翠の王族、かつ邸宅「光山府」の主人でもあった。
二年前、烏翠とラゴ族がある理由で小競り合いを繰り広げるなか、若者二人はそれぞれを代表する立場として出会い、紆余曲折を経て和解の道筋をつけることに成功した。
だがその和約は少なからず苦いものを含み、サウレリは盟約の証しとして、断腸の思いで最愛の妹を人質として烏翠に送らねばならなくなった。また、彼と弦朗君の間にも敵味方を越えた友情が育まれたが、互いに譲れぬものをも抱え、葛藤のうちに別れたのだった。
「それにしても、レツィンはそなたに似ているな。顔だけではない、あのきっぱりした物言いも、快活なところも。それに、剣舞を舞ったときに見せた、飛鳥のごとき身ごなしも。兄上から有り余る慈しみを受け、大切に育てられたのが良くわかる」
「だろう?俺の自慢の妹だ。剣術も馬術も得意で、利発な子だ。しかも、美人と来ている」
サウレリが小鼻をうごめかせると、弦朗君はこらえきれぬように笑いをこぼした。
「おやおや、あの時とまた同じことを私に聞かせるのか、族長代理。そなたは放っておけばいつまでもレツィンのことを話している」
「ははは、親馬鹿ならぬ兄馬鹿とでも言いたいのだろう」
声を立てたサウレリも、一瞬後には切なげな表情となって盃を置いた。
「だが、俺はついにあの妹の翼を折って、籠の鳥にしてしまうのだ。お前の言葉の通りにな」
「サウレリ……」
「いや、わかっている。我等ラゴ族が烏翠と共存し、生き延びるにはそうせねばならない。あいつも曲りなりにも『姫』と呼ばれる身なのだから、一族のためにはどのようなことも受ける覚悟はできている筈だ」
サウレリは人質となる妹を烏翠の都まで送ってきて、まずは弦朗君に預けて女官見習いの修業をさせ、一年後の入宮を待つ段取りになっている。
野山を馬で駆け回り、伸び伸びと暮らしていた少女を異国の後宮に、しかもおそらくは一生涯閉じ込めてしまう――サウレリは何度も自分自身に、そして妹に族長一族としての責務を言い聞かせたが、運命を甘受したかのように自分に恨み言ひとつ漏らさぬレツィンを見ていると、胸が痛んでならなかった。
「だがせめてもの救いは、そなたの手にレツィンを委ねられたことだ。いずれ彼女が仕えることになるそなたの祖母君――太妃様もお優しく道理をわきまえたお方のようだし。礼儀もろくに知らぬ跳ねっ返りだが、よろしく面倒を見てやって欲しい。厚かましい願いだが――」
「わかっている。私の命に代えても、必ず」
弦朗君の優しげな笑顔はそのままに、だがきっぱりとした口調で言いきる。
「さあ、酒もまだまだある、肴も烏翠の酒に合うものを用意した。またあの時のように、飲み比べの果し合いをしよう」
「望むところだ、今のところ一勝一敗だからな。今宵こそ決着をつけよう」
弦朗君は頷くと、立ちあがって窓を開けた。さあっと晩秋の冷気が室内に流れ込んでくる。二人が見上げた先には冴え冴えと明るい十四日の月がかかっていた。
「和約を結んだときの約束を覚えているか?族長代理。次に見えるときは戦場ではなく、月下で会いたいと。そして、互いに歌を詠もう、詩を吟じようと」
「もちろんだとも」
「天は願いを聞き届けてくださったのだな、これほど詩歌にふさわしい月をご用意くださるとは。しかも我等が戦場で遭わずに済んで――今のところは」
その「保留つき」の感慨を、サウレリも万感の思いで聞いていた。烏翠とラゴの和約が破れ、再び弦朗君と戦場で見えることになれば、今度こそ彼を殺さねばならない――あの時、烏翠に帰る王族を見送りつつ、そう彼は覚悟したのだった。幸い、両者の関係は小康状態を保っているとはいえ、暴君との評をもっぱらにする烏翠王のもとではこの先どうなるかはわからない。
サウレリの沈鬱な表情に気づいたのか、弦朗君はことさらに励ますかのような声を出した。
「そんなに浮かぬ顔をしていると酒でも歌でも私に勝てぬが、それでいいのか?そなたが詠まないならば、私から初手で詠もう。といっても、最初は烏翠に伝わる古歌で小手調べをするかな」
そしてひと呼吸おき、月を眺めながら詩句を紡ぎ出す。
月下、残菊の色は霜によりていよいよ白し
侍童、酒壺を抱きて紅葉の下で眠る
雲上、別鶴は往きて銀漢の橋を渡れり
仙女、機を織り錦繍もて山河を覆わん
「いかにも古き良き歌だな、そなたが好むのもわかるような」
サウレリが素直に賛意を表すと、弦朗君は心の底から嬉しそうな表情になった。
「となると、次は俺の番か。では……」
若草色の蝶は谷を渡りて故郷に帰り
孤月の影を抱きて裏葉にとまる
ひらひら舞い戯れる相手はありやなしや
羽根を広げて包む妻はありやなしや
「なっ……」
耳を傾けていた独身の弦朗君の頬に、ぱあっと赤いものが散った。
「人をからかって済むと思って……にやけるそなたとて、未だ独り身であろう?」
いつも冷静な彼に似合わず、憤然として盃をサウレリに突き付ける。
「もう容赦しない、酔い潰して恥をかかせてくれる」
サウレリは挑むように、盃の縁をぺろりと舐めた。
「だったら返り討ちにするまでのことだ。お上品な烏翠の酒などで、この蛮族が潰されるとでも?」
鯉の甘露煮を次々と口のなかに放り込んで相手を見据える。受ける弦朗君はくすりと笑った。
「でも、良かった。妹御を手放す辛さをこのひと時でも癒すことができれば……」
「いや、こちらこそ礼を申す。弦朗君、兄になったつもりであいつを教導してくれれば。そなた、確か妹はおらぬのだろう?」
サウレリの言葉に、相手はふっと寂しげな表情になる。
「ああ……そなたはやはりそうだ。私を諱では呼ばない」
「それは、お前が言った通りにしているだけだぞ」
――二度と私を諱で呼ぶな。
――もう、あなたを諱で呼ぶことはしない。
「わかっている。そうだな、そなたは律儀で誠実だから私の言葉を守ってくれている」
友ではあるが、味方でもない。敵でもあるが、肝胆相照らす仲でもある。二人は魅かれ合い友情を育みつつも、結局はそのような関係を選択した。いや、他に選ぶ余地はなかった。片や一族を統べる者として、片や使者に立った王族として、互いの立場を理解し共感しつつもなお譲れぬものがあったからだ。
二人の間の空気を変えるかのように、弦朗君は身体をぶるっと震わせる。
「それにしても、私達はあまり賢くはないな。いくら月が美しいとはいえ、窓を全開にして酒を飲むなどと……」
両人とも毛織物を羽織っていたとはいえ、かなり冷え込んでいた。窓を閉めようとする相手の手首を、思わずサウレリは掴んで押さえる。
「まあ、良いではないか。俺は明朝にはここを発ってラゴに帰る。まだ酒も飲み終わっていないのだから、そのままで。酔った我等が《《よしなしごと》》を言った言わないで喧嘩にならぬとも限らぬ、この月に証人になってもらうのだ。いいだろう?」
****
深更になって、二人は名残惜しく席を立った。本当は夜を徹して語り合うつもりだったが、翌日サウレリはラゴまで帰らねばならないし、弦朗君もまた都の次官として登庁する必要があったからである。
「何、俺は馬の上で眠れば良いが、お前は休まねば仕事に差し支えよう」
そんなわけで、弦朗君は自分の寝室の続き部屋に床を整えさせ、客人を案内した。
だが、サウレリは着替えて寝台に上がったものの、眼が冴えてなかなか寝付けなかった。その理由は、何も枕が変わっただけではない。
――ついに言い出せなかった。
妹とともに都の瑞慶府に入って、一番はじめに眼にしたもの。それは、高官の処刑の現場だった。胴から離れて転がっている首の前で、遺族らしき少女が身じろぎもせず座っていた。しかも、王による官僚の粛清や処刑は頻繁に行われているらしい。
――王の暴政ぶりは、伝え聞く以上だな。
改めて、難しい立場にいる弦朗君が気になった。サウレリはこの若い王族がその血筋と人望ゆえに現王に警戒されていること、そして実際に、かのラゴ族の紛争にかこつけ彼を亡き者にしようとしていたことを知っていた。
――レツィンを預けることが、彼の新たな重荷にならねばいいが。そして、無事に嵐をやり過ごして生き延びてくれればいいが。
この二年、遠くラゴの地にいても、蓬莱街道の風に乗り運ばれてくるさまざまな噂や知らせに耳を澄ませていた。そして、それらの中に「弦朗君」の名が出てこないことに、サウレリは安堵して過ごしていたのだった。
ラゴ族の客人はふうっと息をついて寝がえりを打つと、眠りのしじまに引き込まれていった。
――レツィン、レツィン。よく出来たな。じゃあ、今度は的をもうちょっと離してみるから、同じように射てみるんだぞ。
――はい、兄さん。でも、兄さんみたいに百発百中になれればいいのに。
――ははは、すぐには無理さ。でも毎日稽古するんだ、剣でも弓でも乗馬でも。そうすればお前もいずれ俺を抜いてラゴ族一の腕の持ち主になれるぞ。
――そう?じゃあ、毎日練習する!
サウレリが懐かしい夢から現実に引き戻されたのは、誰かの声が聞こえたように思ったからだった。ラゴの戦士としての聡い耳が、ごく小さな呻きを拾ったのである。
――空耳?いや、違う。
眼が覚めたサウレリが窓を見やると、うっすらと白んでいた。明け方にほど近く、もう少しすれば朝の鳥が鳴き出すだろう。
喉の渇きを覚え、起き上がって枕元の水差しに手を伸ばそうとしたとき、扉がそっと開く音が響き、続いてかすかな足音も聞こえてきた。
「――顕秀?」
思わず彼の諱を呼んでしまったサウレリは、誰に聞かれているわけでもないのに口を押さえた。それから、手早く服を身に着けて自分も部屋を出る。
裏庭に降りて薄暗がりに眼を凝らすと、人影があった。井戸端で釣瓶の音を響かせ、その者は水を汲んでいる。しばらくサウレリは遠くから相手を見守ったのち、頃合いを計って呼びかけた。
「弦朗君」
振り返った王族はもろ肌を脱ぎ、汗を拭き身体を清めようとしていたのか、手ぬぐいを持っていた。
「サウレリ、どうした?私が起こしてしまったのか?であれば、すまない」
「お前こそ――呻き声を聞いたが、悪い夢でも見てうなされたのか?」
サウレリが近寄ると、顔をこわばらせた弦朗君が一歩退く。
「もしや、頻繁に悪夢でも見てるのか」
「……」
「寝汗をかいているじゃないか、背を拭いてやろう」
何気なく手ぬぐいを受け取ろうとしたサウレリの右手を、弦朗君は音を立てて払った。サウレリも不意のことで驚いたが、鋭い目つきになっていた弦朗君も我に返ったのか、「すまぬ」とだけ呟き、俯いた。そして相手の視線に耐えられないのか背を向け、井戸の縁に両手をかける。
サウレリは弦朗君の背を眼前にして、胸を突かれた。右の肩甲骨にはっきりと残る矢傷。忘れもしない、二年前の紛争時、殺されるとわかっていてなお烏翠に帰ろうとした弦朗君を引き留めるべく、サウレリが自ら矢を放ってつけた傷だったからである。
――あの時、いっそ心の臓を射抜いていれば、彼は悪夢を見ずに済んだだろうか。
思わず傷にのびた自分の指を引っ込め、サウレリは首を横に振った。
「弦朗君。俺は一族を統べる者として、そしてお前は一つの府を構える王族として、それぞれの責務を背負っている。本当は、レツィンともどもお前を烏翠から連れ出してラゴに帰りたいくらいだが、それは叶わぬ夢だ。ともかくも、生きていてくれ。どのような状況になっても、生きていてくれ。俺はお前と二度と戦場では会いたくないし、お前への弔歌を、蓬莱街道の風で聞きたくもない」
向き直った弦朗君は、弱々しく微笑んだ。
「わかっている。この邸には代々仕えてくれた者達がいる。そしてレツィンも私のもとに来た。私は彼らを守らねば……」
「弦朗君、それだけではない。レツィンや俺のためだけではない、お前自身のために生きて欲しい。嵐がどんなに吹き荒れたとしても、いつかは風雨もやみ晴れ間も出る。そなたと俺は烏翠とラゴそれぞれを支え盛り立て、妻を迎えて子をもうけ、またこのようにして酒を酌み交わして笑うのだ。な?」
――王族としてしか生きられぬのはわかっている、それでもひとりの人間としての幸福を、できればお前には享受してほしい。
そして、都の東陽門に掲げられていた古詩を詠じてみせる。
去る者の踏む道は遥かなる天空に懸かり
行く者の渡る橋は遠く龍門へと消える
我はただこの楼上より見送り
王城暁の太鼓を凝然と聞くのみ
心は半分だけこの門に懸けていかれよ
さすれば疾く戻れると人はいう
君帰り来たらば杯を手に語り明かそう
「俺とお前はいつでも敵味方に別れる身ゆえ、遠く異郷にあって互いを思い出すだけの存在でいようと誓った。だが、いま俺はお前のために、心を半分あの門に懸けていく。だから、またきっと月下で会える。いや、会えるように全力を尽くそう。ラゴと烏翠の好が続くのであれば、そなたとは戦場で遭わずに済むのだから」
「サウレリ……」
ありがとう、と弦朗君は呟き、肌を清拭して寝衣を着直した。そして暁の光のなか、二人はゆっくり歩み寄りしかと抱き合った。ともに身体は寒気にさらされ冷え切っていたが、そのようなことは問題ではなかった。
「顕秀、お前の幸運を祈っている」
「気持ちはありがたく受け取るが、どさくさに紛れて私の諱を呼んだな」
「まだ意地を張るのか。そんな風だから、あの時も俺に肩を射抜かれるのだ。それより、俺はお前の幸運を祈ったのにお返しはないのか。随分と冷淡な王族だな」
「まだ酔ってるのか、どうしようもない族長代理だ。お返しがないと何もせぬのか?それに、私がそなたの幸せを願っておらぬとでも?」
互いの耳元で言い争いをする若者二人の姿が、暁光に照らされてくっきりと浮かび上がった――。
【 了 】
****
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
なお、本作は「戦場を渡る蝶 翠浪の白馬、蒼穹の真珠外伝2」の続きに位置づけられる作品で、また、サウレリがレツィンを送ってくるエピソードは「翠浪の白馬、蒼穹の真珠」本編に含まれています(第1~6話、特に第5・6話を参照されたし)
もし興味を持たれましたら、合わせてご一読賜りますよう。